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2015年 06月 21日

注目近刊:『吉本隆明全集9[1964‐1968]』晶文社、など

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吉本隆明全集9[1964‐1968]
吉本隆明著
晶文社 2015年6月 本体6,300円 A5判変型上製568頁 ISBN978-4-7949-7109-8

帯文より:人と社会の核心にある問題に向けて、深く垂鉛をおろして考えつづけた思想家のすべて。政治的混迷の季節に虚飾にまみれたマルクスを救出するという緊張のもと書かれた『カール・マルクス』と、「自立」を基礎づける諸論考を収録。

★まもなく発売(6月26日発売予定)。第6回配本です。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。間宮幹彦さんによる巻末解題によれば、一番最後に収められた「略年譜」が全集初収録となるようです。投げ込みの「月報6」には、鹿島茂さんによる「違和感からの出発」と、ハルノ宵子さんの「小さく稼ぐ」が収められています。

★鹿島さんは「言葉を使うということは「他人の言葉」を使うことにほかならない」(2頁)と指摘したあと、こう述べておられます。「大部分の人は「他人の言葉を使う」ということになんの違和感も感じない。違和感を感じなければ感じないだけ、他人の言葉を上手に話せるし、上手に書くことができる。/ところが、ごくまれにだが、「他人の言葉を使う」ことに強い違和感を感じる人が現れる。他人の言葉で自分が言いたいことを言おうとすると、なにか引っ掛かるものを感じ、本当に自分が言いたかったのはこんなことじゃないと思うのだ」(同)。吉本隆明は「「他人の言葉」では表現しえない「本当のこと」を言おうともがいた詩人であり、その方法論を著作に応用した」(3頁)のだ、と鹿島さんは書きます。

★こうしたいわば独立独歩の姿勢を、本巻の随所から強く感じる読者は多いのではないかと思います。たとえば1965年発表の「自立の思想的拠点」には次のような文章があります。

「〈プロレタリアート〉とか〈階級〉とかいう理念の言葉が、生命をふきこまれるためには、この言葉の現実にたいする水準と、幻想性にたいする水準とがはっきりと確定されていなければならない。ルカーチに象徴される古典マルクス主義の哲学では、はじめから生命をふきこむ余地がない言語思想が支配しているのである。/わたしが、これはおかしいこれはおかしいと感じながら批判的にかかわってきた世界思想は、事実と言葉との密着という詐術によってしか成立しないものであった。これに気づいたとき、欠陥を対象とすることは、たとえ批判または否定であってさえも、対象的欠陥にしかすぎないことを体験的にしったのである。すくなくともわたしの言語思想が自立の相貌をおびて展開されたのはそれ以後である」(「自立の思想的拠点」157頁)。

★自立の姿勢は、1961年に吉本さんが創刊した雑誌『試行』にも随所に現れています。

「マス・コミよりも、ディス・コミのほうがよい、広告するよりも、しないほうがよい、多数の浮動的な読者によまれるよりも、小数の定着した読者によまれるほうがよい、企図的な編集よりも、自立した主題の追究のほうがよい、知られるよりも知られないほうがよい、といった無数の〈転倒〉を課題として自らにつきつけながら出発して、『試行』もここで20号に達しました」(「中共の『文化革命』についての書簡――内村剛介様」333頁)。

「『試行』はけっしてアカデミックな学者に退化しない。たえず生々しい問題意識をもって現在の情況をつきぬけるためだけに研鑽するのである」(『試行』後記〔第二一号〕534頁)。

★アカデミシャンでも党員でもなく在野の一個人として考え抜くこと。抽象的な議論を振りまわして他人事のように日和見で語るのではなく、大衆の一人として自分自身の今を生き抜くこと。いちいち細かくは引用しませんが、これが本書より読み取れるメッセージです。ここに吉本さんのアイデンティティがあるように感じます。

「死ぬべき文学の思潮を死なせないためには、個々の文学者の持続的な努力によるほかはないのである。どんな文学的孤立にも、マス・コミからの孤立にも耐えて、じぶんを確かめてゆく持続力だけが、現実離れの恐怖に耐えうる唯一の道であることは余りに自明である」(「戦後思想の荒廃」230頁)。

「わたしは、個人がたれでも誤謬をもつものだということを、個性の本質として信じる。しかし、誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとするものをみると、憎悪を感じる。なぜならば、それは人間の弱さを普遍性として提出しようとしているからであり、弱さは個人の内部に個性としてあるときにだけ美しいからだ」(「カール・マルクス マルクス紀行」36頁)。

「誤謬は、自己自身の脳髄のなかにしかないので、つまらぬ本をかいて同類の箸にも棒にもかからぬ連中にほめそやされても、自惚れるべきではない。批判に価しないから批判しないだけだ、ということもこの世にはありうるのである」(「カール・マルクス マルクス紀行」58頁)。

「知識について関与せず生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐにわかる。市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである」(「カール・マルクス マルクス伝」66頁)。

★吉本さんのスタンスというのは単純な左派に分類しうるものではありません。特に1965年に発表された「戦後思想の荒廃」は、実に半世紀前の文章ながら、戦争と平和のはざまに宙吊りになっていると言っていい2015年の私たちに「自立して考えること」について、今なお示唆を与えてくれるように思えます。

「たんに一思想家が進歩的か保守的か革命的かが問題なのではなく、かれが如何に深い根柢をもつか、如何に何ものかの象徴であるかという位相で、その重要さ、貴重さを評価される理由があるのだ。つまらぬ進歩思想家よりも、すぐれた保守思想家が貴重であるという意味は、思想の内在的な領域では不滅の根拠をもっている。おなじように、マス・コミ現象の内部で、〈戦後民主主義〉を擁護するか、絞殺するかという問題は、何ものをも意味していない。もしも、絞殺されて惜しまれるような理念が存在するとすれば、それは文化現象より以前に、現実的な生活の領域で絞殺された後に、文化の領域にあらわれたものであることを、はっきりとさせておいた方がいい。/そうでないと、もともと最後にしか絞殺されることのない学者の学問の自由の弾圧で、権力の弾圧史を考察しようとしたり、もっとも無意味な学者の抵抗で、権力への抵抗史を論じたりする現在のような倒錯におちいってしまう。学問の自由が奪われたなどと学者が泣き言をいうときは、それよりもはるか以前に生活者の自由は奪われており、ただ声を出さないだけだということを知っておくのはよいことである」(「戦後思想の荒廃」232-233頁)。

「現在の世界の情況では、戦争=平和のはざまに懸垂された状態で生きてゆくことは、知識人にとっても組織的な労働者にとっても辛い困難な課題を強制している。現在の強制的な平和は人間にたいして、どんな生き方も卑小であり、どんな事件も卑小であり、それを出口なしの状態で日常的に耐えながら受けとめ、そこから思想の課題を組みあげるということを強要している。どのような無気力な現状肯定の思想にとっても、どのような気力ある変革の思想にとっても、卑小であるがゆえに一層困難な状態を強いている。この逆説的な情況に耐えられず、たとえ他国の出来事であり、遠隔と複雑さから真相がけっしてうかがいえないといった事件であっても、その主題に逃亡したいという機制がうまれ、ジャーナリズムを賑わし、そこに自己の〈平和〉理念とか〈反戦〉理念とかのハケ口をもとめようとする傾向を生みだし、賑やかなベトナム祭りや原水禁祭りになだれこむ知識人が存在することもやむをえない弱小な思想の表現というべきである」(「戦後思想の荒廃」234-235頁)。

「わたしが、ひとりの知識人としてじぶんを自己限定するとすれば、なによりもさきに国家権力について思いをめぐらすだろうし、生活人としてじぶんを自己限定するとすれば、明日の食料や生活についてかんがえるだろう。そして「人類の運命」というものは、現在のところ国家権力への考察を媒介としないで考えられないこと、かんがえようとすれば架空の考察、せいぜい異常な想像の図絵におちいるほかないとかんがえざるをえないだろう。また、わたしが「日本原水爆被害者団体協議会」の組織的一員であったと仮定したら、知識人として機能している大江健三郎やわたし自身や政党などに協賛を依頼するような無残なことをせずに、自力で被爆資料の収集と出版をやりとげるだろう。また、わたしがひとりの孤立したふつうの被爆者だったらこの社会に誰とも区別されず、さわがれもせず生きそして死ぬという生涯を念願するだろう。わたしが、ベトナム戦争介入反対というスローガンをかかげることがベトナム人民への連帯であるとは考えないように、原爆を体験した人々について思いだし、その事業に協力することが、被爆者への連帯とはかんがえないことは自明のことにすぎない。そうかんがえることは政治的あるいは知識的な第三者がたどる決定したコースであることは、戦後二十年の思想体験によって熟知されているからである」(「戦後思想の荒廃」242頁)。

★〈吉本隆明を読む〉ことのアクチュアリティは、特定の組織や派閥や主義主張に所属したり帰属したりせずに戦おうとする人々にとって決して失われることのない価値として見出され続けていくように思えます。逆に言えば所属や帰属に縛られている以上はけっして本当には〈身読〉できないのが吉本隆明という思想家なのでしょう。今どれくらい読者がいるかどうかが問題なのではなく、晶文社版全集が継続されているという事実がいずれ重大な意義を後世に残すことになるのだろうと感じます。

「書物は、読むたびにあたらしく問いかけるものをもっている。いや、たえずあたらしく問いかけてくるものをさして書物と呼ぶといってもおなじだ。書物がむこうがわに固定しているのに、読むものが、書物に対して成熟し、流動していくからである。書物のがわからするこの問いかけが、こういう流動にたえてなおその世界にひきずりこむ力をもち、ある逃れられないつよさをもって、読むものを束縛するとき、わたしたちは、その書物を古典と呼んでいいであろう」(「カール・マルクス マルクス紀行」29頁)。

★なお、第9巻において出版人にとってもっとも印象的なテクストは間違いなく、春秋社編集長の岩淵五郎さんの逝去に際して書かれた2つの追悼文ではないかと思います。「じぶんのこれからの生が半ぶん萎えてゆくのを感ずる」(「ある編集者の死」457頁)。「〈現存するもっとも優れた大衆が死んだ〉」(「ひとつの死」462頁)。岩淵さんは1966年2月4日の全日空羽田沖墜落事故(乗員乗客133人全員が死亡)でお亡くなりになりました。作家=編集者の付き合いという以上に、人間同士の付き合いとして大切な相手だったことが窺えます。次回配本は第10巻「1965‐1971:共同幻想論/心的現象論序説/春秋社版『高村光太郎選集』解題」で、今年9月刊行予定とのことです。

+++

性からよむ中国史――男女隔離・纏足・同性愛
スーザン・マン著 小浜正子+リンダ・グローブ監訳 秋山洋子+板橋暁子+大橋史恵訳
平凡社 2015年6月 本体2,800円 A5判並製320頁 ISBN978-4-582-48221-8

帯文より:儒教的慣習うあ一人っ子政策の下での女児殺害といびつな男女比、独身男性や自殺する女性の多さ、アイデンティティの表明としての纏足や辮髪、同姓愛や異性装をめぐつ価値観の変遷――。歴史家が見てこなかったこと。政治や法、医学、芸術、スポーツまで、西洋的概念では捉えきれない、性の視点から見渡す伝統中国から近現代中国への変化。

目次:
日本語版への序
はじめに 性に歴史はあるのか
序章 〈閨秀〉と〈光棍〉
第一部 ジェンダー、セクシュアリティ、国家
 第一章 家族と国家――女性隔離
 第二章 女性の人身売買と独身男性問題
 第三章 政治と法のなかのセクシュアリティとジェンダー関係
第二部、ジェンダー、セクシュアリティ、身体
 第四章 医学・芸術・スポーツの中の身体
 第五章 装飾され、誇示され、隠蔽され、変形された身体
 第六章 放棄される身体――女性の身体と女児殺し
第三部 ジェンダー、セクシュアリティ、他者
 第七章 同性関係とトランスジェンダー
 第八章 創作のなかのセクシュアリティ
 第九章 セクシュアリティと他者
終章 ジェンダー、セクシュアリティ、公民性
おわりに ジェンダーとセクシュアリティは歴史分析に有益か
原注
訳注
解説(小浜正子)
参考文献
索引

★まもなく発売(6月26日発売予定)。原書は、Gender and Sexuality in Modern Chinese History (New York: Cambridge University Press, 2011)です。著者のスーザン・マン(Susan L. Mann)はカリフォルニア大学デイビス校歴史学部の名誉教授。ミシガン大で学士、スタンフォード大で修士と博士を得たのち、ノースウェスタン大、シカゴ大、スタンフォード大、カリフォルニア大サンタクルス校や同大デイビス校で教鞭を執られました。ご専門は中国近現代史です。論文単位では翻訳がありましたが、単独著書が訳されるのは初めてかと思います。単独著は4冊あって、今回訳されたのは最新作になります。幾度か来日された経歴をお持ちで(直近では2000年)、1985年上半期にはお茶の水女子大の客員教授をおつとめだったこともあります。同姓同名が多いので洋書を探す際には注意する必要がありますけれども、訳書では紛らわしいものはありません。

★著者は「日本語版への序」でこう書いています。「わたしの知る限りでは、欧米の研究書の大部分、そして教え子の学生たちが目にする一般書のほとんどが、中国史における女性の位置について大きな誤解を生じるような書き方をしていました」(4頁)。「聖書に書かれた罪が存在しないところでは、セクシュアリティはどんなふうに文化的に形成されるのか。私は学生たちに、中国のケースを通してそれを理解させたかったのです」(5頁)。大学生向きに書かれた本書で著者は「異なる文化的背景におけるセクシュアリティとジェンダーの関係についての研究は、西洋的近代を普遍的モデルとする考え方に対する異議申し立てにもなる」(「序章」44頁)という信念のもと、丹念に史料にあたっておられます。日本の読者は纏足や『金瓶梅』については多少聞き及んでいるでしょうけれども、本書が紹介するのはさらに幅広い文化史です。現代中国のトピックも色々と取り上げられているので、性をめぐる中国史の変遷と現在を学ぶことができます。たいへん啓発的で貴重な概説書です。

★「古代中国の思想家たちが性欲に強い関心を注いでいたということや、性的行動に統制や規定を課す動きが朝廷につねにあったということには関心が払われていない。歴史家の目はそこに向けられてこなかった。/大学の講義の場でも、性科学には居場所がない。中国研究では、ジェンダーとセクシュアリティの歴史的構築というようなテーマについて、関心が集まりはじめたばかりといったところだろう、教育というものの目的は、文化を越えた知識を広く身につけたグローバルな市民を創り出すことにあるのだということがよく言われる。性は、現代社会において最も魅惑にあふれ、文化的な価値づけがおこなわれている領域である。性を関心対象から外してしまえば、われわれの視野は狭くなり、特定文化にのみ縛られてしまうことになる。異なる文化においてジェンダーとセクシュアリティがどのように扱われているかを知ることは、世界に生きるということの多様性に対して目を向けるということに等しい。〔・・・〕セクシュアリティについての批判的歴史分析をおこなうことの有益さは、心を開いて自由な精神をたずさえ、自文化の抱える危険な制約や輝かしい可能性についての内省的な気づきを得ることにあるのだ」(「おわりに」263-264頁)。

# by urag | 2015-06-21 23:13 | 本のコンシェルジュ | Comments(0)
2015年 06月 19日

本日取次搬入:『年報カルチュラル・スタディーズ vol.3』(航思社)に書評掲載

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カルチュラル・スタディーズ学会の年刊学会誌『年報カルチュラル・スタディーズ』第3号(特集〈戦争〉)に、弊社3月刊行のジェームズ著『境界を越えて』の書評「世界史と芸術論を架橋する革命的クリケット文化批評」が掲載されました(228~234頁)。評者は大阪大学文学研究家助教の赤尾光春さんです。「競技やスポーツがもつ社会史的意義やその政治性についてこれほど革命的に論じた本にはお目にかかった試しがない」と評していただきました。

『年報カルチュラル・スタディーズ』第3号は本日取次搬入とのことなので、来週から書店店頭に並び始めるのではないかと思われます。同誌は今号から航思社さんより発行発売されます。目次詳細は誌名のリンク先をご覧ください。主な取り扱い書店さんもリンク先でご確認いただけます。安保法案が拙速に押し通されようとされている昨今、今回の「戦争」特集号は様々な示唆を与えてくれるのではないでしょうか。第4号は来年6月に発売予定だそうです。

一方、「週刊読書人」(2015年6月12日付)に、弊社3月刊行の阿部将伸著『存在とロゴス――初期ハイデガーにおけるアリストテレス解釈』の書評「読み手へを思索へと誘う――アリストテレス解釈について詳細な見取り図を提示」が掲載されました(4面)。評者は兵庫教育大学教授の森秀樹さんです。「本書は、豊饒さの故に見通しがきかなかったアリストテレス解釈について詳細な見取り図を提示することに見事に成功している」と評していただきました。

# by urag | 2015-06-19 17:09 | 広告・書評 | Comments(0)
2015年 06月 17日

リレー講義「文化を職業にする」@明星大学

先週土曜日は、明星大学日野キャンパスにお邪魔し、リレー講義「文化を職業にする」の第2回の授業で発表させていただきました。今年で4回目の参加になりますが、今回はテーマを「独立系出版社の挑戦」と題し、学生時代の就職活動から就職浪人、出版社アルバイトを経て社員採用、2回の転職、そして独立から創業15年へと至る個人的体験をお話ししました。ご清聴いただきありがとうございました。また、担当教官の小林一岳先生に深謝申し上げます。受講された皆さんとどこかで再会できることを楽しみにしています。レジュメにメアドを記しましたので、よろしければご一報ください。今後ともどうぞよろしくお願いします。

2012年6月16日「文化を職業にする」
2013年6月15日「独立系出版社の仕事」
2014年6月07日「変貌する出版界と独立系出版社の仕事」
2015年6月13日「独立系出版社の挑戦」

# by urag | 2015-06-17 12:37 | ご挨拶 | Comments(0)
2015年 06月 14日

注目新刊と近刊:『ユング『赤の書』の心理学』創元社、ほか

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ユング『赤の書』の心理学――死者の嘆き声を聴く
ジェイムズ・ヒルマン+ソヌ・シャムダサーニ著 河合俊雄監訳 名取琢自訳
創元社 2015年6月 本体3,600円 A5判上製290頁 ISBN978-4-422-11592-4

帯文より:『赤の書』の本質を読み解きながら、「『赤の書』以降」の来るべき心理学の姿を展望する。C・G・ユングによる空前の書『赤の書』の刊行を機に行われた元型的心理学の創始者と『赤の書』編者による連続対話の全記録。死者、イメージ、歴史、芸術、キリスト教などのテーマを導きとして『赤の書』の圧倒的な内容がはらむインパクトや可能性を明らかにする。

★発売済。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。ユングの『赤の書』(ソヌ・シャムダサーニ編、河合俊雄監訳、田中康裕・高月玲子・猪股剛訳、創元社、2010年)、『赤の書 テキスト版』(創元社、2014年)に続く関連書の刊行です。ユング派の重鎮ヒルマンと『赤の書』の編訳者シャムダサーニによる全部で15回の対話が収録されており、人名および事項索引を備え、巻末には訳者の名取琢自さんによる解題が付されています。

★シャムダサーニの序文によれば、「2009年10月、ジェイムズ・ヒルマンと私はC・G・ユングの新刊となる『赤の書』出版というまたとない機会を得て、連続した対談を行うことになった。2010年4月にはカリフォルニア州ロサンゼルスのハマー美術館の招待を受けて、公開での対談を行った。その後、同じ年の秋と翌年の夏、それぞれコネチカットとニューヨークで対談し、さらに検討を続けることとなった。本書はこれらの対話の筆記録から生まれたものである。同じモチーフやテーマが何度も現れ、違う角度から検討されているが、略さずにそのまま収録した。草稿のテキストには両者が目を通し、ヒルマンが2011年秋に亡くなる直前に最終版原稿が仕上がった。対話中に言及された著作の出典に関しては私が注を加えた。その他の加筆は編集時の字句修正のみにとどめた」とのことです。

★周知の通り『赤の書』は大判の本ですが、その大きさについて二人はこんな風に話しています。

シャムダサーニ「ノートン社のジム・メアーズ氏だと思うのですが、彼が、この書を非常に重くするという偉大な仕事をされました。これは通勤電車のブラック・ベリーやiPodのようなものと競合しようとする書物ではないのです。海水浴に持っていけるような本ではありません。〔・・・〕読むためのイーゼルをしつらえることを要請する作品なのです」(対話第1回、33頁)。

ヒルマン「人間の歴史の重さは、かなりの重さであって、たぶんだからこの書がこんなに重くて、こんなに大きな本になったのでしょう。これは大きな本で《なければならなかった》。ご存知のように、ハンス=ゲオルク・ガダマーにはこのような文があります。彼は現代の偉大な思想家の一人で、自身も100年ほど生きたのですが、ナポリの哲学研究所で講演し、こう私が書き留めたことを言いました。「偉大な神秘は、過去にあったものの刷新が繰り返し、絶えず行われていることにある。文化は記憶に置いて不滅のものとなり、大きな仕事は、記憶の再覚醒である」と。どうです、これが『赤の書』がしていることではないでしょうか?」(第2回、45頁)。

★ヒルマンは別の箇所で次のようにも述べています。「死者が戻ってこなければならない」というのは二人の対話における大きなテーマです。

ヒルマン「いま私たちは歴史上、ユングとは別の時間にいますし、この別の時間では帰還して持ってこなくてはならないものは、ユングがこれらの特別な対話で経験したことや、『赤の書』という仕事だけではなく、人間の歴史の重みであり、これは不可欠なものですし、そしてそれはすなわち死者なのだということです。死者が戻ってこなければならない」(第3回、76頁)。

ヒルマン「いまやこの書は極めて重要不可欠です。それは、その扉を、あるいは死者の口を開くからです。ユングは私たちの文化の中で、深く失われた一つの部分に注意を向けるように求めています。それが死者の領域なのです。この領域は個人的な祖先だけの領域ではなく、死者の領域であり、人間の歴史の重みの領域であり、《本当に》抑圧されたものの領域なのです。〔・・・〕私たちは死者とともに生きている世界に生きており、死者たちは私たちの周りに、私たちとともにいて、彼らは私たち《である》のです。人物像たち、記憶たち、ゴーストたちは、みなそこにいて、〔・・・〕」(第4回、92頁)。

★こうしたヒルマンの発言を受けて、シャムダサーニはこう答えます、「多くの点から見て、これをユングの『死者の書』だと呼ぶことも可能でしょう」(第4回、93頁)。それにヒルマンは同意し、「死者の口を開けること」、「死者と生きること」(第4回、94頁)が課題だと答えます。二人は続けます。ヒルマン「死者たちが私たちに残したもの。私たちに遺産として残されたもの」。シャムダサーニ「このことが、私たちが取り組むべく残されたものなのです」(同)。『赤の書』はそれ自体としては読み解くのが容易ではない本ですが、今回出版された二人の対話は読解の鍵を示してくれるものだと思います。

◎ジェイムズ・ヒルマン(James Hillman, 1926-2011)既訳書
2004年07月『ユングのタイプ論――フォン・フランツによる劣等機能/ヒルマンによる感情機能』マリー=ルイーズ・フォン・フランツ共著、角野善宏監訳、今西徹・奥田亮・小山智朗訳、創元社
2000年09月『老いることでわかる性格の力』鏡リュウジ訳、河出書房新社
1999年08月『世界に宿る魂――思考する心臓(こころ)』濱野清志訳、人文書院
1998年10月『夢はよみの国から』實川幹朗訳、青土社
1998年04月『魂のコード――心のとびらをひらく』鏡リュウジ訳、河出書房新社
1997年03月『魂の心理学』入江良平訳、青土社
1993年09月『元型的心理学』河合俊雄訳、青土社
1991年04月『フロイトの料理読本』チャールズ・ボーア共著、木村定・池村義明訳、青土社
1990年06月『内的世界への探求――心理学と宗教』樋口和彦・武田憲道訳、創元社(ユング心理学選書 19)
1982年11月『自殺と魂』樋口和彦・武田憲道訳、創元社(ユング心理学選書 4)

★ここ最近では『ユング『赤の書』の心理学』のほかに、以下の新刊や近刊との出会いがありました。

日本と中国、「脱近代」の誘惑──アジア的なものを再考する
梶谷懐(かじたに・かい:1970-)著
太田出版 2015年6月 本体2,200円 B6判変型並製360頁 ISBN978-4-7783-1476-7

戦後日本の社会思想史――近代化と「市民社会」の変遷
小野寺研太(おのでら・けんた:1982-)著
以文社 2015年6月 本体3,400円 四六判上製352頁 ISBN 978-4-7531-0326-3

西湖夢尋
張岱著 佐野公治訳注
東洋文庫 2015年6月 B6変判上製函入382頁 ISBN978-4-582-80861-2

★『日本と中国、「脱近代」の誘惑』は発売済。目次は書名のリンク先をご覧ください。リンク先でYONDEMILLによる立ち読みも可能です。「朝日出版社第二編集部ブログ」で2012年秋から開始され、昨年に太田出版web連載ブログ「路上の人」に引き継がれた連載「現代中国:現在と過去のあいだ」が全面改稿の上、書籍化されました。帯文はこうです。「日中の安全保障上の緊張と、いま復活しつつある脱近代の思想「アジア主義」は無縁でない! グローバル資本主義にかえて「脱近代による救済」を訴え、「八紘一宇」や「帝国の復権」が露出する時代に、社会の息苦しさの原因を「外部」に求めない思想と行動の探究。現代中国経済研究の俊英が、日中・東アジアの現在と未来を語った渾身の論考」。著者の梶谷懐さんは神戸大学経済学部教授。ご専門は現代中国経済論で、単著に『現代中国の財政金融システム――グローバル化と中央-地方関係の経済学』(名古屋大学出版会、2011年)、『「壁と卵」の現代中国論――リスク社会化する超大国とどう向き合うか』(人文書院、2011年)があり、今回の新刊が3冊目になります。「現在の東アジア情勢において、近代的な価値観の多元性を前提とした問題解決を図ることこそ最重要の課題」(38頁)だと指摘する著者は、日本が「一国近代主義」から脱却すべきだと説きます。年々亀裂が深まりつつあるように見える日中関係を根本的に考え直す上で様々な示唆を与えてくれる必読の新刊です。

★『戦後日本の社会思想史』はまもなく発売(6月18日予定)。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。東京大学大学院総合文化研究科学術研究員で埼玉大学ほかで非常勤講師をおつとめの小野寺研太さんが東大に提出された博士論文「戦後日本の市民社会概念史――「近代性」のプロブレマティーク」に大幅な加筆修正が施されたものです。帯文に曰く「自由な市民がどのように社会と折り合いをつけて生きるか? 本書は、戦後70年の歴史を〈市民社会〉という言葉をキーワードにして、「自由な市民が社会とどのように向き合おうとして来たか」というテーマをめぐる社会認識の歴史であり、戦後日本の〈近代化〉をめぐる壮大な思想史でもある」。「「市民社会」を通じた〈近代〉像の再編成の歴史」(251頁)を検討する本書では、自由化や民主化に象徴される近代的価値を重んじてきた戦後の市民社会が抱える、理想と現実との乖離やその変遷過程が、丹念に追われています。

★『西湖夢尋(せいこむじん)』はまもなく発売(6月17日頃)。東洋文庫の第861弾です。帯文によれば「中国江南でひときわ栄えた都市杭州。その郊外にある名勝西湖の文物の歴史と文化を巡り、ゆかりある白楽天、蘇軾その他の詩文をまじえて辿る。明末清初の文人張岱(ちょうたい)の傑作を本邦初訳注」。張岱は1597年生まれですが没年は確かではないそうです(1689年頃に没したという説があります)。西湖は4年前に世界遺産に登録されており、観光名所として有名です。『西湖夢尋』では西湖十景をうたった詩や、周辺にある名所旧跡の歴史や関係する人物の逸話などを読むことができます。東洋文庫次回配本は7月、坂井弘紀訳『アルパムス・バトゥル――テュルク諸民族英雄叙事詩』とのことです。

# by urag | 2015-06-14 20:46 | 本のコンシェルジュ | Comments(0)
2015年 06月 08日

「朝日新聞」にジェームズ『境界を越えて』の書評

「朝日新聞」2015年6月7日(日)読書欄に、弊社3月刊行のジェームズ『境界を越えて』の書評「クリケットで語る植民地の精神」が掲載されました。評者は明治大学教授の中村和恵さんです。「1963年の刊行以来読みつがれてきた本書は、著者の半生、植民地社会の精神構造、教育、人種階級、経済、芸術を、クリケット論として語る。選手らの人物の細かな描写は、英文学の引用を多用しながらも、ユーモアと反骨心に貫かれ、まさにカリブ海文学」と評していただきました。同書は先月、「北海道新聞」や「日本経済新聞」でも取り上げられご高評をいただいております。

続いて、弊社出版物でお世話になっている著訳者の皆様の最近のご活躍をご紹介します。

◎江川隆男さん(訳書:ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』)
◎清水知子さん(著書:『文化と暴力』、共訳:バトラー『自分自身を説明すること』『権力の心的な生』)
◎近藤和敬さん(著書:『カヴァイエス研究』、訳書:カヴァイエス『論理学と学知の理論について』)
◎廣瀬純さん(著書:『絶望論』、共著:コレクティボ・シトゥアシオネス『闘争のアサンブレア』、訳書:ヴィルノ『マルチチュードの文法』、共訳:ネグリ『芸術とマルチチュード』)

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『現代思想』2015年6月号「特集=新しい唯物論」に江川さんの論文や、清水さん、近藤さんの翻訳が掲載されています。江川さんによる論考は「脱-様相と無-様相――様相中心主義批判」(214-223頁)で、江川さんの既刊書が参照されているほか、最新論考「〈脱-様相〉のアナーキズムについて」(『HAPAX』第4号所収、夜光社、近刊予定)も参照されています。清水さんはエリザベス・グロスによる「フェミニズム・唯物論・自由」(76-90頁)、近藤さんはマヌエル・デランダによる「新唯物論をめぐる応答――特異な個体だけからなる存在論とはいかなるものでありうるか」をお訳しになっています。

廣瀬純さんは最新著『暴力階級とは何か』を航思社さんから先月末に刊行されました。また、廣瀬さんと江川さんは、それぞれお訳しになったドゥルーズの論考が『ドゥルーズ・コレクション II 権力/芸術』に再録され、本日(6月8日)発売されました。以下に合わせてご紹介します。

暴力階級とは何か――情勢下の政治哲学2011-2015
廣瀬純著
航思社 2015年5月 本体2,300円 四六判並製312頁 ISBN978-4-906738-11-3

帯文より:暴力が支配するところ、暴力だけが助けとなる。日本における反原発デモ、明仁のリベラル発言、ヘイトスピーチ、アベノミクス、ヨーロッパやラテンアメリカでの左翼運動・左派政党の躍進、イスラム国の台頭、シャルリ・エブド襲撃事件、ドイツ旅客機自殺……世界の出来事のなかで/をめぐって思考し感受する、蜂起の轟きと「真理への意志」。

★発売済(5月27日取次配本済)。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。かつて『蜂起とともに愛がはじまる――思想/政治のための32章』にまとめられた「週刊金曜日」の連載の、それ以後(2011年9月からの40回分)の寄稿分の再録を主軸に、「図書新聞」「現代思想」への寄稿や、「ピープルズ・プラン」第67号での中山智香子さんや平井玄さんとの鼎談、そして書き下ろしとして、「情勢下の政治哲学――ディエゴ・ストゥルバルクとの対話」が収録されています。ストゥルバルクさんは廣瀬さんとの共著『闘争のアサンブレア』がある「コレクティボ・シトゥアシオネス」のメンバーで、廣瀬さんによるヴィルノの訳書『マルチチュードの文法』の巻末に特別収録したヴィルノへのインタビューを行った一人でもあります。廣瀬さんと同い年(1971年生まれ)のアルゼンチンのアクティヴィストです。ミゲル・ベナサジャグとの共著書『反権力――潜勢力から創造的抵抗へ』(松本潤一郎訳、ぱる出版、2005年、現在品切)が訳されています。以下の動画「コレクティボ・シトゥアシオネスとは何か」で右端に座って話しているのがストゥルバルクさんです。真ん中に座っているのは、ヴィルノさんへのインタビューをストゥルバルクさんと共同で行ったベロニカ・ガゴさんです。


ドゥルーズ・コレクション II 権力/芸術
ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一監修
河出文庫 2015年6月 本体1,300円 344頁 ISBN978-4-309-46410-7

カバー裏紹介文より:ドゥルーズのテーマ別アンソロジー。IIは「欲望と快楽」はじめフーコーをめぐる重要テクスト、シャトレに捧げた名作『ペリクレスとヴェルディ』、そして情況/権力論、芸術・文学・映画などをめぐるテクストを集成。来たるべき政治/芸術にむけた永遠に新しいドゥルーズ哲学のエッセンス。

目次:
【フーコー】
知識人と権力 (フーコーとの対話、笹田恭史訳)8-24
欲望と快楽 (小沢秋広訳)25-41
ミシェル・フーコーの基本的概念について (宇野邦一訳)42-68
 1 地層あるいは歴史的形成物、可視的なものと言表可能なもの(知)
 2 戦略あるいは地層化されないもの(権力)、外の思考
装置とは何か (財津理訳)69-86
【シャトレ】
ペリクレスとヴェルディ――フランソワ・シャトレの哲学 (丹生谷貴志訳)88-110
【情況論・権力論】
集団の三つの問題 (杉村昌昭訳)112-134
『牧神たちの五月後』への序文 (笹田恭史訳)135-144
社会的なものの上昇 (ドンズロ『家族に介入する社会』へのあとがき、菅谷憲興訳)145-157
ヌーボー・フィロゾフ及びより一般的問題について (鈴木秀亘訳)158-170
哲学は数学者や音楽家にとって何の役に立ちうるのか (江川隆男訳)171-174
六八年五月[革命]は起こらなかった (ガタリ共著、杉村昌昭訳)175-180
ヤーセル・アラファトの偉大さ (笹田恭史訳)181-187
ディオニス・マスコロとの往復書簡 (マスコロ共著、宇野邦一訳)188-196
【作品論・映画論】
エレーヌ・シクスーあるいはストロボスコープのエクリチュール (稲村真実訳)197-203
冷たいものと熱いもの (松葉祥一訳)204-214
植樹者の技芸 (鈴木創士訳)215-219
プルーストを語る (バルトらとの討論、宮林寛訳)220-268
『女嫌い』について (宇野邦一訳)269-278
金持ちのユダヤ人 (宇野邦一訳)279-283
計算せずに占有する――ブーレーズ、プルーストと時間 (笠羽映子訳)284-298
リヴェットの三つの環 (守中高明訳)299-305
創造行為とは何か (廣瀬純訳)306-329
監修者あとがき (宇野邦一)330-339

★本日6月8日発売。先月刊行の『ドゥルーズ・コレクション I 哲学』に続く、ドゥルーズ没後二十年記の念オリジナル・アンソロジー第2弾です。『無人島』『狂人の二つの体制』(各2巻合計4冊)からテーマ別に再編集したもので、今回の第II巻ではフーコー論、シャトレ論、情況論・権力論、作品論・映画論などをまとめています。「集団の三つの問題」はガタリの著書『精神分析と横断性』への序文。『牧神たちの五月後』というのはギィ・オッカンガムの著作で、未訳です。「社会的なものの上昇」はドンズロ『家族に介入する社会』(宇波彰訳、新曜社、1991年、現在品切)へのあとがきとして書かれたもの。「プルーストを語る」は討議の記録で、司会がセルジュ・ドゥブロフスキー、登壇者はドゥルーズのほかにロラン・バルト、ジェラール・ジュネット、ジャン・リカルドゥ、ジャン=ピエール・リシャールで、聴衆からの質問も収めています。

★作品論の対象を記しておくと、まず文学作品では「エレーヌ・シクスーあるいはストロボスコープのエクリチュール」がシクスーによる未訳の3作――『中性』1972年、『内部』1969年、『ジェイムズ・ジョイスの亡命あるいは代替の技法』1968年――を扱い、「『女嫌い』について」はドゥルーズの弟子筋にあたるアラン・ロジェ(Alain Roger, 1936-)の小説『女嫌い』(1976年、未訳)への序文として書かれたもの(実際には序文としては収録されなかった)。映画作品では「植樹者の技芸」はウーゴ・サンチャゴ(ユーゴ・サンチャゴとも)監督作品『はみだした男』1974年(原題は「他者たち」で脚本はサンチャゴとボルヘスとビオイ・カサーレスの共作)、「金持ちのユダヤ人」はダニエル・シュミット監督作品『天使の影』1976年、「リヴェットの三つの環」はジャック・リヴェット監督作品『彼女たちの舞台』1988年、「創造行為とは何か」は個々の映画について述べたものではありませんが、末尾の方でスロトーブ=ユイレが言及されています。芸術作品では「冷たいものと熱いもの」はジェラール・フロマンジェによる70年代初頭の造形作品群、音楽作品では「計算せずに占有する――ブーレーズ、プルーストと時間」は副題の通りピエール・ブーレーズとマルセル・プルーストの手法を時間論として分析したもので、この論考は『エクラ/ブーレーズ――響き合う言葉と音楽』(笠羽映子訳、青土社、2006年)にも収録されています。

★コレクションは当初全2巻予定でしたから続刊予定は特に予告されていませんが、監訳者あとがきには完結するともはっきりとは書かれていません。深読みすれば、売行好調なら続編がありうるのかもしれませんし、それは読者や書店員さんの要求次第かなと思います。河出さんから刊行されているドゥルーズ単行本でまだ文庫化されていないものは、ヒューム論『経験論と主体性』とライプニッツ論『襞』を残すのみとなりました。ライプニッツは来年(2016年)が没後300年に当たりますし、工作舎さんから先月『ライプニッツ著作集』第II期が刊行開始になりましたから、文庫化のタイミングとしては機が熟していると言えるのではないかと思います。

# by urag | 2015-06-08 22:51 | 広告・書評 | Comments(0)