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2014年 05月 11日

注目新刊:ハル・フォスター『アート建築複合態』鹿島出版会、ほか

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アート建築複合態
ハル・フォスター著 瀧本雅志訳
鹿島出版会 2014年5月 本体4,800円 A5変形判上製376頁 ISBN978-4-306-04604-7

版元紹介文より:建築とアートの再編をめぐる批判的文化論。アンサンブルとしての複合態(コンプレックス)は資本主義のうちでいかに目的化されたか。視覚文化論のイデオローグが記す、「経済的なもの」に包摂された文化的営みへの病状診断。

目次:
序文
第1章 イメージの建築〔ビルディング〕
第1部 グローバル・スタイル
 第2章 ポップな市政学
 第3章 新たなる水晶宮
 第4章 ライトなモダニティ
第2部 アートと相まみえる建築
 第5章 ネオ・アヴァンギャルド的身振り
 第6章 ポストモダニズム式機械
 第7章 ミニマリズム系ミュージアム
第3部 ミニマリズム以降のメディウム
 第8章 リメイクされた彫刻
 第9章 丸裸にされた映画〔フィルム〕
 第10章 縛りを解かれた絵画
第11章 イメージに抗する建築〔ビルディング〕
訳者あとがき
索引

★まもなく発売。原書は、The Art-Architecture Complex(Verso, 2011)です。フォスターの新刊はつい先日『第一ポップ時代』が河出書房新社さんから発売されたばかりで、二か月連続で訳書が出るというのは珍しいです。『第一ポップ時代』は芸術書ですが、今回の『アート建築複合態』は建築書です。正確に言えば、建築と芸術のあわいを縫う本、相互浸透する界面の来歴に迫った本です。フォスターは序文の冒頭でこう言います、「あるときはコラボレーション、またあるときは競合しながら、両者〔アーティストと建築家〕の出会いは、いまやわれわれの文化のエコノミーにおいて、イメージ制作や空間形成の主要な場となっている」(7頁)。

★本書は三部構成で、前後を歴史的概観と彫刻家リチャード・セラとの対談で挟んでいます。第1部では、リチャード・ロジャース(1933-)、ノーマン・フォスター(1935-)、レンゾ・ピアノ(1937-)ら三人の建築家のデザイン実践を取り上げ、三様のグローバル・スタイルが論じられます。第2部では、ザハ・ハディド(1950-)、ディラー・スコフィディオ+レンフロ(エリザベス・ディラー:1954-/リカルド・スコフィディオ:1935-/チャールズ・レンフロ)、ジャック・ヘルツォーク(1950-)とピエール・ド・ムーロン(1950-)らが取り上げられ、「アートが出発の鍵となった建築家たちへ議論を転じる」(8頁)。第3部では「昨今アート諸ジャンルの位置付けの再編が進むなかでは、建築がその決定的=臨界的な役割を担っていること」(9頁)が中心的な論題であり、リチャード・セラ(1939-)の彫刻、アンソニー・マッコール(1946-)のフィルム作品、ダン・フレヴィン(1933-)らのインスタレーションが言及されます。

★モダニティ、ライトネス(明るい軽やかさ)、イメージァビリティ(イメージ化されやすさ)、メディウムといった主題が次々と開かれ、アートと建築の昨今の関係性――その、同定しがたく克服が困難な複合態=コンプレックスの様相を多面的に論じる本書は、フォスター自身の位置付けによれば「先立つ『デザインと犯罪』〔平凡社、2011年〕と同様、アートと建築の批評=批判(クリティシズム)であるのと同じだけ、文化批評=批判の諸でもある。それは、ジャーナリスティックな論評とインサイダーによる理論化との中間の道を模索するもの」(17-18頁)です。「それは現状への不満と、他に採りうる道(オルタナティヴズ)を求める欲望に端を発している。そして、批評=批判なきところ、他に採りうる道は存在しないのだ」(18頁)。本書の内外ともに美しく個性的な造本装幀は伊藤滋章さんによるもの。漢字仮名交じりで本来横組には向いていないのが日本語ですが、本文、傍注、図版ともすべて美しい横組レイアウトで、カバーも幅広の帯もとてもバランスが良く決まっています。造本設計面で原書を凌ぐアーティスティックな書物に仕上がっていると思います。


デザインの自然学――自然・芸術・建築におけるプロポーション [新・新版] 
ジョージ・ドーチ著 多木浩二訳
青土社 2014年4月 本体3,700円 四六判上製158頁 ISBN978-4-7917-6784-7

帯文より:デザインから見た宇宙の仕組み。生命あるものが、何故にかくまでも美しく存在するのか・・・。 その疑問を、恐竜・クジラから犬まで、多彩な花々と草木、チョウや昆虫、そして魚や貝類など、多種多様の形態を見較べ、独自の手法によって探究する。あらゆる「かたち」は、最も美しいプロポーション〈黄金分割〉比率へと収斂することを解明し、 自然界のダイナミズムと調和の意味するものを、全くユニークで大胆な思想へと構築する。

目次:
序文
謝辞
第1章 植物におけるディナージー
 無限にひらいた窓
 音楽と成長の調和
第2章 工芸におけるディナージー
 縦糸と横糸
 手とろくろ
第3章 生活術におけるディナージー
 触りうるパターンと触りえないパターン
 われわれのディナージー的資質
第4章 共有の無時間的パターン
 共有の基本的技術
 宇宙の秩序と暦の構造
 リズムと調和的な共有
第5章 共有の解剖学
 貝殻、二枚貝、蟹そして魚
 恐竜、蛙、馬
 共有すること――自然の性質
第6章 自然の秩序と自由
 有機的、非有機的パターン
 カブトムシからチョウまで
 人間の調和
第7章 ヘラスと俳句
 尺度としての人間
 測りえないものを測ること
 小さなものの偉大さ
第8章 知恵と知識
 東洋と西洋の生活術
 全体、地獄、聖地
付録:人体比例の比較表

訳者あとがき

★発売済。原書は、The Power of Limits: Proportional Harmonies in Nature, Art & Architecture(Shambhala Publication, 1981)で、青土社より初訳が1994年、新装版が1997年、新版が1997年に刊行されています。清水康雄社長(当時)の勧めで多木さんが訳されたもので、多木さんが2011年4月にお亡くなりになったため、今回の再刊にあたっては訳者あとがきの末尾に「新・新版にあたっての編集部メモ」が加えられています。ドーチ(György Dóczi, 1909-1995)はハンガリー生まれの建築家、デザイン・コンサルタントで同国のほか、スウェーデン、イランを経てアメリカで活躍しました。

★本書の趣旨について序文にはこう書いてあります。「ルネ・デュボスが『かくも人間的な動物』で指摘しているように、この豊かさとテクノロジーの時代はまた不安と絶望の時代でもある。伝統的な社会的・宗教的価値は、生がしばしばその意味を失ったように見えるくらい蝕まれている。自然の形態には明白な調和が、なぜ、われわれの社会的な形態ではもっと強い力ではないのか。おそらく、われわれは発明と達成の力に熱中しているので、限界の力を見失ったからであろう。すでにいま、われわれは地球資源の限界に、また人口過剰・大きな政府・大きな企業・大きな労働を制限する必要に、いやでも直面している。われわれの経験すべての領域で、適切なプロポーションを再発見する必要を見出しつつある。自然・芸術そして建築のプロポーションは、この努力においてわれわれを助けることができるだろう。なぜならこれらのプロポーションは共有された限界であり、差異から調和的な関係をつくりだすからである。かくてこれらのプロポーションは、限界がまったく制約的なものではなく、創造的なものであることをわれわれに教える。/ひとりの建築家がこんな本を書くというのは偶然ではない。なぜならプロポーションを扱うことが、建築家の仕事だからである」(3頁)。

★目次に出てくるディナージー(dinergy)というのはdiaとenergeiaを足したドーチによる造語で、補足しあう反対物の統合によるパターン形成の生成的で創造的な力を意味するようです。本書の原題は「限界の力――自然、芸術、建築における比例調和」で、書店さんの自然科学や芸術、建築だけでなくおそらくは成長を扱う経済学書の売場でも展開可能な非常に面白い本です。ちなみに次に紹介する『表皮と核』の著者二人も、ドーチと同じくハンガリー出身です。


表皮と核
ニコラ・アブラハム(Nicolas Abraham, 1919–1975)/マリア・トローク(Mária Török, 1925-1998)著
大西雅一郎/山崎冬太監訳 阿尾安泰/阿部宏慈/泉谷安規/梅木達郎/熊本哲也/佐々木俊三/髙井邦子訳
松籟社 2014年4月 本体4,200円 四六判並製539頁 ISBN978-4-87984-326-5

版元紹介文より:フロイトの精神分析理論の制約を解除し、「精神分析」を広く開いた本書は、デリダはじめ数多くの思想家の注目の的となってきた。刊行いらい、心理学・精神分析という領域を越えて、フランスの知的風景のなかで測り知れない影響を及ぼしてきた名著、待望の邦訳刊行。

★発売済。原書は、L'écorce et le noyau(Flammarion, 1987)です。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。帯文の背にある「待望の名著遂に刊行!」という言葉はけっして大げさではなく、伝説的書物がとうとう日本語訳されたことを歓迎している読者もおられることと思います。帯文の表1には上記の版元紹介文にあるような謳い文句はなく、淡々と全6部構成の題名が記載されているだけです。事実、安易な要約を拒む書物ではあります。ハンガリーに生まれフランスで活躍した男女二人の精神分析家による主に60年代から70年代にかけて執筆され発表された諸論考(未刊草稿を含む)をまとめた、二段組五百頁を超える森のような迷宮のような大冊です。序文からしていきなり、本書の敷居の外へと読者をたちまち放り出す勢いです。すなわち、二人の共著である『狼男の言語標本――埋葬語法の精神分析/付・デリダ序文《Fors》』(港道隆/森茂起/前田悠希/宮川貴美子訳、法政大学出版局、2006年)に付されたジャック・デリダによる序文が「『狼男の言語標本』の読解への導き手となるだけでなく、本書全体のガイドでもある」(21頁)というのです。「彼の跡に従って、読者は精神分析的かつ超現象学的な空間の踏破が容易になるであろう」(同)。

★さらに序文はこう続きます。「この空間が様々に見えるのも外見にすぎない。そこにある四つの収斂する道、象徴-アナセミー-取り込み-クリプト保持=伝達をたどれば、それらが形づくる統一へと苦もなく至ることであろう」(同)。誰もがかつてラカンの『エクリ』に初めて挑んだ時に覚えたような一種の疎外感に襲われることでしょうが、そのまま続きへと読み進めてもそこにあるのはいきなり、フェレンツィの著書『タラッサ』への「序文」であり、それではと踵を翻して『狼男~』のデリダによる長い序文「FORS[数々の裁き/を除いて――ニコラ・アブラハムとマリア・トロークの角〔かど〕のある言葉」(『狼男~』所収、173-241頁)へと戻ったところで、70年代の絶好調なデリダの難解な壁にぶち当たるわけです。しかしこうした困難さも魅力であり、難解さに挑む楽しみがあるというも本当かもしれません。原書自体、アブラハムの死後12年を経てようやく刊行されていますから、ある種の困難さはすでに原書の時点からつきまとっていると言うべきでしょうか。

★最終部である第VI部「無意識における亡霊の働きと無知の掟」には「双数的一体性と亡霊に関するセミナーのノート」(1974-75年)、「亡霊についての略註」(1975年)、「恐怖の物語――恐怖症の症状:抑圧されたものの回帰か亡霊の回帰か?」(1975年)、「ハムレットの亡霊、あるいは「真実」の幕間に続く第六章」(1974/75年)の四つのテクストが収められていますが、その冒頭にはこんな言葉が掲げられています。「亡霊とは、無意識のうちにおける、他者の打ち明けられない秘密(近親相姦、犯罪、私生等)の働きである。亡霊の掟は、無知という義務を課す。亡霊の顕現、憑依というものは、奇妙な言葉や行為、(恐怖症の、強迫神経症の)徴候などの中に亡霊が回帰してくることである。亡霊の世界は、たとえば、幻想的な物語の中で客観化されることがある。その時、人は、フロイトが「無気味なもの」として記述した特異な情動を経験するのである」(429頁)。エンドロールのように巻末に流れるのはシェイクスピアの『ハムレット』第六幕の引用と登場人物の照応関係図です。他の書物の「序文」に始まり、シェイクスピア劇に終わるそのはざまに深淵が広がります。異様な書物です。


世説新語 4
劉義慶撰 井波律子訳注
東洋文庫 2014年5月 本体3,100円 B6変型判上製函入456頁 ISBN978-4-582-80849-0

帯文より:『世説新語』の舞台、魏晋の貴族社会への透徹した理解に基づく翻訳・解説により、存分にエピソードを味読でき、人と言葉がよくわかる。一読三嘆、読み始めると止まらない新訳注。全5巻。

★発売済。東洋文庫第849巻。下巻の「容止第十四――容貌風采に関する論評」から「排調第二十五――他人をやりこめ嘲笑した言動」までを収録しており、巻末には恒例の関連略年表が配されているほか、随所に諸家系図が載っています。第十五から第二十四までの日本語題を拾ってみますと、反省・改悟した人物の話、他人の美点を羨望する言動、死者の哀悼に関する言動、隠遁的行為にまつわる言動、すぐれた女性の言動、様々の技術にすぐれた人びとの言動、寵愛を受けた人びとの言動、世俗にとらわれる自由な生き方・態度、任誕〔前項〕よりも更に激しく自由な生き方・態度、です。

★気になるのは任誕第二十三と簡傲第二十四です。まず任誕とは、訳者の井波先生の解説によれば、「思いのままに任せ、放誕すなわち何ものにも拘束されず、自由気ままにふるまうこと」だそうです。酒飲みや無礼者、良く言えば儀礼や形式に囚われない自由人、アウトサイダーたちのエピソードが目白押しで、彼らが「竹林の七賢」だと知らなければ、ただのやっかいな変人と誤解しそうです。次に簡傲とは「人やモノをおろそかに扱い、傲慢な態度をとること」を言うそうで、七賢をはじめとする自由人たちの無頼ぶりを伝えています。無礼な振る舞いを見ることを通じて、魏晋時代の中国において何が礼儀であったかも見えてきます。東洋文庫の次回配本は2014年6月、『論語集注2』とのことです。

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by urag | 2014-05-11 23:29 | 本のコンシェルジュ | Comments(0)


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