2005年 08月 21日
フランス現代思想に興味を持っている編集者や読者、また、大書店の哲学思想書の担当者にとって必読書となる新刊が文庫クセジュの一冊として刊行されました。文庫といってもクセジュの場合、新書ですけれども。 科学哲学 ドミニック・ルクール(1944-)著 沢崎壮宏(1971-)+竹中利彦(1971-)+三宅岳史(1972-)訳 文庫クセジュ(白水社) 2005年8月刊 本体951円 新書判164+19頁 ISBN4-560-50891-7 ■カバーの紹介文より:ウィーン学団やバシュラールを経てクワインやハッキングへと至る科学哲学は、サイエンスの目的と方法をめぐる探求である。本書は、学説史を詳しく解説しながら、ヨーロッパや英米の伝統が合流する将来を展望してゆく。フランス科学哲学界を代表するルクールによる、わかりやすい入門書。 ■原書:"La philosophie des sciences" par Dominique Lecourt, PUF, 2001. ■ルクールの既訳書:『ポパーとウィトゲンシュタイン――ウィーン学団・論理実証主義再考』野崎次郎訳 国文社 1992年7月刊 A5判上製390頁カバー装 ISBN4-7720-0358-4 ![]() ●ルクールの著書の日本語訳はこれでようやく二冊目です。バシュラールの『科学認識論』(白水社)の編者でもあります。その活躍は国際的に知られているはずですが、不当に訳書の少ない学者の一人だと言えます。カンギレムとアルチュセールの弟子筋にあたります。 ●本書『科学哲学』が必読書であるのは、フランス現代思想においては「科学哲学」の知的貢献が根本的な次元に及んでいるからです。フランスのみならず、独墺の論理実証主義や英米の分析哲学などにおいても、「科学哲学」的アプローチは根本的なものでした。科学の科学であり哲学の哲学であって両者を統合的に基礎付けようとする「科学哲学」はいわば、学問そのものの根源的な方法論と基礎付けについて反省を促すのですね。 ●20世紀後半の「フランス現代思想」を代表する人物として日本で知られているのは、ごく大雑把に言って、ドゥルーズ、フーコー、デリダの三名ですが、彼らを学問的に陶冶したものに二つの潮流がありました。「哲学史」と、「科学哲学」(より狭義では「科学認識論(エピステモロジー)」)です。三人の教養と方法論は、この二つの連綿たる潮流からくみ上げられ、あるいは鍛え上げられたものだと言って差し支えないと思います。 ●哲学史家系列には、ゲルー、グイエ、ラクロワ、コジェーヴ、アルキエ、イポリット、ロディス=レヴィス、シャトレ、フィロネンコらがおり、科学哲学系列には、バシュラール、カヴァイエス、カンギレム、グランジェ、ダゴニェ、シモンドン、アトラン、プティトーらがいます。どちらにも股をかけた人物に、コイレやドゥサンティ、モラン、ヴィユマン(あるいはヴュイユマン)、セール、スタンジェールといった人々を数え上げてもいいかもしれません。もとより十分な言及ではありませんが、話の本筋ではないですから切り上げます。 ●ドゥルーズやフーコー、デリダが言及・参照したり、献辞や感謝の念を捧げたりしている相手が誰かを見ていけば、哲学史家と科学哲学者が織り成す星座が見えてくると思います。 ●科学哲学、わけても科学認識論(エピステモロジー)は、人文科学を革新しようとする人々によって大いに活用されました。たとえばアルチュセールは次のように告白しています。「知の諸作品を読むにあたって、かつてのバシュラールやカヴァイエス、今日のカンギレムやフーコーのような巨匠たちにわれわれを結びつけている、明白なあるいはひそやかな負債(・・・)」(『資本論を読む』バリバールとの共著、権寧+神戸仁彦訳、合同出版、1974年、17頁)。 ●『科学哲学』の著者ルクールは、1965年から1970年にかけてエコール・ノルマル・シュペリウールでアルチュセールに師事していました。ルクールの著書には、バシュラール論やカンギレムやフーコーを扱ったものがある一方で、レーニン、ルイセンコ、ボグダーノフらについての研究書もあります。ルクールの存在は、科学哲学の本流であるバシュラールと、哲学史研究の異端的革新者であるアルチュセールという、この二人の学問的恩恵のハイブリッドであるわけです。 ●フーコーについて一言述べなければなりません。フーコーはいわゆるエピステモロジストでもなければ、哲学史家でもありませんでした。彼にはカンギレムやイポリットらとの親密な交友がありましたが、フーコーの探究は非常に独創的だったので、エピステモロジーの枠組みにも哲学史の枠組みにも収まりきらなかったのです。〈逸脱しつつ賦活する〉力が彼にはありました。 ●大書店の哲学思想棚において、フランス・エピステモロジーや科学哲学がどのような知の網目の内に位置づけられるか、悩んできた書店員さんも多いかもしれません。金森修さんの『フランス科学認識論の系譜――カンギレム、ダコニェ、フーコー』(勁草書房、1994年)や、同氏による『サイエンス・ウォーズ』 (東京大学出版会、2000年)、『ワードマップ現代科学論――科学をとらえ直そう』(新曜社、2000年)などを読むとその面白さが分かってくると思うのですが、もっと手軽な本を本屋さんの現場担当者レベルでは必要としていたのではないでしょうか。 ●さらに、金森さんの一連の啓蒙活動が、村上陽一郎さんの『科学の現在を問う』(講談社現代新書、2000年)や佐々木力さんの『科学論入門』(岩波新書、1996年)、戸田山和久さんの『科学哲学の冒険――サイエンスの目的と方法をさぐる』(NHKブックス、2005年) などの啓蒙書とどう接続され、あるいは境界づけられていくのか、ということも気になるはずですし、また、養老孟司さんの「本籍」だった科学哲学コーナーがひょっとしたらもっと面白いものなのではないかと見直し始めた書店員さんもいらっしゃることでしょう。 ●そうした本たちのつながりを認識して書棚を再構成するためには、やはりそれぞれの啓蒙書にざっとでも目を通しておくのが肝要なのですが、そうそう時間がないというのが本当のところだと思います。ルクールの『科学哲学』は、これ一冊をきっちり読めば、ひょっとしたら大きな見取り図を与えてくれるかもしれません。 ●『科学哲学』をそれでもきっちり読まない人のための、ズルい活用法を書いておきます。まずは、目次を眺めてください。キーワードやキーパーソンがちりばめられています。脳裏に焼き付けておきたいところです。次に巻末へ飛んで、訳者あとがきを読みます。本書のおおよその位置づけがわかるはずです。あとがきのうしろには「原著者による読書案内」と、章ごとの「参考文献」があります。これを見て、どの本を在庫していて、どの本が品切か、どの本を一度も見たことがないかをチェックしてください。その際、気になるキーワードや章はチラチラと本文を覗き見します。最後に、人名索引を眺めて、ルクールが誰に頻繁に言及しているか、そして誰に言及していないかを確認します。 ●たとえばそこにはドゥルーズもデリダもいません。ルクールが科学哲学を語る際に、彼らは必要がなかったのです。しかしドゥルーズの『差異と反復』やガタリとの共著である『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』(いずれも河出書房新社)には科学哲学の彼らなりの導入があり、デリダの『「フッサール幾何学の起源」への序文』(青土社)や、未訳のアトラン論や『マルクスの亡霊たち』をひもとくとき、そこにはデリダの射程内での科学哲学への示唆や、アルチュセールとの対話が含まれているのだと思います。いずれにしろ、ルクールとの「流儀」が異なるのです。 ●文庫クセジュはたいてい新書売場にあるので、人文書売場の担当者がチェックしていないケースがあると思うのですが、クセジュをはじめ、新書は人文書にとって宝の山です。編集者にせよ読者にせよ、書店員にせよ、この宝の山を活用しない手はありません。山の中には当然、粒の小さいものや壊れているものも含まれていますが、積極的に発掘するべきです。 ●文庫クセジュの現在入手可能な書目の中で、どれを買っておくべきか、どれを発掘するべきかという話もしたいのですが、長くなるのでまた次回にします。 ●最後に、上記の写真で、『科学哲学』の隣に移っているクセジュは、ジル=ガストン・グランジェ(1920-)の『理性』山村直資訳、1956年11月刊です。フランス・エピステモロジーの重鎮の著書がこの時期に翻訳されていたというのは、クセジュならではのことです。残念ながらとうの昔に絶版。私の場合、現物を古書市場で発見するまで10年以上かかりました。古書というのは、刊行50年以内であれば、長くても数年以内、さらに遅くても5年探せば出てくるものなのですが、こうした新書は「読み捨て」られるものなのか、なかなかの稀覯書です。だからと言って、高騰はしてもらいたくない本です。 ●『理性』はたしかに一部の訳語や表現が妥当的ではなくなった箇所もありますが、読書を疎外するほどのものではまったくなく、白水社さんにはぜひクセジュの絶版書の中から復刊書目を選抜して欲しいなと思います。『科学哲学』の編集を担当されたのは白水社の若き大黒柱である和久田賴男さんですから、目利きの仕事をするのは訳もないことです。 ●グランジェの日本語訳書第二弾は『理性』から40年後の1996年、ようやく『哲学的認識のために』(植木哲也訳、法政大学出版局)が刊行されます。さらにそこから10年が経とうとしていますが、次の日本語訳があるのかどうか、気配すら見えません。もったいないことです。 ●なお、最後に、『科学哲学』を補完するかたちでひもといておいたほうがいいように思う本に、ドゥルーズの弟子であるエリック・アリエズ(1957-)の唯一の日本語訳著書である『ブックマップ・現代フランス哲学』(毬藻充訳、松籟社、1999年)があることを申し添えます。参考文献はこのほかにも色々ありますが、情報量という点では、やはり本書ははずせません。 *** TRCの「週刊新刊案内」の更新がお盆で休みのため、「今週の注目新刊」はお休みいたします。ブックポータルが本当に完全閉鎖になるのか、それとも「週刊新刊案内」だけはなんとか残してくれるのか(無理なんだろうけど)、カウントダウンが始まっています。(H)
by urag
| 2005-08-21 02:27
| 本のコンシェルジュ
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