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2012年 02月 12日

河出の注目新刊2点『ドゥルーズ』『ニーチェのように考えること』

★ここ一週間のうちに立て続けに発売される河出書房新社の新刊2点をご紹介します。奇遇ですが、いずれも40年代後半生まれの著者のもので、編集担当は2点ともAさんです。この時間的な近さゆえでしょうか、2点にはどこか響き合うものを感じます。同社ではこのあとも今月22日発売『低線量被曝のモラル』『大杉栄――日本で最も自由だった男』、28日発売『歴史としての3.11』など、注目のアンソロジーが続きます。

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ドゥルーズ――群れと結晶
宇野邦一(うの・くにいち:1948-)著
河出書房新社 2012年2月 本体1,300円 B6判並製256頁 ISBN978-4-309-62440-2
帯文より:最も美しく、最も過激なドゥルーズ哲学への招待。身体が紡ぎだす時間がうみだす結晶の生の倫理へ――哲学者の新しい姿と核心に迫る。
カバー紹介文より:群れ=身体と結晶=字間の哲学が新しい倫理を問う。日本を代表するドゥルージアンによる世界で最も美しいドゥルーズ的実践。
カバーソデ紹介文より:日本のドゥルーズ導入と研究の第一人者が、反復、リゾーム、身体、記号などの主要概念に繊細に迫りながら、国家と資本を超える戦争機械を問い、それらの根底にある群れ=身体と結晶=時間の哲学者としてのドゥルーズの新たな姿を詩的文体とともにうかびあがらせる、かつてない生の倫理を呼び寄せるドゥルーズ入門書の決定版にして世界で最も美しいドゥルーズ的思考の実践。

目次:
序 世界史とリゾーム
 1 リゾーム再考
 2 歴史意識の「古層」
 3 僭主制のリゾーム
 4 〈風土〉を越えて
I 記号の宇宙
 1 野生の記号論
 2 二重文節、強度
 3 ふたつの位相
 4 言語は命令する
 5 自由間接話法、そして記号の体制へ
II 反復
 1 反復は発見されなくてはならぬ新しい範疇である
 2 差異そして強度
 3 抽象的ではなく理念的
 4 三つの反復
 5 第三の形態
III 身体
 1 いかに問うか
 2 身体の倫理
 3 身体の新たな定義
 4 監獄と生政治
 5 生のドグマ
IV 顔
 1 顔の発生
 2 顔の恐怖
 3 いくつかの事例
 4 映画の顔についての注釈
 5 ブラックホール、非人間性について
V リトルネロ・アイオーン・結晶
 1 リトルネロと顔
 2 カオスとリトルネロ
 3 強化そして連続変化
 4 時間の結晶、時間の迷路
 5 アイオーンのダンス――フレッド・アステア、土方巽
VI 国家と資本のあいだ
 1 連鎖のなせる業
 2 欲望について
 3 流れ-分裂の機械
 4 脳の協働
 5 新しい抗争
 6 神出鬼没の国家
 7 アウトノミアあるいはアソシエーション
VII 終章――戦争機械について
 1 国家の神、戦争の神
 2 外部性のヴァリエーション
付記

★版元ウェブサイトでは2月14日発売となっていますので、河出さんの通例としてその2~3営業日前には取次搬入しているものと思われます。「河出ブックス」のシリーズ内シリーズである「現代思想の現在」の最新刊。巻末におかれた「付記」で宇野さんは本作へのみちのりをこう綴っておられます。「『D 死とイマージュ』(青土社、1996年)という本を〈レクイエム〉として作り、もう一冊『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社選書メチエ、2001年)では、学生たちの顔を思い浮かべながら、ドゥルーズの著作を時系列にしたがって几帳面にたどり、基本的な概念をできるだけ平明に再定義することをめざした。/その後『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』を文庫化するために新たに精読し、『時間イメージ』を翻訳し、また大学の講義でそれらの内容をとっかえひっかえとりあげるうちに、問題の焦点がいくつか、特別な濃度をもって反復されるように感じはじめた。記号、反復、身体……。/こんどは著作の時系列的展開も、全体的見取り図もあまり気にすることなく、私自身にとって肝要ないくつかの焦点を選んで、それと集中的に対話していく作業を進めていこうと思うようになった。〔中略〕私にとっていくつかの焦点、特異点として沈澱してきた問いをめぐってドゥルーズ(そしてガタリ)の本ともう一度対話し、それらの間に横断線を引きつつ、できるだけドゥルーズの死後に流れた世界の時間に照らし合わせること」(252-254頁)。

★また、序章ではこんなふうにドゥルーズとの出会いを述懐しておられます。「まさにひとつの哲学そのものが、果てしない「アレンジメント」として、「言表行為の集団的編成」として実践されることになった。私にとって、ドゥルーズに出会うことは、そのような得体の知れない巨大な哲学的群れに、哲学の果てしないリゾームに遭遇することだった」(9頁)。

★さらに第一章ではこうも書かれています。「ジル・ドゥルーズの思想が、早くから記号の哲学という一面をもっていたことは無視できない。彼にとって人間の体験の多くの部分は、記号の体験である。そこで哲学の課題は、世界や歴史を表象し包摂する重厚な体系をうちたてることよりも、はるかに記号の生そのものを観察し、新たに記号の生を構築することである。それは、きわめてつましい哲学的態度であったといえる。世界を包括するような言語の力に賭けるよりも、言語そのもののつましい生と力を冷徹に批評し、正確にその生と力を解放するような試みだったからである。もちろんこのような言語は、情報理論の対象となりうる飼いならされた記号ではなく、むしろ〈野生〉としてとらえ直された言語そして記号でなければならない」(47頁)。この段落の直前で宇野さんは次のように述べておられました。「まぎれもなく、哲学は言葉の仕事なのだ。ただ言葉を注意深く用いるだけでなく、言葉そのものの機能やあらゆる可能性を問い続けるという意味でも、やはり言葉の仕事であり、言葉を問う仕事なのだ」(同頁)。出版もまた言葉の仕事であるとすれば、書物をめぐるあらゆる作業は必然的に哲学的営為であると言えるかもしれません。

★「この身体が時間を(そして反復を)生きている。あるいはこのような身体の生とたえざる変化が、そのまま時間なのだ。それは十全に知ることも、知覚し、思考することもできないが、確かに生きられている時間であり、身体なのだ。/この身体は決して、輪郭をもって閉じられた一個の身体ではなく、その中には数多の群れがある。この身体はまた、その外の無数の身体とともにある。この身体は、内と外にあるそのような果てしない群れの中にある。/そういう群れの中で、結晶が発生するようにして、個々のもの、精神や身体が形作られるけれど、結晶とはいつもそれ自体が内部であり外部であり、内部と外部の結節点として結晶するのだ。そこで結晶とは内部と外部の識別不可能性のことでもある。ひとつひとつの身体が、時間の結晶でもある」(250頁)。ここまでのくだりを、「身体」を「書物」と置き換えて読み直してみましょう。

★「そのような結晶にふさわしい結晶の生の倫理〔エティカ〕というものがあるにちがいない。そこから見えてくる喜びと悲しみ、恐れと希望、豊かさと貧しさ、破壊的なものと想像的なもの、生きているものと死んでいるもの、闇と光、響きと虹……」(同頁)。それらはすべて書架にあります。書物という身体の、結晶のエティカは書斎に、書店に、図書館に息づきます。書物と書架は世界であり、世界は書物であり書架である、と言えるでしょうか。本書は読書人、書店人、司書、出版人にセレンディピティを授けるものです。


ニーチェのように考えること――雷鳴の轟きの下で
榎並重行(えなみ・しげゆき:1949-)著
河出書房新社 2012年2月 本体2,800円 46判上製256頁 ISBN978-4-309-24579-9
帯文より:21世紀のニーチェ降臨す。この孤高の哲人を見よ! 思考することの危うさに挑みつつ現代を徹底的に批判し、すべてに鉄槌をくだすおそるべき反時代的考察。

目次:

1章 現実という虚構――その疲労と衰頽について
2章 自己をめぐる疑惑
3章 真理もまた欺く
4章 歴史の襲来
5章 間-社会領域〔インターソサイエティカル〕に向けて
あとがき

★2月17日発売と告知されていますから、週明けには取次搬入されているものと思います。『危ない格言』(新書y、2005年)の著者略歴では榎並さんは次のように紹介されていました。「1949年東京生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業。高校時代からニーチェに親しみ、大学でM・フコーに遭遇。以来、ニーチェとフコーの系譜学を駆使して独自の思索を深めてきた」。以下に榎並さんの著作を列記します。

『流行通行止め――現代思想メッタ打ち!』(三橋俊明との共著、JICC出版局、1987年)
『「新しさ」の博物誌――近代性の系譜学〈主体編〉』(三橋俊明との共著、JICC出版局、1988年)
『細民屈と博覧会――近代性の系譜学〈空間・知覚編〉』(三橋俊明との共著、JICC出版局、1989年)
『ニーチェって何?――こんなことをいった人だ』(新書y、2000年)
『危ない格言』(新書y、2005年)
『異貌の成瀬巳喜男――映画における生態心理学の創発』(洋泉社、2008年)

★初期3作は『路上の全共闘1968』(河出ブックス、2010年)の著者である三橋俊明(1947-)さんとの共著です。一見すると寡作な思想家ですが、近現代日本の批判的考察である三橋さんとの共著からニーチェをめぐる単独著に至るまでの間の十年間は沈黙していたのではなく、「あとがき」から推察するに本書『ニーチェのように考えること』の草稿を執筆されていたと見えます。並々ならぬ強度をもった書物で、どこを開いても考え抜くことの「鍛錬」の、生きた痕跡が現れます。「この書物は、鍛錬の経験からなっている。何よりも考えることの、臆せず疑うことの、まず服従してしまわないことの、いわば体を張った(身体を駆使した)実地訓練のそれ」によって本書は成立しています(8頁)。

★考え抜く著者の姿勢は、次のようなくだりにも端的に表現されている気がします。「お粗末な知性は役に立つ――、何よりも間違った問題の保守、保全のために。この類の知性は、答が出ない問題を前にして、その困難さに平伏し、労苦を厭わずその答を、また答え得る者を、探し求めてやまない根気よさを備えているから」(23頁)。「無知は、知識の欠如ではない。それは、強固に打ち固められた偏見という土壌に植え込まれた知識、いわば偏見に根締めされた知識が取る姿勢だ。そして、そのような知識によって内側から浸食され、空洞化されたその内側へと歪み縮んだ思考の状態だ」(126頁)。「真理とは、認識の競技における優勝者の称号だ。それは、挑戦者に負けると取り上げられ、新たな者の手に移る。挑戦を退けている限り、それは保持される」(125頁)。

★体を張って思考する著者にとって、現代社会の姿というのは実に哀れなものです。「不安とは、それ自身の実現をはぐらかされた、つまり実現されずに宙吊りにされた恐怖の感情だ。われわれは、今日、恐怖感情の実現を恐れ、それを中絶させるための技術、装置、制度、法規を稠密に配備した社会、要するに「安全保障〔セキュリティ〕の社会」のなかにいる。ここには、いわば挫折させられ、まっとうされることのなかった恐怖感情の未生の残骸が浮遊し、吹き溜まる。それ故、「安全保障の社会」は、そのなかに絶えず「不安の時代」を醸さずにはいない。〔中略〕安全保障の社会は、経済-統治上、不安の時代をできる限り引き延ばす理由と動機こそ持つ」(209頁)。

★本書をどう読むべきかということについては「あとがき」にこんな説明があります。「読むこともまた、当然、別様であることを進められている――、表現を受け取ること、表現されている(と思われる)ものを受容、理解、了解することではなく――。仮設の足場にのぼり、またその不規則な、次元の整序を破って張り出され、渡される踏み板、垂木を辿りながら、また跳び移りながら、虚空から出現するものに立ち会い、あるいはその彫り出しに手を貸すこととして、要するに、異様に考えることへの加担として読むこと――、それがここで進められているものだ。この読むことにおいては、それ故、言葉、概念、問題性いずれも、それらの意味が捉えられ、何らかの体系や思想、また理論のなかに位置づけられるべき呈示されているのではなく、その使用に、更に使用の習熟のために、用意されている道具であり、稚気を欠かない読者に、虚空の防寒彫りにいたずら書きのひとつなり付け加えるべく使ってみることを誘いかけるように、提供されている」(248頁)。

by urag | 2012-02-12 02:45 | 本のコンシェルジュ | Comments(0)


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