本日15時過ぎから、東京大学駒場キャンパスの学際交流棟3階・学際交流ホールで行われたラウンドテーブル「ジャン=リュック・ナンシー「無-無神論(A-atheisme)」について」(ナンシー+鵜飼哲+小林康夫+西谷修+増田一夫+湯浅博雄)は、会場から人が溢れるほどの大盛況でした。
「考えること、それは自らを開くことです」というナンシーさんの言葉が胸に残っています。発表用の原稿にはこう書かれています。「思考は、まさしく思考そのものの外部へと自らを開くことで、思考する。あるいは思考は、自らを廃棄することなく、また自らをより高次のものとするのでもなく、自らを開くということ以外の何もしないことによって、自らを超出すに至ったということを自らに対して顕わにする」(西山達也訳「無-無神論」第四節より)。
「不可能性に直面する時こそ、思考は開始される」とも仰っていたと思います。
写真は、昨春にガリレより刊行された"La Déclosion (Déconstruction du christianisme, 1)"です。『キリスト教の脱構築』の第一巻です。おそらくナンシー晩年の主著と将来は目されるだろう本です。表題のデクロジォンとは「閉域を開く」の意。壮大な挑戦が始まります。

超越論的な〈不在の神〉への問いではなく、「〈生きた神〉への問いが私たちのかいなのうちに残されている」と語ったナンシーさんの思考の集大成がここにあります。「~とは何か」「~はいつか」「~はどこか」等といった問いが導き出す超越論的な最終回答としての〈神〉ではなく――「神は死んだ」とニーチェはすでに言ったのですから――、そうした問いによっては捉えることのできない何ものかへと、自ら開かれていくこと。
例えば「人間とは何か」という問いを突き詰めていくと、その問いは私たちの日常における生活体験の細部や個々の世界を吹っ飛ばして、より抽象的で「高度な」答えを要求するものであることがあらわになってきます。そうした問いかけは時として〈生〉のディテールを破壊し洗い流してしまうかのような、一種洗脳的な威力を持っています。
「~とは何か」という問いでは捉えることのできないかすかなもの。そこへ思考を開き、自らを開いていくこと。・・・これらが今日のナンシーさんの講演によって私が触発されたところのものです。