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URGT-B(ウラゲツブログ)

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2008年 05月 16日

「することができない」のではなく、「しないことができる」のだ

エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』(木村榮一訳、新潮社、08年02月)を取り上げた、『朝日新聞』08年04月27日付けの、翻訳家・鴻巣友季子さんによる書評「書けなくなった作家の饒舌な物語」の影響があるのか、弊社より刊行しているアガンベン『バートルビー 附:メルヴィル「バートルビー」』がよく売れています。

鴻巣さんの書評にはこうありました。「メキシコの作家ルルフォはかの『ペドロ・パラモ』の執筆時を振り返り、まるで誰かの「口述」を書きとる感じだったと言い残し、その後ぱたりと書かなくなった。この代書人タイプの「患者」は、文学史的にも重要な位置にある。「作者=筆生」という考え方は、古代ローマにはすでに見られ、それはさらに、アリストテレスが「まっ新(さら)な書板」に準(なぞら)えた「思考」の概念へと遡(さかのぼ)る。この書板は未(いま)だ起きぬあらゆる可能性を含んだものであり、「何かができる」ことより、「しないこともできる」潜勢力に強調をおく。存在と無の間。肯定でも否定でもないもの。何か頼まれるたびに、I will not(したくない、しない)ではなく、I would prefer not to(しない方がいい)と拒み続けたバートルビーは、まさにそうした宙づりに耐え、あらゆる可能性の「全的回復者」となる、と指摘したのは、哲学者のアガンベンだった」と。

今月刊行された河出文庫の新刊、スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東――革命とテロル』には「バートルビー」という章があって、その末尾にはこう書かれています。

「彼の[メルヴィルの小説『バートルビー』の主人公であるバートルビーの決まり文句の]「……しない方を選ぶ」は字義通りに受け取られねばならない。それは「……しない方が好き」と言っているのであって、「そうすることを好まない(あるいは気にしない)」とは言ってい《ない》。このメルヴィルによってわれわれは、否定的判断と無限的判断とのカント的区分に連れ戻される。〈主人〉の命令に背くバートルビーは賓辞を否定するのではなく、むしろ賓辞ではないことを肯定するのである。彼が言っていることは、《それを行うことを欲しない》ではなく、《それを行わないことを好む(欲する)》なのである。またこの拒絶の仕方こそ、否定することに寄生する「抵抗」や「異議申し立て」の政治から、覇権(ヘゲモニー)をめぐる場所(陣地)取り《と》その否定の外にある新たな空間の可能性を開く政治への移行のあり方を示しているのである。これが、その純粋なあり方を採った減法、あらゆる質的差異を純粋に形式的な微少の差異へ還元する振る舞いと言うものである」(229頁)。

つまり「××になりたくない」という単純な否定形ではなく、「××にならないことが《できる》」という肯定形。もうひとつの世界やもうひとつの自分の実現可能性を肯定することであり、それがいわばオルタナティヴを生むポテンシャル=潜勢力であるわけです。アガンベンの言う「あらゆる可能性の全的回復」、ジジェクの解説する「否定の外にある新たな空間の可能性を開く政治への移行のあり方」、それは端的に言って「革命的契機」であることでしょう。

「することができない」のではなく、「しないことができる」のだ_a0018105_19392758.jpgロベスピエール/毛沢東――革命とテロル
スラヴォイ・ジジェク:著 長原豊+松本潤一郎:訳
河出文庫 08年5月 1,260円 328頁 ISBN978-4-309-46304-9
■カバー裏紹介文:革命にとって「恐怖」とは何か。〈文化大革命〉の驚くべき帰結とは……悪名高きロベスピエールと毛沢東をあえて復活させ「革命的政治」を再審しながら、最も危険な思想家が〈現在〉に介入する。あらゆる言説を批判しつつ、政治/思想を反転させるジジェクのエッセンス。独自の編集による文庫版オリジナル。
■目次:
I 毛沢東――無秩序のマルクス主義的君主
II バディウ――世界の論理
III ロベスピエール――恐怖〔テロル〕という「神的暴力」
幕間1――〈たら……れば〉歴史論の反転
IV バートルビー
 1 グローバル金融の竹篦〔しっぺい〕返し――《スター・ウォーズ》IIIの陥穽
 2 ……しないことが好き――バートルビーの政治
幕間2――退廃と偽善
 1 《24》
 2 偽善への訴答――二つの死
V 非常事態

訳者あとがき(長原豊)

***
[08年5月19日追記]
「バートルビー」関連でぜひともつけ加えねばならない情報があります。ヴィレッジブックスから先頃創刊された、柴田元幸さん責任編集による文芸誌「モンキービジネス」第一号に、メルヴィルの小説「バートルビー」の柴田さんによる新訳が掲載されています。150-203頁の「書写人バートルビー――ウォール街の物語」がそれです。今後、古典的作品の新訳が連載されるそうです(柴田さんは「COYOTE」誌でも、「柴田元幸翻訳叢書[EXPLORING OLD LITERARY FOREST]」という連載を今月から開始されましたよね)。とても楽しみです。また、第一号にはカフカの傑作短編「流刑地にて」が西岡兄妹さんによる作画で漫画化されています。元になっているのは、池内紀さんの翻訳です。面白い試みだと思います。第二号は7月20日発売予定だそうです。

旧聞に属しますが、今年二月に刊行されたポプラ社創業60周年特別企画の世界文学アンソロジー『諸国物語』にも、「バートルビー」が収録されています。こちらは杉浦銀策さんによる翻訳です。これはもともと、国書刊行会から83年に「ゴシック叢書」の一冊として出版された、杉浦さん訳のメルヴィル中短篇集『乙女たちの地獄』全二巻の、第一巻に収録されたものが初出だったろうと思います。

by urag | 2008-05-16 19:40 | 本のコンシェルジュ | Comments(4)
Commented by ファルシュ at 2008-05-20 23:36 x
柴田元幸編集の雑誌「モンキービジネス」に柴田訳でメルヴィルの『バートルビー』が載ったことも、関係しているかもしれませんね。
僕にはアガンベンの難解な論文よりも高桑和巳氏による「バートルビーの謎」の章が成果となりました。
Commented by urag at 2008-06-05 19:22
ファルシュさん、亀レスごめんなさい。きっと高桑さんはお喜びになると思います。ありがとうございます。
Commented by のんぽり at 2009-06-18 15:50 x
 瑣末事ながら、ジジェクの引用文中「間と敵区分」は確かめたら「カント的区分」ですね。「言って《いない》」も、「いない」ではなく「ない」二字にゴマルビでした。「覇権をめぐる場所取りとその否定の外」の「と」にもなぜかゴマルビ強調ありです。 
 「覇権」「陣地」云々はグラムシ流でなくとの意とすれば、ハートやネグリへのあてこすりと見受けられ、おっしゃる「革命的契機」すら「しない方が好ましい」となるのではと存じますが……。「行わないことを好む(欲する)」と換言したところにジジェクなりの逆説的アクティヴィズムを看取するにせよ、ジジェク著は結論で「バートルビーの政治」を、「受動性へ《退隠-撤退する》こと、参加を拒絶することである」とします(『ロベスピエール/毛沢東』p.274)。それを政治と呼ぶのも無理があって、そこまでゆけばもう非政治になるべきはずです。
Commented by urag at 2009-06-19 04:00
のんぽりさんこんにちは。誤植のご指摘、ありがとうございます。のんぽりさんの読解はまったく妥当だと思います。ジジェクの冷笑ぶりが私はあまり好きではないので、そこを裏返したいわけです。裏返すと、ジジェクを無毒化しかねないリスクも負うことになりますが、魔術化を避ける一回路ではあるというのが私の持論です。


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