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2013年 10月 21日

本日取次搬入:千葉雅也『動きすぎてはいけない』河出書房新社

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動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学
千葉雅也(ちば・まさや:1978-)著
河出書房新社 2013年10月 本体2,500円 46変形判上製372頁 ISBN978-4-309-24635-2

帯文より:接続過剰(つながりすぎ)の世界から「切断の哲学」へ。思想界の超新星、衝撃のデビュー作。“もっと動けばもっとよくなる”“もっともっとつながりたい”……動きすぎ、関係しすぎて、ついには身動きがとれなくなった世界でいかに生きるか。待望のドゥルーズ入門。

推薦文:「ドゥルーズ哲学の正しい解説? そんなことは退屈な優等生どもに任せておけ。ドゥルーズ哲学を変奏し、自らもそれに従って変身しつつ、「その場にいるままでも速くある」ための、これは素敵にワイルドな導きの書だ」(浅田彰)。

推薦文:「超越論的でも経験的でもなく、父でもなく母でもない「中途半端」な哲学。本書は『存在論的、郵便的』の、15年後に産まれた存在論的継承者だ」(東浩紀)。

目次:
序――切断論
 0-1 『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』
 0-2 非意味的切断の原理
 0-3 接続的/切断的ドゥルーズ
 0-4 CsO、LSD、H2O
 0-5 生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない
 0-6 方法――ドゥルーズ哲学の幼年期へ
 0-7 セルフエンジョイメント
第1章 生成変化の原理
 1-1 物化と生成変化――万物斉同に抗する区別
 1-2 生成変化論のレトリック(1)――区別のある匿名性
 1-3 生成変化論のレトリック(2)――微粒子の関係
 1-4 出来事と身体をパフォームする
 1-5 心身並行論と薬毒分析
 1-6 スピノザ主義から関係の外在性へ
第2章 関係の外在性――ドゥルーズのヒューム主義
 2-1 『経験論と主体性』によるカント批判
 2-2 差異=分離の原理
 2-3 空間と恩寵
 2-4 メイヤスーとハーマン
 2-5 事情、因果性の部分化
 2-6 結果=効果の存在論
 2-7 原子論に対する思弁的解決
 2-8 汎-観想論――時間の第一の総合
第3章 存在論的ファシズム
 3-1 生気論的ホーリズム――《宇宙》
 3-2 潜在性の逆超越化
 3-3 代理-表象不可能性――時間の第二・第三の総合
 3-4 構造主義的ホーリズム――《欠如》
 3-5 ガタリとラカン
 3-6 否定神学批判、複数的な外部性、変態する個体化
第4章 『ニーチェと哲学』における〈結婚存在論〉の脱構築
 4-1 肯定を肯定する
 4-2 ニーチェの多元論=経験論
 4-3 ディオニュソスとアリアドネの結婚
 4-4 ニヒリズムの徹底
第5章 個体化の要請――『差異と反復』における分離の問題
 5-0 後半への序――関係主義から無関係の哲学へ
 5-1 やる気のない他者と超越論的愚かさ
 5-2 イロニーからユーモアへの折り返し
 5-3 二つの現働性
 5-4 強度=内包性の倫理
第6章 表面、深層、尿道――『意味の論理学』における器官なき身体の位置
 6-1 表面の無-意味――《裂け目》
 6-2 深層の下-意味――多孔性・多傷性
 6-3 肛門的、尿道的、性器的
第7章 ルイス・ウルフソンの半端さ
 7-1 ドント・トリップ・オーバー・ザ・ワイヤー
 7-2 成功したメランコリー
第8章 形態と否認――『感覚の論理』から『マゾッホ紹介』へ
 8-1 純粋形式と非形態vs歪曲された形象
 8-2 純粋否定と死の本能
 8-3 否認、一次マゾヒズム
 8-4 快原理の二つの彼岸
第9章 動物への生成変化
 9-1 中間の動物
 9-2 ユクスキュルのダニ
 9-3 エチカ=エソロジーの陰
 9-4 ノマドの暗い底
 9-5 死を知る動物
エピローグ――海辺の弁護士
あとがき

★本日10月21日取次搬入の新刊です。まもなく書店店頭でも順次発売開始となります。千葉さんのデビュー作です。昨年東大に提出された博士論文「ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」を大幅改稿したものです。ちなみに博士論文の主査は小林康夫さん、副査は小泉義之さん、高橋哲哉さん、中島隆博さん、松浦寿輝さんです。小泉さんは本書の書評を『文藝』2013年冬号にすでにお寄せになっています。本書に関わった編集者はお二人で、単行本化の提案をされたのが阿部晴政さん。編集実務を担当されたのが吉田久恭さんです。どちらも『文藝』の編集長を以前おつとめでした。阿部さんが先々代で、吉田さんが先代。お二人ともたくさんの実績をお持ちですが、佐々木中さんを精力的にバックアップされたのが阿部さん、綿矢りささんのデビューをサポートされたのが吉田さんです。

★帯の背には「浅田彰氏・東浩紀氏絶賛」とあり、表1にはお二人の推薦文が載っています。お二人の推薦文の内容は上記に転記した通りです。お二人について歴史を遡っておくと、浅田彰さんは1957年生まれ、1983年9月に勁草書房からデビュー作『構造と力――記号論を超えて』を上梓されます。弱冠26歳。帯文はこうでした。「構造主義/ポスト構造主義の思想を一貫したパースペクティヴのもとに再構成。〈知〉のフロンティアを明晰に位置づける」。周知の通りこの本は中沢新一さんの『チベットのモーツァルト』(せりか書房、1983年11月)などとともに、ニューアカデミズムを代表する1冊としてベストセラーになりました。担当編集者は富岡勝さん。橋爪大三郎さん、宮台真司さん、大澤真幸さんといった日本の社会学者や、英米分析哲学の紹介で大きな役割を果たされた方です。かの『フレーゲ著作集』を手掛けたのも富岡さん。すでに定年退職されていますが、人文業界で知らぬ者はいない編集者です。

★その15年後、1998年10月に、東浩紀さんが新潮社より『存在論的、郵便的』でデビュー。東さんは1971年生まれで当時27歳でした。帯文はこうです。「超デリダ論(のちに「第21回サントリー学芸賞受賞!」に差替)。否定神学システムを超えて複数的な超越論性へ」。帯文にはさらに浅田彰さんの推薦文が掲載されていました。曰く、「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」。東さんは当時、太田出版の「批評空間」と「クイック・ジャパン」という毛色のまったく異なる両誌に登場できた唯一の若手で、デリダのような難解な哲学者を論じると同時に「新世紀エヴァンゲリオン」についても熱く語ることのできる、いわばオタク文化と現代思想の架け橋となった特異点的存在でした。担当編集者は矢野優さん。柳美里さんや阿部和重さん、平野啓一郎さんをはじめ、たくさんの文芸書を手掛けていらっしゃいます。現在、月刊「新潮」の編集長。

★さらにその15年後、2013年10月に、千葉雅也さんが河出書房新社より『動きすぎてはいけない』でデビューされるわけです。千葉さんは1978年生まれ。30代半ばでのデビューなので、浅田さんと東さんからは少し遅めになります。14歳離れている浅田さんと東さんに比べ、東さんと千葉さんとの間はその半分の7歳。浅田さんや東さんはデビュー以後、思想界や論壇を牽引する情報発信者の役割を果たされてきました。浅田さんは『GS』『InterCommunication』『批評空間』など、数々の先端的思想誌の創刊に関わり、ニューアカ以後の文化に貢献されてきました。東さんは「波状言論」や『思想地図』『genron』などの媒体を積極的に展開してこられ、『批評空間』以後の論壇の先頭を走っておられます。浅田さんは出版社と組む仕事が多い一方、東さんは自前の媒体での発信を重視してこられたのが特徴だと思います。そうした歴史を経た上での、千葉さんのデビューであり「これから」なわけです。

★『構造と力』『存在論的、郵便的』『動きすぎてはいけない』の関係性を時代背景の遷移とともにどう読むか。これは前二者の関係までは佐々木敦さんが『ニッポンの思想』(講談社現代新書、2009年)がまとめておられます。そこに千葉さんの本が加わるとどうなるか。千葉さんご自身の位置取りは『動きすぎてはいけない』の中でも説明されています。一方で読む側の印象はどうか。この先、多くの評論家や研究者、読者の方々がそれぞれに論じられていくことでしょう。『動きすぎてはいけない』の出現によって、『構造と力』『存在論的、郵便的』を再読する(あるいは初めて読む)機運も生まれるわけで、業界としては実に楽しみな展開ですし、書店さんの「日本現代思想」の棚をいっそう活性化させる良いタイミングだと思います。今はまだ明確な測量地図が存在していないので、書店員さんの自由な読解と発想と工夫次第で、日本現代思想をめぐる複数のカルトグラフィ(地図製作)が書棚のグリッド上に生成展開されていく可能性があるに違いありません。

【以下、本書のネタバレを含みます】

★ここでは小泉義之さんの書評を参照しつつ、千葉さんのデビュー作の魅力的な論点について、いくつか記そうと思います。小泉さんはこう書いていらっしゃいます。「接続と切断の間の「と」に、ドゥルーズ(&ガタリ)の哲学は住まっている。千葉雅也は、この観点から、ドゥルーズとガタリの主著を読み抜いていく。その手捌きは、読んでいて気持ちがよい。しかし、かすかに不穏だ。その読解は確かだが、それを表に出して書きすぎてもいない。そこを含めて、かすかに不穏(当)なのだ」。千葉さんはこう書いています。「つながりと分かれ――のあいだの「と et」に、ドゥルーズ(&ガタリ)の哲学は住っている」(23頁)。「ドゥルーズ(&ガタリ)の住まいは、接続と切断のあいだの「と」に位置するのだ。〔改行〕その住まいはしばしば、接続の極端へ/切断の極端へと引き裂かれて見えもする。そこで本稿は、テクストの端々において〈接続的ドゥルーズ〉と〈切断的ドゥルーズ〉を分極させるという構図を採用しながら、その途中でしだいに両者の並立を問題化していくことにしよう。そして、接続的/切断的の各面は、ドゥルーズのベルクソン主義/ヒューム主義に対応する、という仮説を、ドゥルーズの哲学史的背景に関する、本稿において最大の仮説として採用することになる」(27頁)。

★続いて小泉さんはこう紹介します。「千葉によるならば、ドゥルーズには、接続しすぎと切断しすぎの分極がある。それは、ベルクソン主義とヒューム主義の二極に対応する。そして、千葉は、「その途中」で、「両者の並立」を問題化する。このポジションはこう言いかえられている。非ファシストの群れには分極がある。一方に異種混淆的非ファシストたち。クィアやLGBTを理念とする者たちと介してよいだろう。一方に、比較的に不徹底な非ファシストたち。そこそこの異種混淆を現に生きる者たちと解してよいだろう。ここでも千葉は、「その途中」で「両者の並立」を問題化しようというのだ」。千葉さんはこう書いています、「「異種混交〔ママ〕的」な非ファシストたちは、実現しえない(いや、してはならない)究極の望ましい共同化を「理念」として抱き、それへの献身という一点を媒介にコミュニケーションを必然化する。その理念は無限に細やかな異種混交性への配慮である。けれども現実の=経験的な非ファシストは、関心が様々に偏っているしかなく(有限性)、どれだけ努力しても「無限」の多様性は抱けない。すると非ファシストの群れにおいて、(a)無限の異種混交性に献身していると自認する者たち、(b)比較的に不徹底な者たち、のあいだに「排他的」な対立が生じる」(30頁)。

★さらに小泉さんの言及。「千葉は、切断されつつの(再)接続を、非ファシスト的「個体化」として、個体の新たな仮の状態を作り出すこととして、書き出そうとする。あるいは、生きようとする。それが起こるはずのゾーンは、「中間地帯」「中間痴態」とも言われる」。千葉さんに戻ると、「情報のオーバーフローに翻弄される私たちの不随意な痴態は、哲学的な示唆に富んでいる。〔・・・〕情報のオーバーフローにおける生老病死は、〔・・・〕事物を他でもないそれとして成立させる――個体化する――非意味的切断が、日常の毎瞬間であることを露呈させるのである。〔・・・〕或る会合への参加を選択できなかったことで、別の行動が可能になること。意志的な選択でもなく、周到な「マス・コントロール」でもなく、私たちの有限性による非意味的切断が、新しい出来事のトリガーになる。ポジティブに行って、私たちは、偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として「善用」するしかない。モダンでハードな主体性からも、ポストモダンでソフトな管理からも逃れる中間地帯、いや、中間痴態を肯定するのである」(37-38頁)。

★小泉さんの書評はこのあと実に印象的に千葉さんの立ち位置の妙味を言い当てておられるのですが、すでに長々と引用してしまったので、あとは『文藝』の当該号をご覧いただければと思います。『動きすぎてはいけない』において私たちは思考の様々な閃きを観ることができますが、いくつかの言葉を引いておきます。「ポスト構造主義以後の、2000年代中頃から活性化している「思弁的」な「自然哲学」の復権〔・・・〕。「思弁的的実在論」また「思弁的転回」と呼ばれる運動〔・・・〕。こうした動向を仮に〈ポストポスト構造主義〉と呼ぶ〔・・・〕。私の考えでは、ポストポスト構造主義の要は、半面では、接続よりも切断、差異よりも無関心=無差別、関係よりも無関係、である。このように言うと、まるで寒々とした思潮のように思われるだろうか。しかし、根本的にバラバラな世界にあって、再接続を、差異の再肯定を、再関係づけを模索することが、ポストポスト構造主義のもう半面なのである」(32頁)。

★「オーバードーズの彼方、熱死とは、あらゆる事物への接続過剰のことに他ならない。オーバードーズの回避とは、生成変化を次に展開させるために、接続過剰を控え、切断を行使することだ――非意味的に、或るいい加/減で。〔改行〕リゾーム的な接続は、どこかで切断され、有限化されなければ、私たちは、かえって巨大なパラノイアのなかに閉じ込められる。あらゆる事物が関係しているという妄想である。〔改行〕生成変化は、接続過剰のどんづまりからの解放でなければならない。それは、「節約」の勧めである。酒にもう一杯、あと一杯と溺れていき、どこで最後の一杯にするか」(50頁)。「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない。〔改行〕この箴言から私は、もうひとつのメッセージを聴く。これは自己破壊としての生成変化の加速しすぎ、オーバードーズないしバッド・トリップへの警戒でもあるのではないか。自意識の暴走(知識人の動きすぎ)と、無意識の暴走(ジャンキーの動きすぎ)を、どちらも節約すること」(52頁)。

★「「強度=内包性の倫理には、二つの原理しかない――最低のものすら肯定するということ、折り解かれ=説明され(すぎ)ないということ」(ドゥルーズ『差異と反復』河出文庫、下巻201頁)。第一の原理「最低のものすら肯定する」というのは、〔・・・〕差異の複層的なカップルを、あらゆるレベルで肯定せよ=実在的であると考えよ、ということである。他方では、常識・良識に照らして「最低」の評価を受けるものごとであっても、必ずやそこに潜在している差異の交響、諸関係=比のネットワークを尊重するべきである、ということだ。〔・・・〕第二の原理は、「折り解かれ=説明され(すぎ)ないということ」である。〔・・・〕これまた、節約、程度の問題なのである。〔・・・〕「折り解かれ=説明されすぎる」というのは、〔・・・〕すべての関係=比の互いの折り込み(関係主義)から、世界の或るゾーン=モナドが、シャープに分離されてしまうことを意味するだろう。ものごとに関する説明を、有限なファクターによって尽くしてしまうのである。説明に「余り」を残さないこと。或るものごとに関しシャープに断言をすることで、他のあらゆるものごとへと延びうる矢印を切断することである」(254-255頁)。

★千葉さんは「〈複数的な差異の哲学〉と〈変態する個体化の哲学〉の兼ねそなえこそが、ドゥルーズ(&ガタリ)において核心的であった」(192頁)と仰っています。ガタリの『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房、2010年)を千葉さんとともに訳した國分功一郎さんも今年6月に『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店、2013年)を上梓されており、千葉さんと國分さんのドゥルーズ観がどう交差するのかというのも興味深いところです。このお二人で来月、トークイベントを行うそうなので、興味のある方はご参加をお薦めします。

千葉雅也さん&國分功一郎さんトークイベント

日時:2013年11月8日(金)午後7時~
会場:西武池袋本店別館9階 池袋コミュニティ・カレッジ28番教室
参加チケット:1000円(税込)
チケット販売場所:西武池袋本店書籍館地下1階リブロリファレンスカウンター
お問合せ:リブロ池袋本店 03-5949-2910

内容:思想界の超新星・千葉雅也さんの初の単行本『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)が待望の刊行となります。その刊行を記念してトークイベントを開催いたします。対談のお相手は、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)など、國分功一郎さん。いま、もっとも注目を集める若き哲学者のお二人に、「哲学」そのものについて、そして複雑にからまりあう現代社会の抱える問題についてまで、「哲学」という視点から語っていただきます。イベント参加チケットご希望の方はリブロ池袋本店書籍館地下1階リファレンスカウンターにてお求め下さい。

by urag | 2013-10-21 02:21 | 本のコンシェルジュ | Comments(0)


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