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2013年 06月 02日

注目新刊:カリオラート『神の身振り』水声社、ほか

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神の身振り――スピノザ『エチカ』における場について
アルフォンソ・カリオラート(Alfonso Cariolato, 1963-)+ジャン=リュック・ナンシー(jean-Luc Nancy, 1940-)著 藤井千佳世+的場寿光訳
水声社 2013年5月 本体3,000円 A5判上製208頁 ISBN978-4-89176-970-3

帯文より:そのつど来るべき意味の到来に対して、開かれてあるために。スピノザ『エチカ』の一節を綿密に分析することにより、二元論の枠に収まらないその思想を、開かれた存在の可能性として新たな読みを大胆に提示する。倫理と政治に関わるスピノザ哲学の根源に触れる理論的かつ実践的マニフェスト。

★まもなく発売。原書は、Le geste de dieu: Sur un lieu de l'Ethique de Spinoza, Marginalia de Jean-Luc Nancy, Les Éditions de la Transparence, 2011です。「訳者あとがき」での説明によれば、本書は「オランダの近世哲学者B・スピノザの主著『エチカ』の一節(nos ex solo Dei nutu agere:われわれは神の身振りのみによって活動する)をめぐって、ラテン語はもちろんのこと、フランス語、オランダ語、ドイツ語、またカリオラートの母国語であるイタリア語の文献を渉猟しつつ詳細な論が展開されるとともに、彼の師であるジャン=リュック・ナンシーがコメントをほどこし、問題点を指摘し、あるいは論をずらしつつ、自らのスピノザ論を披瀝している。カリオラートのスピノザの一節をめぐる解釈もさることながら、ジャン=リュック・ナンシーは、ある講演で、スピノザを「西洋哲学に現れた奇妙な彗星のような存在」と称し、彼の思索のなかでスピノザが重要な位置を占めていることを認めているにもかかわらず、これまでこのオランダの哲学者についてまとまった字句を費やすことがなかっただけに、本書で現代哲学者として彼が、スピノザをどのように自らの論に惹きつけているかを認められるのは貴重であろう」(185-186頁)。

★「われわれは神の身振りのみによって活動する」という一節は、『エチカ』第二部定理49の備考(注解)における、4点にわたる「実生活への有用性」の指摘の第1点で語られています。これまで「命令」と訳されるのが通例だったnutusを「身振り」と訳しているのが新鮮です。ハイデガーのWink(合図/ウィンク/瞬き/目配せ」とも通じる概念として捉えなおすことができるこのnutusをめぐって、ナンシーは「この身振りについて、われわれは何も知ることも、前提することも、想像することもできないが、このnutusはわれわれに触れているのであり、この発話(ex solo Dei nutu)においてわれわれはすでに揺さぶられている」(128頁)と述べています。カリオラートの解釈はこの身振りから、運命と自由、倫理と政治をめぐる思考へと展開していき、それらに応答するナンシーのコメントはカリオラートのテクストより段を下げて組まれています。なお、ナンシーがハイデガーとデリダを論じた「神的なウインクについて」は、『脱閉域――キリスト教の脱構築1』(大西雅一郎訳、現代企画室、2009年、207-241頁)で読むことができます。


孤児
フアン・ホセ・サエール(Juan José Saer, 1937-)著 寺尾隆吉訳
水声社 2013年5月 本体2,200円 四六判上製192頁 ISBN978-4-89176-951-2

帯文より: アルゼンチン文学の巨星が放つ幻想譚。舞台は16世紀の大航海時代、見果てぬインディアスを夢見て船に乗り込んだ「私」が上陸したのは食人インディアンたちが住む土地だった。「私」は独り捕らえられ、太古から息づく生活を営む彼らと共に過ごしながら、存在を揺るがす体験をすることになる……。無から生まれ、親もなく、名前もない、この世の孤児となった語り手を通して、現実と夢幻の狭間で揺れる存在の儚さを、ボルヘス以後のアルゼンチン文学を代表する作家が描き出す破格の物語。「サエールの作品は、国境の彼方、あの誰のものでもない土地、まさに文学という場所に存在している」(リカルド・ピグリア)。「現実世界の強烈な存在感。サエールは現代世界の超重要作家になるだろう」(アラン・ロブ=グリエ)。

★発売済。セルヒオ・ラミレス『ただ影だけ』(寺尾隆吉訳、4月刊)に続く、シリーズ《フィクションのエル・ドラード》の第2回配本です。原書はEl entenado, Folios Ediciones, 1983で、「訳者あとがき」によれば、「翻訳にあたっては、2007年のセイクス・バラル社版(ブエノスアイレス、2007年)のほか、定評ある「コレクシオン・アルチーボス」の批評版(ポアチエ大学、2010年)を参照した」とのことです。また、同あとがきでは著者をこう紹介しています。「ここに本邦初訳したフアン・ホセ・サエールは、コルタサルやホルヘ・ルイス・ボルヘスと並んでアルゼンチンを代表する作家であり、リカルド・ピグリアとともに、残り少ない「未邦訳の重鎮」の一人」と。

★儀式的な人肉食の風習(常食ではない)を持つインディオたちが繰り返し発する言葉「デフ・ギー」が怖いというか不気味というか、呪術的な響きで印象に残ります。彼らに囚われた主人公もまた「デフ・ギー」と呼ばれるのですが、主人公がその多義的なニュアンスを回想するあたり(154-155頁)を読む頃には、読者はこの奇妙な底なし沼のような物語世界にすっかり迷い込んでいることでしょう。次回配本は来月、アレホ・カルペンティエル『バロック協奏曲』とのことです。さらに続刊予定には、J・J・アルマス・マスセロ『連邦区マドリード』、フアン・カルロス・オネッティ『別れ』、カルペンティエル『時との戦い』、ホセ・ドノソ『境界のない土地』、リカルド・ピグリア『人工呼吸』、ドノソ『夜のみだらな鳥』、フリオ・コルタサル『対岸』などが予告されています。


言葉と奇蹟――泉鏡花・谷崎潤一郎・中上健次
渡部直己(1952-)著 安藤礼二解説
作品社 2013年5月 本体4,600円 46判上製592頁 ISBN978-4-86182-434-0

帯文より:生涯を費やしてそれぞれの「主題」を反復し、書くこと(=読むこと)それ自体の幻想性/倒錯性/身体性を往還しながら、日本近代文学史上に屹立する三人の小説家。彼らの「奇蹟的な一貫性」を、放胆かつ詳密に、飽くことなく探究した著者による、文芸批評の金字塔!

★発売済。三冊の作家論を一冊にまとめた大冊です。「幻影の杼機――泉鏡花論」(『幻影の杼機〔ちょき〕――泉鏡花論』国文社、1983年;増補版『泉鏡花論――幻影の杼機』河出書房新社、1996年)、「擬態の誘惑――谷崎潤一郎論」(『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』新潮社、1992年)、「愛しさについて――中上健次論」(『中上健次論――愛しさについて』河出書房新社、1996年)の三本に、書き下ろしの「序文 「奇蹟」的な一貫性にむけて」と「自作自解――「あとがき」に代えて」を加え、さらに評論家の安藤礼二さんによる解説「「機械」、「母」、「海」――読むことと書くことの「奇蹟」にむけて」を巻末に配されています。

★より詳しく見ると、上記の三冊の再録のほか、谷崎論の補論「死ンデモ予ハ感ジテ見セル」は月刊『新潮』2004年3月号が初出で今回が単行本への初収録になります。「自作自解」によれば、本集成にこれらの既刊書や論考を収録するにあたって、「明らかな事実誤認、誤字誤植、および、難文難語とおもわれるものにつき多少の修正を施し、書誌情報などを追加した以外は、原文をそのまま生かしてある」とのことです。また序文では「もとより、「一貫的な奇蹟」というものは、語義上ありえない。だが、「奇蹟的な一貫性」というものはありうるのだ。鏡花にあっては幸福にもまったく無自覚のうちに、谷崎においては自覚的ながらやはり福々しい成熟として、中上にとっては愛しくも鋭い痛みとともに、反復はそこで、たんなる繰り返しの単調さではなく、こうした無類の一貫性として現れてくるのである」(7頁)と記しておられます。

★解説で安藤さんはこう書かれています。「『日本小説技術史』と本書『言葉と奇蹟』は、いわば横軸(水平軸)と縦軸(垂直軸)となって、近代日本文学がもっていた可能性と不可能性の両面を浮かび上がらせる。渡部直己にとって、また現代日本批評において、この二冊の書物が特権的な位置を占める所以である。この二冊の巨大な書物を読み解き、乗り越えていくことからしか、次の時代の批評、さらには次の時代の表現ははじまらないはずである」(579-580頁)。さらに「『言葉と奇蹟』と名づけられた書物の未来はひらかれている。未完のプロジェクトに参加する機会は、この書物に出会い、この書物を読んだ誰にとっても可能である。もちろん作者にとっても、この私にとっても、未知なるあなたにとっても。そこに批評の未来がある」(586頁)と結ばれています。

by urag | 2013-06-02 20:30 | 本のコンシェルジュ | Comments(0)


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