2008年 10月 15日
![]() 早川書房さんのプレスリリースにはこう宣伝されています。「講演がスタートするや、新潮文庫版『カリギュラ』(渡辺守章訳、1971年刊。現在入手困難)を求めるファンが書店に殺到。〔上演会場のシアターコクーンがある〕渋谷の各書店では「『カリギュラ』絶版です」という張り紙がなされ、神保町の古書店外からは旧訳版がいっせいに姿を消し、オンライン書店Amazonの古書コーナーでは2万円を超える値がついた」と。 そんなお祭り状態だったとは知りませんでした。書斎の文庫棚に並ぶカミュの一連の書目の中から渡辺訳版を取り出して、思わずまじまじと眺めずにはおれませんでした。これに2万円をつけるなんていくらなんでもヒドイな。20年前は360円だったのに。これぞホントの不条理劇。 写真は左が、舞台のDVDプレゼントを謳ったオビ付きの新訳版、右が新潮文庫版です。カミュでも絶版は避けられないのですね。まあ、たいがいの日本人にとって見れば、カミュと言えばタレントのセイン・カミュさんを真っ先に思い浮かべるような時代でしょうし。セインさんをかの文豪の孫だとは知っていても、カミュの作品を読んだことのある若い人は少ないのでしょう。でも、小栗旬さんのおかげで、カミュが再読されるなら、それは喜ばしいことです。 舞台『カリギュラ』がどうしてそんなに好評だったのかは知りません。『カリギュラ』はそもそも内容が暗いし、残虐に振舞う皇帝カリギュラの狂った生き様は、ストレス社会で穏やかに生きたいはずの現代人にはあまりにも「無駄」で「過剰」な感じがします。しかし、この世を疎ましく思うあまりに陰惨な事件を起こす人々が現実にいるわけで、カリギュラの暴力性は誰もが内に抱えているものなのかもしれません。げんに、カミュは当初、「カリギュラはきみたちひとりひとりのなかにいる」(153頁、訳注11)とラストシーンで主人公自身に語らせたかったようです。 カリギュラは身内の死をきっかけに、横暴な君主に変貌します。彼にとって、世界はありのままで充分ではなく(新訳22頁)、そのままでは耐えられない代物であり(同頁)、それゆえ彼は「不可能なもの」を欲します(21頁)。人間は常に死と隣り合わせであることを分からせるためなのか、彼は市民から財産を取り上げ、餓死へ追い込もうとし、家来たちを次々と処刑します。カリギュラがついに人間と世界を全否定するに至る(47頁)のを阻止するために、家来で物書きのケレアはカリギュラを抹殺しようとします。 カリギュラはケレアに向かってこう言います。「おまえは頭がいい。頭の良さは、高くつくか、それともみずからを否認するか、そのどちらかだ。おれは代償を払う。おまえは、どうして否認せず、しかも代償を払おうともしないんだ」(105頁)。ケレアは答えます。「どうしてかといえば、生きたいからです。幸福でありたいからです。不条理をありとあらゆる結末へ押し進めるのでは、人は生きることもできず、幸福にもなり得ません」(同頁)。 カリギュラはほどなく家臣たちに殺されます。断末魔はこうです。「おれはまだ生きている!」(150頁)。「カリギュラはおまえ自身だ」と説教されるよりは、このラストのほうが全然いいし、不気味ですね。 カフカの『審判』では、主人公ヨーゼフ・Kは犬のように殺され、読者はその不可解な死を受け入れるほかはなく、主人公の影のような「恥辱」だけが残るのを見ます。主人公は復活できません。いっぽう、カフカと同様にカミュが不条理を描くとは言っても、『カリギュラ』の場合は、主人公が殺されてもその死は必然であり、さらに言えばこの暴君は死を通り越して読者の胸の内にその分身を生かし続けるような怨念を感じさせます。主人公は何度でも生き返るのです。 Kは転生せず、そのかわり死という最後の安楽があります(「流刑地にて」の将校や、「断食芸人」の主人公のように)。しかしカリギュラは転生し続け、死の安楽を得ることはありません。悪夢は覚めないのです。 覚めない悪夢を与えるという意味ではカミュの『カリギュラ』は最悪なまでに気分の悪い作品です。しかしそれゆえに読者を試す孤高な作品でもあるのです。この毒――苦い教訓であり、消尽しきれない強い「念」――を飲んでしまった若い読者は次にどの本を読めばいいのでしょう。ハヤカワ演劇文庫では『カリギュラ』はアルベール・カミュ戯曲集の第一巻と位置づけられているようなので、今後、別の作品が第二巻として同文庫から出るでしょう。 アルベール・カミュ I カリギュラ アルベール・カミュ著 岩切正一郎訳 ハヤカワ演劇文庫 08年9月 本体700円 184頁 ISBN978-4-15-140018-6 カリギュラ・誤解 アルベール・カミュ著 渡辺守章・鬼頭哲人訳 新潮文庫 71年6月 360円(88年19刷当時) ISBN4-10-211405-X
by urag
| 2008-10-15 05:28
| 本のコンシェルジュ
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