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2012年 02月 06日

ルソー『化学教程』連載第三回公開

ルソー『化学教程』のウェブ連載第三回を弊社ウェブサイトにて公開いたします。第一部第二編第一章第三節までの翻訳と訳者解説になります。以下に、第一節のみをご紹介します。

ジャン=ジャック・ルソー『化学教程』第一部第二編「自然的な器具instrumentについて」
第一章「自然の仕掛けmécanismeについて」

1[A:44, F:57, C:97]私たちは生まれるとともに目を開く。私たちは何事かを知る前から見るのである。そして〔見ることが〕長い習慣と化してこれに満足すると、感覚的な対象に関するささやかな検討すらも、私たちの好奇心をすぐにうんざりさせる。あらゆるひとびとが、自然の光景spectacleの素晴らしさを褒めそやすことを私は知っている。しかし、その素晴らしさを理解することができるひとはほとんどいないように思われる。我らが歌劇の舞台théâtres d’opéraでは、あるひとは声の美しさに、あるひとは舞台装置のそれに、またあるひとは女優のそれに感嘆する。つまりあるひとは音楽のみを聴き、他のひとは登場人物にのみ夢中になる。そして歯車や綱や滑車のことばかりを考えているひとびとは、もし〔舞台の〕仕掛けを一挙に把握しようと思うならば、なおも実に多くのことをしなければならない。要するに、どのひとも個別の対象に注目しているのである。〔だが〕集められ〔互いに〕比較された一つひとつの部分に注意しつつも、〔さらにその部分が形成している〕全体を判断するひとは稀にしかいない。〔このような仕方で全体を判断できないということは〕自然という舞台に関して言えば、大衆にではなく――というのも大衆は、知りもせずにただ感嘆するだけであるから――、むしろ哲学者たちにこそしばしばよく起こることなのである。この巨大な機械 machine immense(★1)〔=舞台、自然〕の重さを背負える以上に背負い込み、圧しつぶされて、彼ら哲学者たちは、その視野に入ったちょっとしたぜんまいについて考察することに甘んじているのである。〔というのも小さな機械である〕蝶や蠅ごときですら、至極勤勉な自然学者〔=哲学者〕の叡智lumièreと研究とを辟易させてしまうのだから。[A:45, C:98]そもそも〔機械の〕各部分は〔機械全体との〕関係の中でのみその完全性を持ち、またその特殊な機能を持つ。ところでこのような部分は、それを一つひとつきちんと考えることに労を惜しまないひとびとの驚嘆と感嘆とを惹き起こしてしまう。[F:58]それゆえすべての部品piècesの相互関係を知り、そして相互関係に関する知識を通して〔各部分に通底する〕一般的な調和と機械全体の運動とを判断するというようなことはできなくなる。とするならば、全体を探求するようなひとびとが〔彼らの探求によって〕驚嘆し感嘆することなどそもそもありうるのであろうか。

(★1)世界を巨大な機械に喩える例は、後の『エミール』においても見られる。そこで、ルソーは巨大な機械を理解することは人間の能力を超えていると考えていた。そこから、ルソーは不可知論の立場にあったと考えられる。「わたしたちはこの巨大な機械machine immenseを測定する尺度をもたない。そのいろいろな比率を計算することができない。その基本的な法則も最後的な原因も知らない。わたしたちはわたしたち自身を知らない。わたしたちの本性も行動の原理も知らない」(Émile, O.C., t.IV, p. 568. 『エミール』、中巻、今野一雄訳、岩波文庫、1963年、125頁)

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・・・・つづきは月曜社公式ウェブサイトで公開中です。
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by urag | 2012-02-06 11:03 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
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