2005年 08月 31日
いつもウラゲツ☆ブログを閲覧いただき、まことにありがとうございます。 2004年5月の開設以来、丸一年半が経ちました。明日からは9月です。「新学期」の季節で、秋の商戦の始まりでもありますので、改めて皆様にご挨拶を申し上げます。 当ブログは月曜社のスタッフH(本名は公式を探せば出てきます)が執筆・運営しているもので、月曜社の出版物や関連情報をお届けしておりますが、H個人が注目している他社本や業界情報、時事なども取り上げています。前者は公式情報ですが、後者はあくまでも個人的な意見と感想であり、月曜社の公式見解を反映するものではありません。 記事を書くときは書店員さんの顔が思い浮かんだり、愛読者の方々の顔が思い浮かんだりしています。実名は出さないにせよ、特定の誰かへの伝言だったりするときもあります。そうした誰かから拙ブログにコメントを返してもらうことはほとんどないですが、当ブログを通じて新しい出会いも生まれ、本当に嬉しいです。ROM専門の方もいらっしゃるかもしれませんけれども、どうぞ時折足跡を残してくださいませ。(H) ▲
by urag
| 2005-08-31 15:33
| ご挨拶
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2005年 08月 30日
2005年 08月 29日
『現代思想』や『ユリイカ』をお読みになっておられる方はもうお気づきのことかもしれませんが、青土社さんが編集職および営業職の中途採用を告示されました。 年齢制限は30歳までで、なんと「経験不問」とのことです。「希望職種明記の上、履歴書と作文「青土社を志望する理由」(四百字×二枚)を9月30日(金)必着で総務部H係に郵送のこと。書類選考後、面接日を通知いたします」、と。 さらに、新卒求人を今月末にウェブサイトにて掲載予定だそうです。雑誌では9月末売りの10月号で告知するとのことです。 ▲
by urag
| 2005-08-29 13:36
| 雑談
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2005年 08月 28日
アメリカの美術史家ジョナサン・クレーリーの主著である『知覚の宙吊り――注意、スペクタクル、近代文化』が平凡社さんから発売されました。原著は"Suspention of Perception: Attention, Spectacle, and Modern Culture", 1999, The MIT Pressです。 クレーリーの著書の日本語訳は、1997年に十月社から刊行された『観察者の系譜』につづいてこれでようやく2点目。もともとクレーリーの単独著は上記二冊しかありませんから、単行本未収録の論文を除けばこれですべて訳されていることになります。 ![]() 知覚の宙吊り――注意、スペクタクル、近代文化 ジョナサン・クレーリー著 岡田温司監訳 石谷治寛・大木美智子・橋本梓訳 平凡社 2005年8月刊 本体価格7200円 A5判上製カバー装554頁 ISBN4-582-70257-0 ■帯文より:アテンション・プリーズ! 主体の制度的・言説的な核心である注意――その考察から近代的主体の変容を描く。注意する知覚がはらむパラドクシカルな様態を、近代の転換期を画す三画家の作品――マネ《温室にて》、スーラ《サーカスのパレード》、セザンヌ《松と岩》――のなかに鋭く読み取る。美術史、思想史、科学・技術史、文化史……さまざまな学問分野を越境する、批評精神と歴史研究とが結びついた稀有な成果。図版多数。 ■訳者あとがきより:本書でクレーリーが鮮やかに描き出す「注意」のパラドクスは、二〇世紀に登場した必須のキーターム、たとえばフロイトの「リビドー経済」、ベンヤミンの「散漫」、アドルノ=ホルクハイマーの「文化産業」、ドゥボールの「スペクタクル社会」、ボードリヤールの「シミュラクル」、フーコーの「規律社会」などと並んで、近代の主体と社会、芸術と文化を読み解くうえで、今後、避けて通ることのできない重要な試金石となることだろう。 ■目次(数字は頁数): 序 ・・・9 第一章 近代性と注意の問題 ・・・21 第二章 一八七九年――拘束なき視覚 ・・・81 第三章 一八八八年――脱魔術化のイルミネーション ・・・147 第四章 一九〇〇年――綜合(ジンテーゼ)の再創出 ・・・263 エピローグ 一九〇七年――ローマの魔法 ・・・339 原注 訳者あとがき 文献一覧表 事項索引 人名索引 ■本書「序」より:前著『観察者の技法』[日本語訳『観察者の系譜』のこと――引用者注]における私の目的のひとつは、視覚をめぐる諸理念の歴史的な変容がいかに主体性の再形成という、より広範なテーマと切り離せないものであるか、そしてこの主体性の再形成は目の経験にではなくて、近代化と合理化のプロセスにどのようにかかわっているかということを示すことであった。他方、ひじょうに異なる出来事の領域を扱っているこの本[『知覚の宙吊り』のこと――引用者注]において、私の目標のひとつは、近代の視覚が、外部の一連の技術によってとらえられ、形づくられ、制御される身体のただひとつの層をなすにすぎないということを証明することにある。 ●クレーリーはこんにちのいわゆるヴィジュアル・スタディーズを代表する論客の一人です。かのMITプレスのインプリントであり、美術批評書と現代思想書の先鋭的な牙城である版元ゾーン・ブックスの共同設立者であり、現在もなお編集委員として携わっています。ゾーンの本は、洋書を扱われる書店さんや洋書を好まれる読者の方々にはお奨めです。内容が選び抜かれていますし、造本はどれも洒落ていて、重厚感があります。 ●「視覚」をめぐる史的考察のための関連研究者として、訳者あとがきでは、マーティン・ジェイ、スヴェトラーナ・アルパース、ノーマン・ブライソンの名が挙げられており、ハル・フォスター編『視覚論』(平凡社)も挙げられています。私の独断と偏見で言いますと、本書と併読しておいて損はないと思える隣接書には、以下のものがあります。ウィリアム・J・ミッチェル著『リコンフィギュアード・アイ――デジタル画像による視覚文化の変容』伊藤俊治監修・解説、福岡洋一訳、アスキー出版部、1994年10月刊、本体価格5631円、ISBN4-7561-0480-0◆クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン著『見ることの狂気――バロック美学と眼差しのアルケオロジー』谷川渥訳、ありな書房、1995年9月刊、本体価格3600円、ISBN4-7566-9539-6◆グリゼルダ・ポロック著『視線と差異――フェミニズムで読む美術史』荻原弘子訳、新水社、1998年2月刊、本体価格4300円、ISBN4-915165-80-9 ●『知覚の宙吊り』は美術書売場に置けばいいのでしょうか。それは「視覚文化論」の本がその書店のどこに置かれているかによります。帯文にある通り、「美術史、思想史、科学・技術史、文化史……さまざまな学問分野を越境する、批評精神と歴史研究とが結びついた稀有な成果」なのですから、哲学思想書売場にあっても、歴史書売場にあっても、はたまた理工書売場にあってもいいのです。訳者は、知覚と身体とテクノロジーの関係を考察する観点からすれば、クレーリーの成果はキットラーやヴィリリオ、シュティグレールらの仕事とも共鳴する部分があるかもしれないと示唆しています。その通りでしょう。哲学思想書のキットラーやヴィリリオの本の近くに置いてもいいと思います。色々試してみると面白いんじゃないでしょうか。 ●例によって、ズルい活用法ですが、時間のない書店員さんは本書の文献一覧には最低限眼を通しておいたほうがいいと思います。掲げられている本のジャンルの多様さに注目しておきたいところです。それと、アメリカの学者さんの本にはたいてい序文で本の目的や概要が言及されていて、本書も例外ではありませんから、序文を読めば本書の骨子はだいたい見えてくるはずです。もちろん、具体例を挙げて分析する本論のほうが当然面白いですから、パラパラとめくって、気になる図版やキーワード、キーパーソンのところで止まるなりして拾い読みするといいでしょう。 ●あとは、本書に興味を持ったら、担当編集者にどんどん電話して、いろいろ情報を聞いてみるといいと思います。きっと併売書や棚構成、フェアに関するヒントなどを得られます。本書の場合は、松井純さんです。博学な方なので、きっと良い刺激を受けると思います。本書に限らず、この本はぜひ売りたいなあと思ったら、遠慮なく担当編集者に問い合わせてみてください。耳学問の有効性と重要性は常々ヴェテラン書店員さんが力説するところのものだと思います。 ●書店員(あるいは出版人)は学者じゃあない。だから知らなくていいんだ、と言う人がいますが、それは大間違いです。学者じゃないからこそ、それでは誰に聞けばいいのか、何を調べれば分かるのか、を押さえておかねばなりません。学者ではないというところまでは真実ですが、そこから先が分かれ道です。知らなくていいというのは、スキルアップの機会を切り捨てすぎです。相談や質問ができるどういう人脈を押さえているか、どんな調査手段を知っているか、そこが問題です。これは私が言うんじゃありません。ジュンク堂書店の福嶋聡さんが常々仰っていることです。 観察者の系譜――視覚空間の変容とモダニティ ジョナサン・クレーリー著 遠藤智巳訳 十月社 1997年11月刊 本体価格3200円 46判上製カバー装304頁 ISBN4-915665-56-9 [出版社廃業のため現在は絶版] ■原著:"Techniques of the Observer: On Vision and Modernity in the Nineteenth Century" by Jonathan Crary, 1990, The MIT Press. ■帯文より:19世紀前半の西欧における、視覚文化の根本的変容。「観察者」の誕生として特徴づけられるその転換の諸相を、様々な視覚器具、絵画、人間諸科学の大胆カツ繊細な分析を通じて明らかにする。視覚文化論の記念碑的名著、待望の邦訳刊行。 ■目次(数字は頁数): 謝辞 ・・・7 第一章 近代と観察者の問題 ・・・11 第二章 カメラ・オブスキュラとその主体 ・・・49 第三章 主観的視覚と五感の分離 ・・・105 第四章 観察者の技法 ・・・147 第五章 視覚的=幻視的(ヴィジョナリー)抽象化 ・・・201 原註 訳註 訳者あとがき 索引 ●本書は石川県金沢市を拠点とする出版社だった株式会社十月社(発行者:中田徹)さんから、叢書「近代を測量する」の第1弾として刊行されました。担当編集者は高他毅さん。当時私は作品社営業部に在籍していましたが、高他さんとは何度かやりとりをさせていただいたことがありました。その後すっかりご無沙汰してしまいましたが、お元気でしょうか…。クレーリーのこの本は、本邦初訳ながら当時よく売れていて、書店の人文書担当者が驚いていたことを記憶しています。46判で、さほど厚くない本ですが、三千円を超える本でしたので、当時としては割高感が強かったのです。ただ、同業者の見方で言えば、この値段は不当に高く設定したものではまったくありません。むしろ採算度外視だったでしょう。 ●叢書「近代を測量する」は高他さんが企画された、19世紀思想史研究のシリーズで、『観察者の系譜』とともに、ローレンス・バーキンの『性科学の誕生――欲望・消費・個人主義 1871-1914』(太田省一訳)も同時刊行され、話題を呼んでいました。以下続刊と予告されていましたが、残念ながらその数年後だったかに、十月社さんは廃業されました。地方都市でも先端的な専門書出版は可能なのだと私は非常に感銘を受けていました。書店員さんの中にもそう感じて注目されていた方がいたことでしょう。廃業の知らせを聞いて、私はショックを受けました。私はこの業界に入る前から、将来は独立して出版社をやりたいと思っていましたが、やはり簡単なことではないと現実を見せ付けられた気がしました。 ●『観察者の系譜』はこの際、平凡社ライブラリーなどで再刊されるといいと思います。松井さん、お願いします。 以上です。いままでの「今週の注目新刊」にかわって、こんなふうに気になる本を少しずつでも取り上げていくつもりです。取り上げる際にはちょっとした業界話などの脱線もしようと思っています。(H) ▲
by urag
| 2005-08-28 23:06
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2005年 08月 27日
これまで何度も不便になると繰り返し発言してきましたが、本当にTRCは「週刊新刊全点案内」をはじめとするサービスを8月24日付けで全部やめてしまいました。残念です。ただただ残念。TRCはやっぱり個人客に眼が向いてないですね。 そういうわけで、拙ブログでやっていた「今週の注目新刊」はいままでのかたちでの継続は不可能になってしまいました。つまり、毎週1200~1500点ある新刊データの中から選択するということができなくなったわけです。依拠すべきポータルサイトはもうどこにもありません。 何度も言っていますが、bk1が提供しているその日ごとの入荷アイテム一覧では、bk1が24時間以内に発送すべく仕入れた商品「しか」表示されていませんから、そこから漏れたあらゆる書籍は参照しようがないわけです。bk1の悪口を言いたいんじゃないです。bk1じゃ無理、というその「事実」を噛み締めているのです。 4月から「今週の注目新刊」をはじめて、たったの4ヶ月。楽しかったですし、毎回色んなことを学びました。そもそも私がbk1の「人文レジ前」を終了してからはや一年以上が経ちました。復帰することはもうないと思いますし、ああしたことをやらせてくれるオンライン書店はたぶんほかにはないでしょう。 それでも諦めずに、書物の海へもう一度漕ぎ出すつもりですけどね。でも、「こんな版元からあんな本が出てるよ」というような驚きにたどり着くまでの時間は、今までの数倍かかるでしょうね。ひょっとしたら出会えずじまいになるかもしれない。 TRCがやっていたことを、他社が肩代わりすることはできないわけじゃないと思うんですね。トーハンとか日販とかの大手取次の新刊データと、地方小の新刊データをドッキングさせれば、かなり充実した書誌データが毎週なり毎月なり集積できるでしょう。TRCの「週刊新刊全点案内」の個人向けヴァージョンをぜひどこかの関連会社が手がけて欲しいものです。(H) ▲
by urag
| 2005-08-27 18:28
| 本のコンシェルジュ
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2005年 08月 27日
本が自分の生とどうかかわりあっているか。そして自分の生が社会とどうかかわりあっているか。その二つを真剣に探究するならば、出版人であれ、書店人であれ、自分が何をすべきなのかがはっきり見えてくるのではないかと思っています。 出版界を目指している方、書店に就職しようとしている方、未来の業界人たちに心からのエールを送ります。(H) ▲
by urag
| 2005-08-27 00:59
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2005年 08月 26日
その時代ごとに華麗なる変遷を見せてくれた季刊誌『文藝』(河出書房新社)の、1994年の年末に刊行された第33巻第5号は、「文藝賞特別号」と銘打たれておりまして、第31回文藝賞発表(*)、第1回蓮如賞発表(**)、そしてG・ドゥルーズ未発表草稿(***)、[ことば・しそう最前線]きみはニュー・アカを知っているか?、の四本が目玉でした。当時の編集人は長田洋一さん。 このニューアカ小特集がなかなか面白かったので、今も記憶に残っています。今日は私Hの書斎の雑誌棚からバックナンバーを引っ張り出し、この小特集を顕彰したいと思います。 小特集目次: [インタヴュー] 岡崎京子(1963-) 「ニューで、アカで、しかもブームだったあの頃」 [エッセイ] 宇野邦一(1948-) 「新しいパラドックス」 上野俊哉(1962-) 「紅の一撃」 開発チエ(1965-) 「ニューアカと日本と私」 香山リカ(1960-) 「第一回ニューアカ・オリエンテーリング大会に参加して」 椹木野衣(1962-) 「ニュー・アカデミズム」 篠原一(1977-) 「末っ子の気持ち」 中島花代(1970-) 「世紀末キッズ=情報Jungle原始人?」 丹生谷貴志(1954-) 「街を棄てずに本屋に行こう!」 保坂和志(1956-) 「現場担当者の所感」 湯山玲子(1960-) 「ニューアカの恋人」 三田格(1961-) 「ニュー・アカ観測チャート」 常盤貴史(1962-) 「ニュー・アカ観測ブック&マガジン・カタログ」 同上 「ニュー・アカ観測キーパーソン・カタログ」 いずれも興味深いのですが、今回は常盤貴史さん(当時の肩書きはエディター)の記事を取り上げます。常盤さんは上記の二つのコーナーを担当されていますが、このカタログの詳細目次を以下に記します。 「ニュー・アカ観測ブック&マガジン・カタログ」 浅田彰『構造と力』勁草書房/中沢新一『チベットのモーツァルト』せりか書房/栗本慎一郎『パンツをはいた猿』光文社/四方田犬彦『クリティック』冬樹社/伊藤俊治『生体廃墟論』リブロポート/丹生谷貴志『光の国』朝日出版社/中村雄二郎『術語集』岩波新書/『遊』工作舎/『エピステーメー』朝日出版社/『現代思想』青土社/『GS』冬樹社/『朝日ジャーナル』朝日新聞社/『週刊本』朝日出版社/その他の雑誌 「ニュー・アカ観測キーパーソン・カタログ」 浅田彰/中沢新一/伊藤俊治/武邑光裕/吉本隆明/蓮實重彦/山本哲士/三浦雅士/中野幹隆/萩原富雄/YMO(坂本龍一/細野晴臣)/新人類/小泉今日子/今泉正光(西武ブックセンター池袋店) この中から、今泉さんの項目を引用します。 「東京ローカルな項目であいすいません。現在LOFT館のある池袋西武高層階にまだ書籍売場があった当時の同店の品揃えときたら、それは日本の書店史上に燦然と輝く画期的なものでした。後に店長にもなられた仕入れの今泉正光氏は、著者や大学教授の本棚、書庫を直接リサーチし、およそ国内で入手しうる、あらゆる啓蒙書、専門書、思想書、原書を網羅し取り寄せた。この独特の“今泉棚”をきっかけに道を踏み外した学生もいましたね。」 最後の一言に思わず吹き出します。私も踏み外した学生の一人だったので。私は常盤さんより6歳年下なので、高層階時代の「西武ブックセンター」よりも地下に降りてきた「リブロ」時代のほうが印象が強いです。特に80年代後半から90年代前半の池袋店。 高層階から降りてきた当初のリブロはちょっとパワーダウンしたかな、という印象がありましたが、ほどなく89年に再リニューアルしてパワーアップ。今は雑誌や実用書のコーナーになっているいわゆるAブロックは人文書と外国文学がひしめき合い、向かいの文芸書・文庫新書・児童書コーナーは当時は芸術書と、現代音楽の鳴り響く「アール・ヴィヴァン」でした。 このころのリブロは書籍の収集力がすさまじいほどにすばらしく、各版元の在庫僅少本をどっさり集めては、定期的に地下通路にはみ出てフェアをやっていました。もう毎回がお宝満載ですから、当然朝一番の開店時には、古本屋さんやせどりの皆さんが待ち構え、珍しいお宝の争奪戦をやっていました。私は大学卒業後は出版社の営業マンになっていたので、書店営業と称してこうした人々と張り合っていました。当時ゲットした僅少本は今でも大切にしています。 リブロの想い出を語りだすととまらないのですが、もうひとつ印象的なエピソードを挙げますと、現在のAブロックの新刊台で当時は定期的にブックフェアをやっていて、人文書系のフェアが多かったのですが、ほとんど毎回のフェアに、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)が並べられていました。どんなテーマのフェアであろうと、この本が欠かせなかったのです。毎回というのは大げさだとしても、それほど印象的でした。当時のブックフェアのリストのひとつ(店頭で配布されていたリーフレット)が手元にあるので、時間があるときに転載してみましょうか。 リブロ池袋店の変遷については、今泉店長の時代に副店長をおやりになっていた田口久美子さんの『書店風雲録』(本の雑誌社)を必ずご参照ください。あるいはセゾングループの出版・書店戦略の中核を担った小川道明さん(1929-1996)の『棚の思想』(影書房、1994年)も併読をお奨めします。また、松岡正剛さんの千夜千冊でこの『棚の思想』が取り上げられた回が参考になります。 とにかく私にとって、80年代後半から90年代前半にかけてのリブロ池袋店は、大学生時代も、新米営業マン時代も、日参が欠かせない書店さんでした。今泉正光さん(リブロ退社後は前橋煥乎堂を経て現在は長野平安堂)が作られ、木村斉さん(現在は広島フタバ図書TERA)や澤樹伸也さん(現在はジュンク堂新宿店)をはじめとする優秀な目利きに受け継がれていった人文書棚や、小山富士子さん(現在はフリーランスでいらっしゃるのでしょうか)の外国文学棚、田口久美子さん(現在はジュンク堂池袋店副店長)や関根明子さん(現在は御茶ノ水丸善)の芸術書棚は、私にとってはどれも「楽園」であり、何時間でも探検できる密林でした。 毎日のように通っていたので、どの本がどの棚にあるか、覚えてしまうほどでした。そうしたヘビー・ユーザーの心理を知られていたのでしょうか、たとえば外国文学の小山さんの棚では何度も罠にひっかかりました。すでに長文になってしまったので、二つだけ例を挙げさせてください。 ある日、ドイツ文学の棚に見慣れぬ本が入っていました。『ルドゥーからル・コルビュジエまで』(エミール・カウフマン著、中央公論美術出版、1992年12月刊)。どうやら新刊のようですが、一冊棚差しされているだけです。しかも文学書の棚なのに建築書。それにドイツ文学の棚なのにフランス関連の本。なんだろうと思って手にとって見る。ふむふむ、面白そうだ、買おう。お会計。……実際のところ、これは計算されつくた「手法」だったのです。 新刊だけれど、平積みせずに1冊だけ棚に差す。見たことのない本で目に留まりやすいし、1冊しか店頭にないので、希少な本に感じる。文学書棚に建築書が混じっており、なおかつドイツ棚にフランス関連の本が混じっているので、本の背の書名や版元名だけでも目立つ。カウフマン(1891-1953)はじつは高名な美術史家で、手に取ったが最後、「読んでおかなきゃならんのでは」という勉強心がくすぐられる。何よりルドゥー(1736-1806)の紙上建築は現実を超えていてかなり面白い。こんなところに差すなんて反則だよ、と思いつつも、買うべくして買うわけです。 さて次の例。また別のある日、フランス文学棚の前の平台に、もう市場からとっくに消えているはずのル・クレジオの『ロドリゲス島への旅』(朝日出版社、1988年)がドカンと積んである。この本はかの「ポストモダン叢書」第二期全十巻のうちの第10巻目で、人文書棚だけを徘徊していてはお目にかかれない本。あーどうしようかな、買おうかな、でも今日は懐が寂しいしな、などと未練たらたらでその日は家に帰る。やっぱり買おうと思って翌日にいそいそと棚の前に行くと、あれだけ積まれていた本がゴッソリない。どこにもない。なんと売り切れか! 後悔先に立たず。ショックが足腰にきて、しばらくその場に呆然とたたずむ。そしてその数日後でしたが、また店内を巡回していると、また平積みされているのを発見。速攻で買いました。 学生時代のそんな経験を営業マン時代に小山さんに話したら、あっさりこう言われました。「ああそれね、わざといったん引っ込めたの」。本と付き合ってきた自分の人生の中でこれほど綺麗に一本背負いを決められたことはありませんでした。すげえ、そんな「手」があるのか。営業マンになってなきゃ、そんなことは知る由もなかったですね。 複数冊在庫のある新刊をわざわざ1冊だけ棚に差すとか、間違いなく売れる僅少本の平積みをいったんバックヤードに下げるとか、ある側面から言えば効率が悪いように見えるやり方が、かえって読者をうまく惹きつけていたのです。私に限らず、そうやって「美しく騙された」常連は多かったのではないかと思います。 こうしてリブロの想い出を綴っていると実に楽しいです。人文書棚の前で私に滔々と哲学書や歴史書について語ってくださった今泉さんは、実は私にだけ話していたのではなく、周囲で耳をそばだてているお客様にも聞こえるようにわざと大きめな声で話していました。これも「手法」です。芸術書売場ではアールヴィヴァンのコーナーからフロアいっぱいに、聞いたこともないような奇妙な現代音楽や電子音楽がいつも鳴っていました。音楽ともに響いていたのは、店の「個性」でした。 それはまさに個性でした。国書刊行会から『バルトルシャイティス著作集』の刊行が開始されたとき、人文書売場にも文芸書売場にも、芸術書売場にも、とにかくあちこち置かれまくっていました。総力を挙げた、リブロにしかできないプロモーション。必死でやっているというより、とにかく自分たちが評価したのだから推すのだ、という。今あんなことができる本屋さんはおそらく皆無でしょう。私は昔話をしたいのではありません。ただただ、書店のポテンシャル(潜在的可能性)というのを今なお信じているのです。時代がどうのとかいう問題ではなく。 今はほとんどすべてが失われ、あるいは解体されて、夢の名残だけがそこここに漂っている気がします。嘆いても始まりません。ただ、あんなに冒険できた本屋さんは私にとってはもうどこにもないのです。どこも代わりにはなれやしない。それほどのプレゼンスとヴァイブレーションを放出していた書店でした。 全盛期のリブロ池袋店のような本屋さんが今も欲しいとは思っています。「時代が時代だったし、バブルの追い風があったし、もうあんなことはできないよ。現実的じゃあない」と多くの人が言います。でも、書店のポテンシャルというのは、そんなに切り詰めて考えても仕方ないんじゃないか、と私は思うのです。客を美しく騙して欲しい。書棚の森の中で冒険させて欲しい。迷わせて欲しい。善と悪、光と闇、崇高と卑俗の交錯する本の海で、誘惑し続け、問いかけ続けて欲しいのです。本が私を待っていてくれるなら、いつでも私はそこへ出かけるでしょう。(H) (*)――文藝賞受賞作は、雨森零さんの「首飾り」。選評は江藤淳さん、大庭みな子さん、小島信夫さん、瀬戸内寂聴さんです。 (**)――蓮如賞受賞作は、渡辺千尋さんの「ざくろの空――頓珍漢人形伝」で、選評は五木寛之さん、梅原猛さん、中沢新一さん、藤原新也さん。 (***)――ドゥルーズの未発表草稿というのは「欲望と快楽」のこと。小沢秋広さんによる翻訳と解題。当時、河出書房新社ではついに『千のプラトー』が発売されて、反響を呼んでいたのでした。 ▲
by urag
| 2005-08-26 21:19
| 本のコンシェルジュ
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2005年 08月 25日
本日配信した「[本]のメルマガ」25日号に寄稿した拙文を転載します。同号には当ブログにもよく遊びに来ていただいている、『心脳問題』の共著者で「哲学の劇場」サイトの共同運営者である吉川浩満さんによるエッセイ、「嫌韓節考」の第一回が掲載されています。ぜひご覧下さいませ! *** それはある種、陰惨な光景だった。とある書店の美術書売場に、高齢の白人紳士が現れた。紳士は中国美術の関連書にどんなものがあるか、女子店員に流暢な日本語で尋ねていた。紳士はいくつかの案内を聞いたあと、とある美術書のパンフレットを所望したが、あいにく店頭には在庫していなかった。 紳士は西洋美術の関連書に比べ、中国美術の本が少ないことを嘆き、あまつさえパンフレットすら入手できなかったことに腹を立て、女子店員を罵倒し始めた。出版されている関連書が少ない上に、売場もさほど揃えていないとはなにごとか。中国文化を軽視しているのではないか。日本人は中国文化を理解しようとしていない。「だから、反日デモが起こるのだ」。 売場に紳士の声が響き渡り、その他の客たちは呆れた様子で事態を注視している。女子社員はいちいち反論したり弁解したりしようとせず、神妙に紳士の怒りを受け止めていた。それは賢明な態度だったと言えるだろう。紳士は自分の怒りの高ぶりを抑えられず、頬を震わせて怒鳴り続けている。やがて彼の怒りの矛先は洋書売場に移り、今度は別の店員を捕まえて中国美術の洋書が少ないことを嘆きだす。 私が知人から聞いたのはそこまでだ。紳士はひょっとするとそのあとに歴史書売場に言って、中国史の本がどれほど陳列されているかを確認しに行ったかもしれない。いずれにせよ、女子店員を怒鳴りつける行為は、国籍にかかわらず、社会人として褒められたものではない。 客には客のマナーがあることを忘れてしまう人々がいる。神様のように振舞って、居丈高に店員を見下す。愛情を受けずに育った子供が、自分のことを大事にしてもらいたくて、他人からの対偶に過剰に反応するような、そんな感じだ。 怒りをぶつけるべきではない相手に怒りをぶつける不条理さを自覚して恥じるよりも、自分のあいまいな怒りをとにかく吐き出したい、という心理がそこにはあったかもしれない。ひどい自己中心主義だ。人生経験を多少なりとも積めば気づくことだ――書店員が自分たちの売っている本の内容については何の責任も持てないことなどは。 書店員は、より多くの客にニーズのある商品を売るのが仕事だ。どんな本を仕入れるかについて権限を持っている店員もいるが、ほとんどは自分の売る本を選べない。店の品揃えは、客との間合いでつくられるものだ。「お客が店をつくる」のだと言った書店員がいたが、おそらくそれは正しい。 自分の売る本を選べないというのは、出版社の営業マンも同じである。こんな本を作りやがって、と内心は思いつつも賢明に売る事は、当然ある。いや、日常茶飯事だ。では編集者や著者が悪いのかというと、一概にそうも言い切れない。なぜなら、彼らは世間の「ニーズ」を意識して本を書いたりつくったりするのだから(あるいはある種の本を書かなかったりつくらなかったりする)。では世間が悪いのだろうか。 白人紳士は誰に向かって怒りをぶつけるべきだったろうか。「だから反日デモが起こるのだ」という彼の結論にはどこか飛躍があるのではないか。そう感じる人は多いかもしれない。もう少し冷静であれば、書店員とのざっくばらんな会話が楽しめたかもしれないのに、彼はそうしなかった。いったい何を、彼は許したくなかったのだろうか。マナー知らずは責められるべきだが、そうすることのみでは、今回のような「摩擦」を解決するには及ばない。 自分の売る本やつくる本を選べない不自由というのは、自分の欲望や希望を本に反映させることができないということだ。そしてそれは客にしても同じで、自分の欲望や希望を反映させる本がそこにない、という不自由があるわけである。 これが市場経済のもとに生きる私たち現代人の悲劇であり喜劇である。私たちの不自由とは何か。それは端的に言って、常にすでにある種の「出来レース」の幅の中に私たち自身が「適正化」されていることだ。いわゆる「見えざる手」は単に数量的対価的適正化として市場に働くのではなく、自らの隠された合理性という実利的「信仰」のもとに、思想的文化的価値の流れをも適「正」化し統制する。 「出来レース」には幅があるので、あたかも自由がそこにあるような錯覚をしてしまうことがある。しかし実際は、私たちには「そうしたほうがいい」という数少ない選択肢が残されているだけで、その幅からはみ出すことができないよう、はなから馴らされているのだ。そして、自分や他人がはみ出してしまうときに、怒りや恐れを覚える。 私たちはいったい何に縛られているのだろうか、いったい何に抵抗しようとしているのだろうか。意識するとしないとにかかわらず、私たちは皆、否応なく「文化戦争」に巻き込まれている。そうとは知らずにある特定の思想状況の閉塞の中に追い込まれている。 不自由な私たちは、自分が書いたり、つくったり、売ったり、買ったりすることに大した社会的責任を感じてはいないが、責任がないかのように自由に振舞えると思うのは幻想に過ぎない。責任とは何か。それは、誰かを不条理に罵倒することでも、「ニーズ」に甘んじることでもない。そう私は思う。 *** 分量の都合で今回では書ききれなかったのですが、この「文化戦争」においては売ったり買ったりすることが無垢な行為ではありえず、ある種の悪書が普及することによって二番煎じや三番煎じへと連鎖していきます。その不穏な影響力について、またの機会に書きたいと考えています。(H) ▲
by urag
| 2005-08-25 04:27
| 雑談
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2005年 08月 24日
![]() 入居された「旭倉庫」というのは、倉庫業の老舗の本社の、広大な敷地内のビルらしい。各種メディア事業をバックアップするオフィスとして元倉庫を改装したビルなのだとか。天井が高くて見通しのいいワンフロアのオフィスだそうです。同じフロアには、映画配給会社のキネティックスさんやら、やはりまた映画関連のOCCさんが入居されているそうです。ウォーターフロントだけあって、夜景がきれいだとか。いいですねえ。 ちなみにご恵贈いただいたのは、先週発売されたばかりの新刊で、『シャーマニズムと想像力』グローリア・フラハティ著、野村美紀子訳、本体価格4000円、ISBN4-87502-387-1という本。 西洋文化の伏流としてのシャーマニズムに光をあてた、画期的な著作だそうで、ディドロやモーツァルト、ゲーテなどを、同時代のシャーマニズム研究書や探検報告書の影響関係から捉え直す試みだそうです。面白そうですよね!(H) ▲
by urag
| 2005-08-24 23:49
| 雑談
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2005年 08月 23日
他社版元さんの話とはいえ、1977年7月から渋谷区松濤2-21-3に長らく所在されていた「工作舎」さんが、2005年8月1日から中央区月島1-14-7旭倉庫4Fに移転されたというのは、ある種の驚きを感じさせました。 松濤といえばいまや人も知る高級住宅街で、77年当時の地価がどれほどだったかは知りませんが、工作舎さんの公式ウェブサイトの「沿革」によれば、1971年4月:池袋東口の池ビル→1972年8月:新宿番衆町ローヤルビルというふうに移転され、そのあと77年7月に東大駒場キャンパスの裏手の山手通り沿いに移られ、雑誌『遊』第二期が開始されるのです。いつでも東大に出かけられるというのは非常に便利だったろうと思います。 そして今回は、山の手の高級住宅街から一転ウォーターフロントの下町、月島へ。月島と言えばもんじゃ焼きですが、別に工作舎さんはもんじゃ焼きを目当てに移転されたのではありません。しかし大胆です。おそらく業務全般の便を考えて、月島がいい!と思える決め手があったに違いありません。編集長の米澤敬さんの「編集飛び石日記」の073には、こんなことが書かれていました。 「実に28年ぶりの移転だ。社内はけっこう浮き足立っている。なにせ、未整理のままの書物や資料が、いたるところに山積みされてきた。「遊」時代の版下や写真だけでも膨大な量になる。どうしていままで整理整頓を心がけてこなかったのかと反省しても、無論、後の祭である」。 皆さんご存知のことと思いますが、米澤さんは、デザイナーの松田行正さんが主宰する出版社「牛若丸」さんから、『ミネラリウム・インデックス』『変』『ファンクション』といった著書を刊行されています。私は中でも『ミネラリウム・インデックス』が大好きです。内容も装丁も何もかも素晴らしいです。うっとりします。活版印刷はやっぱりいい。しかもたったの1500円(税別)。金額の高い安いでは量れない、私の宝物のひとつです。(H) ▲
by urag
| 2005-08-23 23:06
| 雑談
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