2016年 07月 25日
◆2016年7月25日13時現在。 このところ拝読した業界関係者による記事で感銘を受けた3件について何回かに分けて書こうと思います。まずは1件目。 結エディット・野末たく二さん「「閉じた書店のシャッターを再び上げるぞ!」の背景にあるもの」(版元ドットコム「版元日誌」2016年7月20日) 有限会社結エディットさんは「「地域とひとを結びつける」をコンセプトに2001年より出版事業、地域コンサルティング事業などを展開」されているつくば市の会社。地元の視点、業界の視点から、友朋堂書店の来し方と現在について詳しく書いておられます。最近の「版元日誌」の中ではもっとも力作の記事ではないでしょうか。野末さんによる数々の分析の中で印象的だった言葉を以下に引きます。 ひとつめ。「2011年3月11日の東日本大震災は、本の位置づけを大きく変えた。誤解を恐れずにいえば「家に本は必要か?」という問いだ。出版社がこんなことを言っては「身も蓋もない」が、たとえば百科事典を応接間にでんと並べたところで、それが一瞬でごみになってしまう。核家族化が定着し、高齢化するなかで、実家の本棚にある本たち。遺産として手渡されたとき、だれが引き取るのか? だれもがうすうすと感じていたことを、地震や津波はそれを意識化させた」。 仰る通りです。紙の本は場所を取りますし、湿気にも火気にも弱く、日焼けもすれば経年劣化もします。たくさんの書籍を揃えた書斎、という存在への願望は実際のところ、いま、どれくらいの人々が持っているのでしょうか。どんな人々が「たくさんの本のある自宅」に憧れを持っているのか。小宇宙としての書斎(私の場合、本のない書斎は書斎と呼びたくありません)に大きな意義を見出している私は、もちろん願望を持っている側の人間ではあるのですが、少数派かもしれません。 個人的に自宅に十全な図書室を作れるような人は一握りのお金持ちか好事家か研究者でしょう。「自宅にはなくていい」「図書館にありさえすればいい」という方ももちろんおられることでしょう。現状では図書館は網羅的には出版物を取り揃えることができません。図書館が本の世界のすべてだと読者に勘違いされたくない、というのが私の本音です。野末さんが指摘されている「実家の本棚にある本たち」は、救済されることもなく散逸したり廃棄されていくのかもしれません。図書館が引き取ることはほとんどないでしょう。何とももったいないことです。 ふたつめ。「これらの情報が一定のセキュリティが確保された上で共有できれば、出版社はいつ何冊売れたのか、書店は何冊在庫があるのかが「一目瞭然」だ。さらに、この手の本だったら何部くらい刷ればいいか? 現在の「獲らぬたぬきの皮算用」的戦略から、ちょっとはましな科学に基づいた有効なデータがつかめる(ほんとうか?)。少なくともこのことで返本という日の目を見ない本を少なくできるはずだ(もし実現を阻むとすれば、情報の共有化で、一目瞭然となることに不都合を感じるひとたちだろう)」。 書籍流通におけるトレーサビリティについてはそれこそ何十年も前から業界の議題に挙がっていて、これについて考えない業界人はいない、とすら言えるほどではないかと思います。妥当に思えるそうした情報の共有化がいまなお業界全体ではなぜ実現されていないのか、自分なりに分析してみます。 その昔、どの商品がどこの書店から返品されたかが分かるようになれば、爾後の配本に活かせるだろう、ということを取次最大手に相談したことがあります。独立前のことです。先方の答えは「版元がデータを受け取るテーブルを用意してくれればいつでも提供できる」とのことでした。結局、私の勤めていた会社ではシステムを構築するまでには至りませんでした。出版VANですらそうですが、システム導入にはお金がかかります。小零細版元の出版規模にとってはほとんど自己満足にしかなりようがない過剰な出費です。 その後、データを受け取るシステムはダウンサイズし続けていると思いますが、それでも第二の障害があります。「データを版元が本当に有効活用できるか」という問題です。野末さんが正しくも「(本当か?)」と反問しておられる通りです。書店での売上というのは「お店自体の力」だけではなく、「売場担当者の力」によることも多いです。つまり単純に計数管理をしていても、「売場担当者の力」という変数を考慮に入れない限り、どんぶり勘定の販売戦略に留まりがちです。担当者が交代すれば、Sランクの書店さんでも売れ行きが伸びないことがありますし、Bランクの書店さんでも驚異的に伸びることがあります(ちなみに弊社はパターン配本はやっていないので、ランク付けは実施していません)。 実際のところ版元は(書店も?)どんぶり勘定に甘んじるほかなく、すべての関連データを人力で詳細に分析している時間も余裕もない、というのが現実ではないかと思います。では分析を人工知能に任せたら、とも言えますが、いつ実現できるやら、ですね。 「情報の共有化で、一目瞭然となることに不都合を感じるひとたち」というご指摘については、ひょっとすると、不都合に感じる人はそこらじゅうにいるのかもしれないと想像しています。つまり、私たち版元を含む、ということです。頼りにしている取引先から同意の上で受注したのに、期待を裏切るような大量返品が発生していた、などという話が続々と噴出しうるでしょう。しかしそのことだけで取引先を過不足なく評価できるものなのかどうか。不確定性を少しでも排除しうるような有意なデータ分析というのは計数管理からというより、書店と書店員さんへの長期的な絶えざる実検(親密なお付き合い)の積み重ねによる経験則から生まれるのかもしれません。業界全体で人員削減が進むなか、そうした親密なお付き合いが困難になりつつあることも忘れずにいようと思います。 みっつめ。「事務所と自宅のチャリ通で、路面店の友朋堂書店はぶらり立ち寄れたが、それがかなえられなくなった瞬間、買う権利を奪われたと思った。大げさにいえば選択の余地を奪われたのだ。/この現実に直面したとき、「消費者は消費者のままで良いのか?」という疑問が湧いた。少なくとも、わがままな消費者と言わせないためにも、市民として何か行動を起こす必要があると。〔・・・〕書店だけでなく、商店街がもの凄いスピードで失われていく。この問題は、たんに大型ショッピングセンターが悪いという一言で片付けられないくらい、大きく、複雑だ。ただ、地域の顔の見える範囲で書店が無くなるとことは、まちの問題で、看過できない。ならばどうする? 変えるには仲間の力、ネットワークしかない」。 この課題に取り組もうとしている書店員さんや司書さん、版元さんは少しずつ増えつつあるような徴候をそこかしこに感じますが、世間一般ではどう認知されているのでしょうか。個々人の課題として引き受けるなら、まずは、倦まずたゆまず「仲間」を探すところから、でしょうか。野末さんはこうも書かれています。「営業上のロス以上に大切なのは、「まちにとって書店とはなんだろう?」という問いに対する答えを見つけることだ。/この問いの答えを見つけることは、おおげさに言えば、ひとつの社会実験だと思っている。ロスを抑え、市民が考える必要なまちの書店の機能を新たに加え、魅力を発信していくこと、そんな「気宇壮大」なこと、自分にできるのか? ここは仲間を信じたい」。 まさに「社会実験」ですね。私が思い浮かべる具体的な一例を言えば、地元の版元と書店が直取引をする「製販同盟」の道ですが、これはしかし「地元密着」と「地元を外部に開く」ことの意味と意義をとことん考えねばならないだろうと思います。野末さんの記事に色々な触発を受けた自分でした。 +++ ◆2016年7月25日15時現在。 最近感銘を受けた記事の2件目です。 有志舎・永滝稔さん「高円寺を「本の街」に!」(版元ドットコム「版元日誌」2016年7月13日) 有限会社有志舎さんは2005年に創業された歴史書専門の「一人出版社」。代表の永滝さんが「今年の春からは東京都杉並区の高円寺という街で活動している「本が育てる街・高円寺」(略称:本街)というボランティアグループに参加」されている経緯についてお書きになっておられます。 曰く「このグループは、「高円寺を本の街にしよう」という目標を掲げて、本の交換市(文字通り、本と本と交換するイベント)やブックシェア(高円寺の商店に「交換棚」を置いてもらい日常的に本が交換されるようにする)、さらに本に関する様々なイベントを日夜行っています。/本が読まれなくなったという事が言われて久しいわけですが、それをただ嘆いていてもダメなので、ローカルな地域から日常生活の中に本があり、読まれていく環境をつくっていこうと思い、仲間たちとワイワイ楽しく活動しています」と。 そして、こうも書かれています。「私の生まれ故郷であり、今も住んでいる地元・高円寺を「出版の街」「本を生み出す街」にすることです。たくさんの出版社や出版関連会社、ライターさんやデザイナーさんが住み、そういう事務所も置かれて協同して仕事をしていけるような「高円寺出版工房村」(仮称)をここにつくること、さらには書店や古書店もいっぱい出来て、高円寺が神田神保町のような街になること。それが私の夢です」。長期にわたる計画となるため、神保町にある事務所を来年に高円寺に移転されるとのことです。神保町に負けないような「本の街」を「本街」のボランティア仲間や地元の住民の皆さんや商店街の方たち、それに行政ともタイアップしてやっていきたい、との抱負を述べられています。なんという壮大な計画でしょうか。 「私は来年で53歳になりますので、それほど長くないであろう残りの出版人生は「有志舎」と「本街」という「二足のワラジ」で歩んでいきたいと思っています」。これは小規模出版社にとっては非常に大きな決断のはずです。二足のワラジというのは第三者が想像するほど容易なものではないと思われます。それを承知の上で立ち上がろうとされている永滝さんの御決意に勇気を分けていただく心地がします。生活拠点が仕事の拠点でもある小規模出版社はそれなりの数いることと思いますが、そうした中で「自分の住んでいる地元を盛り上げたい」という気持ちを持っている出版人もまた、それなりにいると想像します。私自身もそうで、胸中では色々なことをこれまで妄想してきました。ただしその実現のために一歩踏み出せるかどうかというと、妄想と実現との隔たりは大きいと言わざるをえません。 結エディット・野末たく二さんの記事からも同様に示唆をうけたポイントは、「仲間」を作っていくことの大切さです。せめて自分の生活拠点では他人との距離を保っていたい、と思う方もいることでしょう。故郷愛には独りではぐくむたぐいの側面もあって、誰かと簡単に分け合えるものではない場合があります。誰かが愛しているものは誰かが憎んでいるものであるかもしれないからです。しかし、現代社会においてその構成要素たる様々なコミュニティが、コミュニティ同士だけでなく、それ自身の内部でもバラバラに分裂したままでいい、というわけでもありません。地域コミュニティは住民自身が参画し、育て、革新するとともに持続的に保守せねばならない時代に、ますますなりつつあるようにも感じます。 なお、ボランティア団体「本が育てる街・高円寺」(略称:本街〔ほんまち〕)との提携で有志舎さんが行っておられるという「研究者の方を対象にした、古書寄贈・買取りの仲介」については有志舎さんのウェブサイトの2016年2月22日付告知「「本が育てる街・高円寺」プロジェクトとの提携による、研究者の皆さんの蔵書(古書)買取りについて」に詳しいです。曰く「このプロジェクトは、東京の高円寺(杉並区)を拠点に、本を通してコミュニティの絆を作り直そうという試みです。/単なる商店街振興だけのような「街おこし」ではなく、オルタナティヴな「街おこし」を目指していきたいと思います。〔・・・〕①お手元の本で、ご不要になったものを無料でご寄贈いただければ有り難いです。/②ご寄贈が無理な場合、古書として適切な値段で買い取らせていただきます(スタッフの中にプロの古書販売業者がいます)。なお、集荷にうかがえるかどうかは改めてご相談させていただきます。/皆さんからのご寄贈本もしくは買い取り本を元に「本の交換市」を開催したり、古書市場などで販売して資金を作り、それを元手に様々な本に関するイベントをやったり、地域の社会活動の支援を行なったりしていきたいと思います」。 私が私の地元で何ができるか、自問する機会を永滝さんに与えていただいた気がします。 +++ ◆2016年7月25日16時現在。 最近感銘を受けた記事の3件目。 ジュンク堂書店難波店店長・福嶋聡さん「書店は面倒くさい。民主主義は面倒くさい。されど、さればこそ」(「日本の古本屋メールマガジン第208号」2016年7月25日配信「自著を語る(168)」) 福嶋自身さんの最新著『書店と民主主義』(人文書院、2016年6月)をめぐる記事です。曰く「高橋源一郎がいう「民主主義」の定義=「たくさんの、異なった意見や感覚や習慣を持った人たちが、一つの場所で一緒になっていくシステム」を採用するならば、それぞれの著者がさまざまな主張や思いを籠めた多くの本たちが所狭しと並ぶ書店店頭こそ、民主主義そのものの顕現の場ではないだろうか。/だからぼくは、自分の信念に基づいて、堂々と商品を並べアピールする。一方で、自分の主張と敵対するような書物も、排除するつもりはない。意見を持つことと、他の意見を排除することは違う。民主主義は、限りない議論と説得という、とても面倒くさいシステムなのだ。その面倒くささに耐え切れなくなると、「正義」が他を制圧しようとする。/書店は面倒くさい、民主主義は面倒くさい、だがその面倒臭さゆえにこそ、大切にいとおしまなければならない。『書店と民主主義』というタイトルに、ぼくはそんな思いを託した」。 この「面倒くささに耐え切れなくなると、「正義」が他を制圧しようとする」という《真理》は現代において世界中で目にするものではないでしょうか。反ヘイト本だけでなくいわゆる「ヘイト本」を店頭に置くことが、「儲けることしか考えておらず、ヘイトを助長しているだけ」だという意見をネットで見かけたことがありますが、私は同意できません。対立する双方の陣営が互いに「ヘイト」を排撃していく果てには最悪の言論弾圧が待ち受けています。言論の自由が風説の流布や誹謗中傷を含むのではないことは自明ですし、風見鶏・日和見・八方美人であることが必ずしも美徳ではないこともまた自明ですが、だからといって書店を攻撃するのは筋違いです。文化の多様性がそもそも冒涜的なものを含んでしまうのだと断罪するとしたら、もはや書店は誰かの信念を満足させるようなあらゆる意図のための攻撃対象にしかならないでしょう、特定の原理主義的集団によって破壊されていくいにしえの他者の文化遺跡のように。書店や図書館がテロや圧力の標的であってはならないし、不寛容さに屈する必要はない、と私は思います。事態がエスカレートするような未来が到来しないことを祈るばかりです。ヘイト側からだけでなく、反ヘイト側からも書店にクレームが入るというのは実に興味深い、皮肉なことです。 +++
by urag
| 2016-07-25 13:52
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