たしかに蔵書にあった本がいつの間にかない、というものの中でも、巻数ものの「紛失」は余計に気落ちさせます。それがすでに今となっては絶版になってしまったものならなおさらです。そういうときはどうするか。古書店を探して買いなおします。探して買いなおせるものならばいいけれど。
自分では探しつくしたと思っていた実家から「出てきたよ」と発掘の一報。もう何年も目にしていなくて、いったいどこに置いてしまったのか、引越しを繰り返す中で、あるいは仕事で使いまわす中で紛失したのか、それともうっぱらっちまったのか、いやいやまさか売りはしまい、しかしひょっとすると、そんな本を持っていたという「夢」を見ていたのか――あれは幻だったのだ、とすら思いかけていた本たちが、ようやく「出土」。
発掘された本たちの書名を聞けば、なぜ自分でも思い出せない場所に置いてしまったのか不思議なほど。結局それは私自身がそういう場所に置いたのではなかったようですけれど。実家には実家の都合があって、邪魔なときは本をどかすさ、そりゃ当然。かくして自宅に引き揚げきれない幾つかの行方不明者たちが実家に埋もれます。
このたびのめでたい出土にもかかわらず、まだ出てこない本たちがあります。まとまった数のアート系絶版本たち。ダンボールにまとめてあったはず。きっと出てくる、時間が経てば。それまでひっそりと、すこやかに眠っていておくれ。間違っても黴やその他の「外敵」に負けずに。でもひょっとして自分で何気なく売っちまったんだろうか。どうしても思い出せないのです。
本を長く保存することの難しさについては、古典的名著『書物の敵』(ウィリアム・ブレイズ著、高橋勇訳、八坂書房、2004年)をご覧ください(ライフログに追加しておきました)。実に剣呑な、多くの敵たち!
幻の本……、「持っている」と長年勘違いしていた本もじっさいにあるようです。これは実に悔しい。入手不能になってから気づく悲劇。「持っていない」と勘違いしている本というのもあります。あやうく古書店で高額なのに買ってしまいそうになる時もあれば、重複して買ってしまうこともごくたまにあります。未読だと思っていた本に自分自身の手になる頻繁なアンダーラインや書き込みを発見するときも驚きますよね。
愛情ゆえにわざわざ同じ古書を何度も買うということもあります。私の場合、かつては、ジョルダーノ・ブルーノの『無限、宇宙と諸世界について (無限、宇宙および諸世界について)』(現代思潮社版および岩波文庫)や、ドゥルーズ=ガタリ『リゾーム』(朝日出版社)など。(H)