2008年 11月 10日
集英社版『世界の文学』第12巻「ブランショ/グラック」(78年)や、『筑摩世界文學大系』第82巻「ベケット/ブランショ」(82年初版、99年再刊)などでしか読めなかったブランショの長篇小説「アミナダブ」(清水徹訳)がついに全面改訳されて、先月末に単行本化されました。 ![]() モーリス・ブランショ(1907-2003):著 清水徹(1931-):訳 書肆心水 08年10月 本体4,200円 A5判上製336頁 ISBN978-4-902854-51-0 ■帯文より:トマ、彷徨するエクリチュール。同一性と類似性、〈何〉の問いと〈誰〉の問い。近づくほどに遠ざかる、言葉と言う深さの無い秘密。バタイユが、フーコーが、デリダが共振するブランショの言語芸術。あたかも一つの夢の顛末が克明に文字と化したかのような、異様な筆力の痕跡。 ■原書:AMINADAB, Paris: Gallimard, 1942. ★そもそも「アミナダブ」という呪文のような言葉の正体は何でしょうか。清水さんは訳者解説でこう説明されています。「十六世紀スペインの神秘家聖〔サン〕フワン・デ・ラ・クルースの作品『聖霊頌歌』の末尾で「アミナダブ」なる人物が言及される。この作品は(・・・)神との合一の実現された境地を、「なにものの眼もとどかぬ、もはやアミナダブも立ち入ろうとはしないこの神秘」とうたっているのである」(326頁)。 ★サン・ファン・デ・ラ・クルス(San Juan de la Cruz: 1542-1591)あるいは「十字架の聖ヨハネ」の『聖霊頌歌(Cántico espiritual)』にはいくつかの日本語訳がありますが、該当部分を引いてみます。 愛する方よ、あなたも、 私とおなじたのしみを味わってください いきましょう、あなたの美わしさのなかで 互いに見交わすために きよい水の湧き出る山に、丘に、 またふかいしげみのなかに もっと深くはいりましょう。 それから行きましょう あの岩の高みにある洞〔ほこら〕に あの奥深く隠れている洞。 あのなかに私たちははいるのです。 そしてざくろの果酒をあじわいましょう。 そこであなたは見せてくださるでしょう。 私のたましいがせつに願っていた あのものを。 そしてあなたはすぐさま 賜るでしょう。 おお私の命であるあなたが 過ぎし日に私にすでにくださった あのものを。 そよ風が吹いています 小夜鳴鳥〔さよなきどり〕のやさしい歌がきこえます。 心魅するたたずまいの森は 澄みわたった夜にいだかれ 焼きつくし、しかももはや 苦しみ与えぬほのおが燃えています。 たれの眼もここまでとどかず アミナダブも姿を見せません 包囲はとけました。 騎士たちも水を見て 降りて来ました。 (「霊魂と天の花むことの間にかわされる歌」の末尾の「花よめ」、東京女子跣足カルメル会訳、『霊の賛歌』所収、1963年、ドン・ボスコ社、400-402頁) よろこびましょう おお 愛するひと 晴れわたるあなたのうるわしさ そのなかに われらの姿を写しに おお まいりましょう きよらの水湧く丘へ 山へ もっと幽〔くら〕い森の深みへ わけいって! まいりましょう 径〔みち〕も絶え果てた山の高みに 蒼々と深い 石の洞窟のあらわれるまで―― その奥に踏みいり 二人して 石榴の霊酒〔さけ〕を くみかわしましょう そこでこそあなたは わがこころのつきせぬ願いを 満たして下さる そこでこそあなたは おおわがいのち 無垢のむかしに下さったものを またわたくしにさずけて下さる わがこころの尽きせぬねがい それは 吹きめぐるその風 春を讃える小夜鳥〔さよどり〕の爽やかな囀り そして果てしない森の壮麗 おおそれを 澄みわたる夜の深みに こころを燃やしつくす涼しい炎〔ほむら〕のただなかに 下さいますよう なにものの眼もとどかぬこの神秘 もう魔者〔アミナダブ〕も立ちいろうとはしませぬ まわりより攻めたてていたものもいまは和し ここにたたえる湖〔みず〕のひかりに 騎馬の兵士らは 馬をおりて寄ってまいります (「聖霊頌歌」末尾の「花よめ」、芳賀徹訳、『聖霊頌歌/暗い夜』所収、私家版〔制作=中央公論美術出版〕、1997年) Esposa Gocémonos, Amado, y vámonos a ver en tu hermosura al monte y al collado, do mana el agua pura; entremos más adentro en la espesura. Y luego a las subidas cabernas de la piedra nos iremos que están bien escondidas, y allí nos entraremos, y el mosto de granadas gustaremos. Allí me mostrarías aquello que mi alma pretendía, y luego me darías allí tú, vida mía, aquello que me diste el otro día. El aspirar de el aire, el canto de la dulce filomena, el soto y su donaire en la noche serena, con llama que consume y no da pena. Que nadie lo miraba, Aminadab tampoco parecía, y el cerco sosegaba, y la caballería a vista de las aguas descendía. (以上、原文) ★清水さんはこうも解説しておられます、「『アミナダブ』の主人公が奇怪な建物のなかに入りこんで以後、ひたすらに彷徨をつづけ、最後に辿りついた部屋で暗黒に包まれていくその道程(・・・)彷徨の果てに彼が見たもの、あるいは見たであろうもの、それはあらゆる知的理解を超えたもの、想像を絶した永遠に未知なるもの、いかなる知とも次元を異にした《非=知》なのである」(323頁)。主人公トマのみちゆきと、十字架の聖ヨハネの神秘体験を重ね合わせることができるだろうとのご指摘です。 ★十字架の聖ヨハネにおいて、花よめは神秘の洞窟の暗闇の中で至高なるものの恩寵と出会うのですが、ブランショのトマはどうでしょうか。ラストシーンはこうです(以下、ネタバレを含みます。ご注意下さい。反転させれば読むことができます)。 「彼は、何秒かの猶予を得ようと片手を挙げた。若い女のほうには彼にきっとなにか言うことがある、本気になって救いを求めればいいのだ。そこで彼は身を前に投げ出した。けれどこの瞬間に陽光の最後の反映が消えた。彼は眼を大きく見はり、腕をさしのべた。彼の両手はおずおずと開き、夜の中をまさぐった。そして彼はいまや説明をしてもらえるときが来たと思った。/「あなたは誰ですか?」 彼は、静かな確信のある声で言った。それはまるで、この質問で、彼には間もなくすべてが解明されそうだとでもいうふうだった」(322頁)。 ★こんなにも静謐で、こんなにも不安にさせる最後の瞬間は、まるで「終わり」を感じさせません。かえってここでようやく何か新しいことが始まるか、あるいはまた元通りのスタートラインへ帰ることなるのか、はたまた、ゲームのバグのように、そこからは出口のない裏ステージの、円環を描く無限の螺旋階段へと落ち込んで二度と出られないのか、いくつかの選択肢に開かれているような手触り感があります。これらのマルチプル・エンディングは、読者自身のイマジネーションの中で補完するしかないだけに、とてつもなく不気味です。 ★『雅歌』にも似たスピリチュアルなエロティシズムを湛えた十字架の聖ヨハネの頌歌の美しさは、こんにちの読者をも魅了します。一方、ブランショの『アミナダブ』は読者を思考の迷宮へと追い込み、謎を残します。この作品の難解さは、読者を容易に近づけさせません。 ★ちなみに、旧約聖書に時折名前だけ出てくるユダヤ人アミナダブAmminadab(mが一つ多い)は、ヘブライ語で「わが民は寛容である」を意味します。同名人物は、ダヴィデの祖先を含む三名だそうです。 ★奥付裏の広告によれば、書肆心水さんでは、今後、デリダのブランショ論『境域〔パラージュ〕』(若森栄樹訳)、ブランショの長篇小説『至高者』(天沢退二郎改訳版)、ブランショのカフカ論を集成した『カフカからカフカへ』を順次刊行する予定だそうです。このほかにも同書肆ウェブサイトでは『両大戦間期論集――政治から文学へ』(上田和彦編訳)が予告されています。 ★なお、弊社ではブランショの最初の小説、『謎の男トマ』の1941年初版本の完訳書を刊行予定です。また、現在品切中の『書物の不在』は、造本を変えていずれ再刊するつもりでいます。
by urag
| 2008-11-10 06:25
| 本のコンシェルジュ
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Comments(2)
![]()
いつも拝見しております。『アミナダブ』待望の再刊、しかしお値段が。。。 ブランショの小説を文庫版で気軽に読みたい、なんていったら罰があたるのでしょうか。ネグリの『アノマリー』とあわせて買うとちょうど一万円。『構成的権力』もそうでしたが、ネグリもなぜこの時代に仏語版からの重訳なのでしょう。やっぱり罰当たりかな。
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横田さん、こんにちは。ブランショの文庫化、私にとっても夢です。書肆心水さんや弊社のような零細出版社は流通上の制約を背負っているため文庫市場には参入しがたいのですが、筑摩書房さんあたりがまずは自社の『来るべき書物』や『踏みはずし』を文庫化するといいですね。ネグリの重訳問題、事情がこみいっているので一言では書ききれませんが、弊社ではイタリア語の原典や原稿に当たるようにしています。
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