2007年 03月 25日
本日25日配信の「[本]のメルマガ」280号に寄稿した拙文を転載します。 ---------------------------------------------------------------------- ■「ユートピアの探求」/ 五月 ---------------------------------------------------------------------- 「一万円以上のお買い上げですので、宅配が無料でご利用いただけますが、いかがでしょうか」。いつもはすぐにでも読みたいからどんなに重くても持ち帰るのだけれど、その日の買い物に急ぎのものはなかったので、宅配してもらうことにした。レジの脇のサービスカウンターに座り、伝票に住所を書く。その時までまったく気づかなかったのだけれど、いつもお世話になっている当該書店の店員Aさんが私のすぐ隣の席で接客をしていた。 Aさんは男性客の購入した自由価格本の値札シールを丁寧に剥がして、カバーに消しゴムをかけているところだった。男性客の世間話を立ったまま聞きながら、Aさんはにこやかに消しゴムをかけている。自由価格本はセール品であり、そもそも綺麗な状態のものを期待するような商品ではない。値札を剥がしたり消しゴムをかけるのは購入者自身が持ち帰った後に自分の望むようにやればいい。それを書店員がやっているということは、恐らく何かしらの要望を訴えられたのだろう。 終始穏やかに対応しているAさんに、私は半ば胸を打たれる気がした。一人の購入者に尽くすというそのホスピタリティ。本当は分刻みで忙しい人だということを私は良く知ってる。なのにそのそぶりも見せない。一メートルと離れていない場所に座っていた私はその物静かな光景を前に感銘を噛み締め、ついに一言の挨拶もできないままその場を離れた。 Aさんから教えられたことは他にもある。「書店員は学者ではないから、学問について深く知らないのは仕方がない」という人が業界にはいる。これが一種の開き直りやエクスキューズに用いられる場合があって、それを言われて困らない版元営業マンはいないだろうと思う。会話がそこで途切れてしまうのが常なのだけれど、Aさんはその先の言葉を持っていた。 書店員は学者ではないから、学問について深く知らないのは仕方がない、しかし、書店員は「だから知らないままでいい」のではなくて、「知らないことを誰に聞けばいいか、何で調べればわかるのか、押さえておく」ことが重要なのだ。それがAさんの主張だった。私もまったく同感だった。「書店員」という言葉を「出版人」に置き換えても、この主張は真である。 Aさんは接客も書棚作りも一流だった。なによりも書店という場を熱愛する人だった。大学で哲学を学んだ自称ヘーゲリアンのAさんはキャリアを積むごとに、書棚をいじる仕事から引き離され、売場を統括する管理職になっていった。本好きの書店員にとって、棚に手を掛けられないのはとても辛いことだ。けれどもAさんはただの本好きではなく、書店という空間を愛していたから、管理職の仕事を黙々とこなし、なおかつバックヤードではなく接客の第一線にその身を晒していた。 毎日何千人という客が相手ではおそらく精神的にへとへとになるに違いない。それでもAさんはやはりレジに立っている。しかもこのレジがすごい。大書店はたいていフロアごとにレジがあるけれど、Aさんの勤める書店は、地下一階から九階までの全フロア分のレジを一階にのみ集中させているのだ。日本一広い書店の、日本一広いレジカウンターである。 普通の人だったら、そんな現場の責任者にはなりたくないだろうけれど、任命されたAさんの反応は逆だった。Aさんは当時を振り返ってこう述べている。 「二〇〇〇年末、ジュンク堂池袋本店の一階集中レジの完成を目の当たりにした時、「すごい舞台を与えてもらった」と、若かりし日に役者として臨んだ初日の舞台と同趣の感動を、ぼくは覚えました」(福嶋聡『希望の書店論』人文書院刊、217頁)。 なんという度量だろう。昨日、Aさん――福嶋聡さんはジュンク堂書店池袋本店副店長としての職務を終えた。来月からは大阪本店の店長として赴任するのだ。新著『希望の書店論』の刊行記念パーティを兼ねた、東京での壮行会では、多くの出版人が集った。 『希望の書店論』というタイトルは非常に象徴的だ。なぜならば福嶋さんは業界に垂れ込める絶望の暗雲と常に果敢に戦ってきた、戦おうとしてきた人だから。福嶋さんはこう書いている。 「今、〔書店業界が〕厳しい状況であることは、誰でも知っている。でも、「駄目だ、駄目だ」と言っていたって埒は開かんでしょう。出版物を扱うというのは、とても魅力的な仕事なのだから、なんとかいい方向に持っていこうよ、そのためには、「もう駄目だ」と言っちゃおしまいでしょうが」(同書、185頁)。 壮行会で福嶋さんは私の求めた同書に、こんな献辞を書いてくださった。 「哲学思想は永遠に不滅です」。 どこか冗談めいていて、どこか真剣で、どこか泣かせる。やれやれ、いくら書いても書き足りない。書こうとしてもすべてのことを明かせるわけでもない。あとは酒の席で話しますから、福嶋さん本人にでも、私にでも、今度声を掛けてください。
by urag
| 2007-03-25 23:13
| 雑談
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