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2017年 07月 30日

注目新刊:クセナキス『音楽と建築』新編新訳版、ほか

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ヤニス・クセナキス著 高橋悠治編訳
河出書房新社 2017年7月 本体2,800円 46判上製184頁 ISBN978-4-309-27618-2
帯文より:「音楽が知性だった。建築は力だった。もう世界の終わりなき流動を怖れる必要はなかった。感じ考えていたのは世界だったのだから」(岡崎乾二郎)。高度な数学的知識で論じられる音楽と建築のテクノロジカルな創造的関係性。コンピュータを用いた現代における表現の、すべての始原がここに――。伝説の名著、新編・新訳。

目次:
訳者まえがき(高橋悠治)
音楽
 1 確率論と作曲
 2 三つのたとえ
 3 メタミュージックに向かって
 4 音楽の哲学へ
  一般事例
  事例《ノモス・アルファ》の分析
  《ノモス・ガンマ》――《ノモス・アルファ》の一般化[英語版から]
  天命の指針
建築
 5 フィリップス展示館――建築の夜明け
 6 「電子的運動表現」覚書
 7 宇宙都市
 8 見るための音楽《ディアトープ》
ヤニス・クセナキスの軌跡(高橋悠治)

★発売済。巻末特記によれば「本書は、1975年に全音楽譜出版社から刊行された同タイトルの書籍を、増補・改訳したものです」と。より詳しくは巻頭の「訳者まえがき」で説明されています。「この本は基本的には1975年に全音楽譜出版社から出した『音楽と建築』の再版だが、音楽についての第1部はフランス語の原文『Musique Architecture』(Casterman, 1976)と『Formalized Music』(Pendragon, 1975)中の英訳から、建築に関する第2部は『Music de l'architecture』(Éditions Parenthèse, 2006)のフランス語原文と『Music and Architecture』(Pendragon, 2008)の改訂版英訳から選択し、フランスワーズ・クセナキスとシャロン・カナークの了解のもとに、クセナキス入門とも言える独自の日本語版とした。《ディアトープ》についての講演と、そこで参照されたプラトン、パスカルなどの文章を新しく訳した」とのことです。

★参考までに旧版(底本はCastermanより刊行された『Musique Architecture』の初版1971年版。1976年版は増補新版)の目次を列記しておきます。

日本語版への序
序 「音列音楽の危機」より
第1部 音楽
 第1章 確率論と作曲
 第2章 三つのたとえ
 第3章 作曲の形式化と公理
 第4章 三つの結晶核
 第5章 超音楽へ
 第6章 音楽の哲学へ
  一般の場合
  特殊の場合――「ノモス・アルファ」の分析
  「ノモス・ガンマ」――「ノモス・アルファ」の一般化
  運命指示計
第2部 建築
 「電子詩」1958――ルコルビュジェ
 第1章 フィリップス館
 第2章 電子的身振りについて
 第3章 宇宙都市
年表ヤニス・クセナキス
訳者あとがき(高橋悠治)

★河出書房新社さんから再刊するにあたり「訳文を最初から作り直」したとのことで、底本も同一ではありませんから、旧版を持っている方も今回の「新編・新訳」版は購読された方がいいと思います。新版にあって旧版にないものは新たに訳出されたクセナキスの「見るための音楽《ディアトープ》」と、高橋さんによる「訳者まえがき」および「ヤニス・クセナキスの軌跡」です。逆に旧版にあって新版にないものは「日本語版への序」「序 「音列音楽の危機」より」「三つの結晶核」「「電子詩」1958――ルコルビュジェ」、そして「年表ヤニス・クセナキス」「訳者あとがき」です。これらのことを勘案すると、図書館さんにおかれましては今回の新版を配架したからといって旧版を除籍するのは妥当ではありません。

★高橋さんは「訳者まえがき」で本書の背景に「古代ギリシャ哲学、現代ギリシャの政治状況、独裁体制やファシズムとたたかった地下活動体験、亡命者の孤独のなかから作り出した思想と方法がある」とお書きになっています。「デモや武装闘争の記憶、複雑な自然現象や社会の暴力の経験から創られた独自の音楽や建築には、確率論や統計数学をはじめとする数学を使って、多数の粒子が一見無秩序に飛び交う空間、乱流やノイズを、意志と方向をもって統御している。安定した社会のいままでの音楽や建築が知らなかった、揺れ動く不安な社会、さまざまな文化がぶつかりあう難民や亡命者の世界が作り出した芸術のあたらしいかたちのひとつといえるだろう」。

★新訳「三つのたとえ」(1958年)から印象的な文章を引きます。「思想やエネルギー活動、人間にあたえられ人間が担う物理的現実を反映する精神過程と心理現象の光と影があり、音楽はそれらすべてのマトリックスだ。世界観の表現としては、波動、樹木、人間だけでなく、理論物理学・抽象論理学・現代代数学などの基礎理論もそこに入っている。哲学であり、存在するものの個的・普遍的側面でもある。闘争と対比、諸存在と現在進行中のプロセスとの折り合う地点は、19世紀の人間(神)中心主義的発想とは遠い。思考様式には物理学やサイバネティクスなどの現代的精神に支配されている。〔・・・〕音楽こそどんな芸術にも増して、抽象的頭脳と感性的実践とが、人間的限界内で折り合う場なのだ。音楽は世界の調和だとは個人の言い草だが、現代思想からもおなじことが言える。〔・・・〕20世紀前半の思想とプロセスの嵐に揉まれた後で、音楽的探究や実現の範囲を拡大することが絶対必要だ。伝統の息詰まる温室から出して、野外に解放しよう」(21頁)。

★河出書房新社さんの今月の再刊本では、本書のほかに、以下の新装版が刊行されています。

カオスモーズ 新装版
フェリックス・ガタリ著 宮林寛/小沢秋広訳
河出書房新社 2017年7月 本体3,800円 46判上製224頁 ISBN978-4-309-24816-5

帯文より:「生活とは、たくさんの異質な流れが絡み合ったものである。その複雑さを捉えるには、従来の学問では足りない。だからガタリは、独自の抽象思考に踏み出した。生活の細部に分け入ること、それが人間の未来像を見ることなのだ」(千葉雅也)。「フェリックスは稲妻だった」(ドゥルーズ)。没後25年、時代はようやくガタリに追いついた――その思考と実践のすべてを注ぎ込んだガタリの遺著にして代表作、復活。

目次:
1 主体感の生産をめぐって
2 機械性異質発生
3 スキゾ分析によるメタモデル化
4 スキゾなカオスモーズ
5 機械性の口唇性と潜勢的なもののエコロジー
6 美の新しいパラダイム
7 生態哲学〔エコゾフィー〕の対象
原注
訳者あとがき

★初版が2004年刊ですからもう13年も経過しているのですね。今回の再刊にあたり、特に追記等はありません。原書は『Chaosmose』(Éditions Galilée, 1992)であり、同年に死去したガタリの遺著です。河出さんでは関連書として昨年末、上野俊哉さんの『四つのエコロジー――フェリックス・ガタリの思考』を出版されています。

★ガタリは「機械性の口唇性と潜勢的なもののエコロジー」で現代社会のありようと課題を次のように述べています。「現在の世界は、環境論的にも人口論的にも都市論的にも行き詰っていて、それらを揺さぶっている技術や科学の驚くべき変貌を、人類の利益と両立可能なかたちで引き受けることができないでいます。深い奈落か根本的な更新かのあいだで、目もくらむような競争が始まっています。経済的、社会的、政治的、道徳的、伝統的な分野で磁石の針はすべて一つまた一つと狂いつつあります。価値の軸、人間関係や生産関係の基本的な目的を立て直すことが至上命令になっています」(146頁)。ガタリが構想した生態哲学〔エコゾフィー〕はこうした危機への果敢な挑戦です。「一般エコロジーもしくは生態の哲学〔エコゾフィー〕は、生態系の科学として、政治的再生を賭して作業しますが、同時に、倫理的、美的かつ分析的な行為参加としても作用します。それは新しい価値付けシステム、生に対する新しい嗜好、男と女の間、世代間、種族や民族間における新しくかつ優しい在り方を目指すのです」(146~147頁)。

★カオスとコスモスとオスモーズ(浸透)を一つにつないだものと訳者が説明する「カオスモーズ」は非常に興味深い概念です。例えば「美の新しいパラダイム」にはこんな記述があります。「無限の速度による連続的往還によって、多種多様な実体が、存在論的に異質な複合において互いに差異化しあうこと、同一の「在る-否-在る」の反復のなかで、姿かたちの雑多性を破棄しながら均質化しつつ、カオス化すること〔・・・〕。多様な実体たちはここで、外的な参照系や座標系とのつながりを失う混沌とした臍の地帯に向けた投身を繰り返しながら、その臍の地帯から新たな複雑性を充填して再び現れることができるわけです」(176~177頁)。

★本書の末尾でガタリは次のように書いています。「精神分析、制度論的分析、映画、文学、詩、革新的な教育法、都市整備、建築、クリエーター、これらの専門分野はすべて、それぞれにおける創造性を結集し、地平線上に現れつつある野蛮、精神の内部崩壊、カオスモーズ的な痙攣という試練を、打ち払い、不可知の豊かさと喜びに変えるという使命を担っています」(212頁)。専門性に閉じこもることなく横断し交流することを訴えるガタリの動き続ける魂が本書から今もなお立ち昇っています。

★ちなみに帯文にある千葉雅也さんの推薦文は、ガタリの思想を端的に表現しているとともに、千葉さんの『勉強の哲学』に続くことが予想される理論的著作への扉ともなっているように読めます。千葉さんは今月末発売された『現代思想』2017年8月号の特集「「コミュ障」の時代」で、「コミュニケーションにおける闇と超越」という討議を國分功一郎さんと行なっておられます(53~69頁)。先月創刊された、「芸術(体験)と言葉」を掲げた雑誌「NOUMU」の創刊号の主題が「不可能なコミュニケーション」でしたが、こうした一種の主題的共振は同時代性において不可避のものです。私事で恐縮ですが「多様体」第零号(八重洲BC本店「月曜社フェア」ノベルティ、2016年7月)所収の拙文「シグマの崩壊」で書いたこともこうした同時代性の磁場の内にあるものです。

★國分さんは討議で「「言葉の力」を訴えることは、ある種の精神的な貴族性を肯定することにつながると思うんです。〔・・・〕僕は今そのことばかり考えています。〔・・・〕僕にとって貴族的なものというのはずっとテーマとしてあって、『暇と退屈の倫理学』も一言で言うと、全員で貴族になろうという本だったんですね」(59頁)と発言されています。この貴族性、貴族的なものという言葉はこの討議のキーワードの一つになっていて、同時代の様々な議論と接続していく回路になっていると感じます。これはいわゆる「貴族階級そのもの」ではなく、「権威主義なき権威」(國分)や、「高貴な民衆」(千葉)といった問題圏と接しています。千葉さんは「貴族的なるものの再発明を旧来の既得権益の継承とは別のかたちで」考えること(63頁)を問うておられます。國分さんは「貴族的なものを僕は「徳」だと考える」(同)と。私自身の関心に変換して言うとそれは民主主義の発展形としての「アリストアナーキズム(貴族的無政府主義)」という圏域への困難だけれども必要な旅、ということになります。

★なお千葉さんと國分さんはガタリについて次のようにも語っておられます。千葉「最近僕もガタリを読み返していて、現代的に深読みができるなと思っています」。國分「ドゥルーズがそこに気づいて面白がっていたということなのでしょうね。ある意味では時代がガタリに追いついてきた」。帯の文言と一致していますが、これも一種の不可避な共振であり、共謀なき同意かと思います。

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★このほか最近では作品社さんの次の新刊2点(いずれも発売済)との出会いがありました。

クルアーン的世界観――近代をイスラームと共存させるために』アブドゥルハミード・アブー・スライマーン著、塩崎悠輝/出水麻野訳、塩崎悠輝解説、作品社、2017年7月、本体2,400円、四六判上製310頁、ISBN978-4-86182-644-3
ウィッシュガール』ニッキー・ロフティン著、代田亜香子訳、作品社、2017年7月、本体1,800円、四六判上製246頁、ISBN978-4-86182-645-0

★『クルアーン的世界観』の原書は『The Qur'anic Worldview: A Springboard for Cultural Reform』(International Institute of Islamic Thought, 2011)です。著者のアブー・スライマーン(AbdulHamid AbuSulayman, 1936-)はサウジアラビアの穏健派知識人で現在「国際イスラーム思想研究所」の代表であり、「米国児童育成基金」の代表でもあります。本邦初の訳書となる本書は「ムスリムの共同体が過去に持っていた世界観と歴史上の様々な段階を多様な側面から顧みる。そしてイスラーム文明の最初期における飛躍の根本的な原因をつきとめる。本書はまた、ムスリムの共同体が持つようになったさまざまな観念に影響した重要な原因と、現在直面している危機を示す」(4頁、「はじめに」より)ものです。

★目次を以下に列記しておきます。
日本語版へのメッセージ
はじめに
アラビア語版への序文
第一章 クルアーン的世界観と人類の文化
第二章 クルアーン的世界観で具体的に示された諸原則
第三章 クルアーン的世界観――改革と建設の基礎、出発点、インスピレーション
第四章 イスラーム的世界観と人道的倫理の概念
第五章 国際イスラーム思想研究所による大学カリキュラムの発展に向けた計画
付録Ⅰ 改革のための教育
付録Ⅱ 信仰――理性に基づくものなのか、奇跡に基づくものなのか
原註
解説「イスラーム独自の近代は可能か?」(塩崎悠輝)
訳者あとがき


★『ウィッシュガール』の原書は『Wish Girl』(Razorbill, 2015)で、アメリカの作家ロフティン(Nikki Loftin, 1972-)の初めての訳書です。冒頭部分を引用します。「十三歳になる前の夏、ぼくはあまりにもじっとしていたせいで、死にかけた。/ぼくは昔からずっと、静かだった。練習していたほどだ。息を殺して、頭のなかの考えさえ、そっとしとく。静かにしてることは、ぼくがだれよりもうまくできるだったひとつの得意分野だった。だけどたぶん、そのせいでぼくはへんなやつだと思われていた。家族は、ききあきるほどいってた。「ピーターは、どうかしたのかな?」/どうかしてるとこなんて、たくさんある。だけどいま、いちばん深刻な問題は、足の上にガラガラヘビがいることだ。/ぼくは、はじめて家を勝手にぬけだしてきた。もしかしたらこれが最後になるかもしれない・・・そう考えながら、地面をじっと見つめてた。ゆっくりとまばたきをする。目を閉じればヘビが消えてくれるみたいに」(5頁)。

★作品社さんのシリーズ「金原瑞人選オールタイム・ベストYA」は同書をもって第一期全10巻完結とのことです。言うまでもありませんがYAというのはヤングアダルトのこと。「1970年代後半、アメリカで生まれて英語圏の国々に広がっていった」ジャンル(「選者のことば」より)で、若い読者、高校生や大学生を主な対象としており、いわば児童書と文学書をつなぐブリッジの役目があります。ジュヴナイルやラノベ(ライトノベル)とも関連しており、大きな市場だと言えます。

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by urag | 2017-07-30 14:15 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 28日

メモ(26)

アマゾン・ジャパンが日販や版元に申し立てている「引当率」の根拠がいかに(版元にとっては)ずさんなものかが分かる証言がここ最近改めて出始めています。某版元営業さんのツイートによれば「アマゾンより「貴社欠品状況と日販引当率をお知らせします」というメールがくるようになったけど、100点ばかりあげられている「需要高カート落ち商品リスト」の内容が、すべて旧版やVANでも品切れにしているものなんだが。日販に補充しろといわれてもな」と。

こうしたメールはまだ弊社には届いていませんが、他社さんからも同様の感想を聞いています。メールでお知らせが来るということは、おそらくベンダーセントラルに登録している版元を中心に、順次送っているのだと思われます。アマゾンはバックオーダー発注停止に伴う説明会の折に、数字を羅列しただけでまったく具体的な書名を挙げていない引当率のデータを版元に提示し、混乱した印象しか与えてきませんでした。さすがに各方面から突っ込みが入ったのか、ようやくカート落ち問題に関連して具体的な書名のリストを版元に送り始めた、ということでしょうか。

し・か・し、欠品の内容たるや、旧版や品切本ばかりというわけです。そんなのをカウントしていたらそりゃ引当率は下がりますよ。開いた口がふさがらない。実際このことは以前から版元サイドからは疑問視されてきました。これと同じことを2年前にもアマゾンはやらかしているのです。

2016年の夏、栗田が民事再生法適用を申請した後に行われた版元への「増売セミナー」で、アマゾンは販売機会欠損率ワースト30の書目リストを版元に提示しています。その昔当ブログでも明かしたかと記憶しますが、弊社に提示されたリストではワースト30のうち、25点は普通に送品できている本でワーストでも何でもなく無理やりリストアップされているものでした。そして、残りの5点は版元品切本だったのです。こんな馬鹿馬鹿しいことをいつまでアマゾンは続けるのでしょうね。

こうした品切本や旧版まで含めてアマゾンは日販に在庫しろ、と言っている(に等しい)のでしょうから、無茶にもほどがあります。日販さんはもっと怒っていいはずです。だって本当に無茶苦茶なんだから。アマゾンの発注方法に合理性を感じないなら、はっきりとそう内外に説明すべきです。

先述の版元営業マンさんはこうもお書きになっています。「取次の在庫ステータス22と32はアマゾンからの発注がでないって書いてるけど、もしかしてVAN関係なく、フル発注して引当率下げてるんじゃ?って疑いたくなる。欠品率で品切れ商品の無駄データを送ってくるぐらいなら、引き当て不能だった書籍のデータが欲しいわ。それちゃんと補充するから」。フル発注疑惑、これですね。引当不能書目が何だったか、それをきちんとアマゾンが版元に直接提示し確認できれば、問題はすぐに解決できるはずです。なぜそれをやらないのか。

直取引の有無に関係なく、アマゾンは版元に直接、在庫確認や発注を行えばいいのです。それだけでもずいぶんと混乱は収まるはずです。e託最優先思想から脱却しない限り、アマゾンの「すぐに調達、すべてを調達」というミッションは達成されようがありません。

別の版元さんからはこんな声も聞かれました。「絶版本をKINDLEかPODにしろと言われるが、改訂前のものを商品化して何の意味があるのか」。まったくその通りで、もう本当に椅子から転げ落ちそうになりますね。絶版本の中身を精査しないままで「すべてを調達する!」と言われても、そんなアバウトすぎる需要予測には、版元にとっては何の意味もありません。

アマゾンは毎日全単品の需要予測を独自に算出していると言っていますが、その需要予測にどんな要素が組み込まれているか、版元に開示するつもりはなさそうです。しかし、調達率や引当率を上げるためには、アマゾンの需要予測の精度がそもそも問題になってくるわけで、そこを精確にメーカーである版元に説明できなければどうしようもありません。なぜ旧版や年度落ち本が必要なのか、非常に興味深いので、その理由をぜひ詳しく教えて欲しい(こうした問いかけに既視感を覚えるのは・・・ツタヤ図書館のせいですね)。

アマ「くれよ」、版元「ないよ」、アマ「欲しいんだよ」、版元「なんでだよ」、アマ「売れる見込みがあるからだよ」、版元「どこかだよ」、これの繰り返しですよ、今のままでは(コント「アマゾンくん」)。

+++

一方ではこんなこともあります。あくまでも寓話です。

版元「この本はよく売れているからもっと在庫してもらった方がいいと思うんだけど」
アマ「そういうことは取次さんに相談してください」
版元「・・・(回りくどいわ~)」
版元「取次さん、そういうことなんでアマゾンさんに在庫してもらった方が」
取次「発注するしないはアマゾンさん次第なんで」
版元「・・・(これ以上どうしろっていうんだよ)」
アマ「e託(直取引)もご検討ください、バックオーダー止めるんで」
版元「はあ?(正気かよ)」
アマ「・・・(在庫なくなった)」
版元「・・・(やっぱりな。あとはアマゾンの発注待ちか)」
版元「・・・(カートが落ちると2~3週間は復活しないんだよな)」
取次「・・・(うちの倉庫だって扱える物量の限界はあるよ)」
アマ「10月に藤井寺FCと八王子FCを稼働させるよ」
版元「・・・(中小版元の本を在庫してくれるのか?)」
アマ「・・・」
取次「うちも在庫点数を増やすべく頑張ってますんで」
版元「・・・(MD契約してないから取次に何を何冊在庫してもらってるかわからん)」
版元「・・・(昔っからカート落ちって版元品切と勘違いされるんだよな)」
著者「出版社さん、なんでアマゾンで扱ってもらえないの?」
版元「はあ、扱ってもらえるかどうかはアマゾンの判断なんです」
著者「アマゾンさん、なんで?」
アマ「当社の需要予測に基づいています」
お客「出版社ではもう品切なんですか」
版元「ありますよ、全国の書店さんでご注文いただけます」
お客「本屋さん、この本欲しいです」
書店「取り寄せになるので多少時間かかります」
お客「・・・(早く欲しいのに)」
お客「出版社さん、アマゾンで買えないんですけど」
版元「かくかくしかじかの本屋さんでは在庫しているようですよ」
お客「考えてみます(アマゾンなら送料無料ですぐ届くのに)」
版元「・・・(なにかとアマゾンアマゾンって言われてかなわんな)」
運送「当日配送キツイわ、撤退したい」
アマ「・・・(代替をちゃんと探してあるもんね)」
お客「デリバリープロバイダから荷物届かない」
アマ「・・・(米英ではさらなる施策を試行錯誤してるし将来日本でも)」
新聞「配送トラブルが生じていると言われているが?」
アマ「現在は解消しています」
デリ「・・・(正直無理だわ)」

例えば今日現在、弊社5月刊『鉄砲百合の射程距離』(内田美紗=俳句、森山大道=写真)はアマゾンでは「通常1~4週間以内に発送します」と表示されています。「honto」では1~3日以内に出荷との表示。本書は弊社銘柄中、いまもっとも客注が多い書目で、おそらくアマゾンでも在庫すればそれなりに堅調に動くでしょう。ちなみに同書は版元在庫ありなので、もしアマゾンさんが弊社に直接発注を出してくれれば、午前中の受注で翌営業日、午後の受注で翌々営業日に取次搬入可能です。取次が在庫を持っていない場合でも取寄せ発注を出すよりかは多少は時短になると思うのですけれども。

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by urag | 2017-07-28 10:59 | 雑談 | Trackback | Comments(2)
2017年 07月 25日

メモ(25)

「DIAMOND online」2017年7月25日付、須賀彩子(ダイヤモンドZAi編集部)氏記名記事「ヤマトがアマゾンに1.7倍の運賃値上げと総量抑制を要請、ヤマ場は9月」によれば、ヤマト運輸はアマゾン・ジャパンの宅配便数の4分の3を担っており、残り4分の1は日本郵便だと言います。記事ではアマゾンからの荷物の平均単価はヤマトの運賃表の4割程度であり、「これは2013年に佐川急便が利益が出ないとしてアマゾンの仕事から撤退したときの価格に等しい」と。ヤマトは値上げを要求し、さらに現在引き受けている宅配便のうち20%前後の荷物は引き受けられないとも伝えていると言います。詳しくは同記事をお読みください。コメント欄付のヤフーニュース版はこちら

記事によれば「アマゾンは、自前で物流網を築くとしているが、「そんなにすぐにはできない。4~5年は要するだろう」(物流関係者)という」。時間がかかるだろうことは明白ではありますが、アマゾンはそこまでは待てないでしょうから、何かしらの手を打つだろうと思われます。とはいえ、中小の運送会社にいくら頼ったところで・・・という各方面の嘆き節はしばらくは収まらないでしょう。自動運転やドローンによる配送が実現するのも、この日本では近い将来、とまではなかなか思えません。

直取引を開始している版元や検討している版元からすでに様々な「ボヤキ」が聞こえてくる昨今、とうとうバックオーダー発注停止から1ヶ月が経とうとしています。版元によっては日販の売上がどの程度変化しているかを見極めて、アマゾンとの直取引の是非を考えざるをえないでしょう。実際のところアマゾンが検討すべきなのは、直取引に固執しないもう一つの回路を作っておくことではないかと思います。すなわち、版元への直発注です。普通の書店ではやっていることをアマゾンがやらないのはなぜか。結局版元が納品するのは日販にであって、そこからアマゾンに届くまでの時間を何とかして短くしたいなら、手っ取り早いのはやはり直取引だ、ということだからでしょう。

しかし、日販との取引の積み重ねがある大方の版元にとっては、信義上、簡単に直取引に乗り換えられるものではありません。加えて、そもそもアマゾンが取引先として信頼に足る相手なのかどうか、版元には根強い不信感があります。その不信感は版元が一方的に抱いている偏見などではなく、アマゾン自身が引き起こしているものです。そのことにそろそろアマゾンは気づくべきです。なぜ緑風出版、水声社、晩成書房が今なお出荷停止をしているのか。学生への割引販売は大学生協でもやっていますから、学生が安く買える状況に文句を言いたいわけではないだろうと思います。そうではなく、アマゾンはおおむね、版元への事前相談なしに大事なことを決めてしまい、それについて版元と真摯に協議する姿勢が見られなかった。そこが一番の問題なのではないでしょうか。「アマゾンはいずれ再販制を無視して本の安売りを始めるに違いない」と疑われても仕方ない態度しか見せてこなかった、という版元にとっての「現実」に対して、アマゾン自身が何かしらの反省をしているようには残念ながら見えません。「それは誤解だ」と平然と言ってのけている内は、版元との距離感は縮まりようがないでしょう。

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バックオーダー発注停止から1ヶ月経とうとしている今、不思議なのは、アマゾンが在庫を持っていない商品についても買い物カゴがまだついている、ということです。いわゆる「カート落ち」になっておらず、取寄せ表示になっています。「通常9~14日以内に発送します」「通常1~4週間以内に発送します」「通常2~4週間以内に発送します」「通常1~2か月以内に発送します」だけでなく、「一時的に在庫切れ、入荷時期は未定」と表示していても、買い物カゴがついているケースを7月半ばまで見かけました。これはおかしい。取寄せはしないんじゃないの? 取寄せ発注しないのに在庫復活は無理でしょう。お客様とトラブルになりかねないではないですか。ところが25日現在、弊社本の場合、取り寄せはむしろ減って、1冊でも在庫しよう、と努力しているように見えます(それでもまだ取寄せ表示の銘柄が数点残っています)。

アマゾンにとってもカート落ちは怖いのだと見えます。それはそうでしょう。今のままアマゾンが発注をやめていれば、直取引版元以外で、日販ともMD契約をしていない版元の銘柄は間違いなくガンガン「カート落ち」します。驚いてしまうのは、「ロングテール喪失」のリスクというごく当たり前の展開を、アマゾンがさほど真剣には考えてこなかったらしいことです(アマゾンへの「誤解」が解ければ、出版社は直取引に応じるはずだ、という期待も、今となっては甘すぎました)。日販経由のバックオーダー短冊は止まったものの、日販のウェブブックセンターへの発注は止めていないのではないかと私は想像しています。そうでなければ、弊社銘柄の在庫の復活は説明できません。

とはいえ、今後どうなるのかは今しばし観察する必要があります。カート落ちが発生した場合、弊社がお客様にお薦めしたいのは、hontoとMJB(丸善、ジュンク堂、文教堂の店頭在庫)からの購入です。アマゾンしか通販の選択肢がないわけではない、というごくごく当たり前の事実をもう一度見直す必要があります。

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by urag | 2017-07-25 10:50 | 雑談 | Trackback | Comments(2)
2017年 07月 24日

「本to美女」にアガンベン『到来する共同体』の書評が掲載されています

「本to美女」2017年7月21日付、西村歩さん記名記事「私たちって何なんだ。どこにいるんだ。思考を巡らす楽しさを味わってみない?『到来する共同体』」で、弊社既刊書、アガンベン『到来する共同体 新装版』(上村忠男訳、月曜社、2015年)を取り上げていただきました。モデルは小林真琴さん。「本to美女」は「美女と一緒に悩みを解決する書評メディア」というユニークなサイト。

運営者は「株式会社SENSATION」さんで、「「悩みを、ワクワクに。」をメッセージとして、多くの人々の悩みを解決することで、ワクワクが溢れた社会を創っていくために、私たちはサービスを提供し続けます」とのことです。代表取締役の有吉洋平(ありよし・ようへい:1990-)さんは東京大学工学部卒、コンサルティングファームの株式会社ローランド・ベルガーを経て、2015年に「株式会社SENSATION」を創業されています。

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by urag | 2017-07-24 12:06 | 広告・書評 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 22日

注目新刊:ビフォの問題作『英雄たち』がついに翻訳、ほか

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大量殺人の“ダークヒーロー”――なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?
フランコ・ベラルディ(ビフォ)著、杉村昌昭訳
作品社、2017年6月、本体2,400円、46判上製295頁、ISBN978-4-86182-641-2

★先月(6月29日取次搬入)発売済。原書は『Heroes: Mass Murder and Suicide』(Verso, 2015)であり、翻訳にあたってフランス語版『Tueries』(Lux Editions, 2016)も参照されています。目次を以下に列記しておきます。

[英語版への序文]なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?
[フランス語版への序文]人間を死に追いやる現代資本主義社会
第1章 “俺はジョーカーだ”――オーロラ銃乱射事件とホームズ
第2章 “人間は課題評価されている”――ヨケラ高校銃乱射事件とオーヴィネン
第3章 “死ぬ直前、一瞬だけ勝者に”――コロンバイン高校銃乱射事件とハリス&クレボルド
第4章 “私はイエスのように死ぬ”――ヴァージニア工科大学銃乱射事件とチョ・スンヒ
第5章 現代資本主義社会において“犯罪”とは?
第6章 “ロボットのように殺人を”――ノルウェー連続テロ事件とブレイヴェーク
第7章 “民族のために生命を捧げた”――マクベラの洞窟虐殺事件とゴールドシュテイン
第8章 “誰も安全ではない”――アメリカ同時多発テロ事件とアタ、ロンドン衛兵惨殺事件とアデボラージョ&アデボワール、ワシントン海軍工廠銃撃事件とアレクシス
第9章 “世界に広がる自殺の波”――横浜浮浪者銃撃殺人事件、ひきこもり、フランステレコム社、イタイア・タラント市、モンサント社、フォックスコン社・・・
第10章 最も自殺の多い国の希望――ソウルへの旅
第11章 何もなせることがないときに、何をなすべきか?
[フランス語版解説]X線撮影された社会的身体(イヴ・シットン)
[フランコ・ベラルディ(ビフォ)へのインタヴュー]大量殺人と自殺の分析を通して見えてくるもの(広瀬純=インタヴュー/翻訳)
本書で取り上げられた「大量殺人事件」の概要(作品社編集部)
訳者あとがき
参考文献・映画

★フランス語版解説でシットンはこう書いています。「本書は、いま現在、われわれの社会の中心部で起きていて、今後もそうした方向に向かっていくであろう社会崩壊と壊滅を、譲歩も容赦もなしに、あますところなくX線撮影したものである」。同様に、訳者の杉村さんは本書をこう紹介しています。「近年世界中を席捲している「自殺テロリズム」の心理的・社会的分析を克明に行ないながら、「絶対資本主義」時代の文明的不安の正体をえぐりだそうとした新作である」(訳者あとがきより)。「本書の核心的テーマは、『プレカリアートの詩』〔櫻田和也訳、河出書房新社、2009年、品切〕で展開された現代金融(記号)資本主義の社会分析に依拠して、そのネガティブな社会的様相をペシミスティックな観点から文明史的に描き出そうとしたものと言えるだろう」(同)。

★「悪魔は存在しない。存在するのは、このところますます“自殺”という形態に人々を追い込んでいる資本主義社会、そして漠然とした絶望のひろがりである」(15頁)とビフォは書きます。「現代のテロリズムは、確かに政治的文脈から説明することができるだろう。しかし、そうした分析の仕方だけでは不十分である。われわれの時代のもっとも恐るべきもののひとつであるこの現象は、何よりもまず自己破壊的傾向の広がりとして解釈されなくてはならない。もちろん「ジハード」(殉教あるいは自殺的テロリズム)は一見、政治的・イデオロギー的・宗教的な理由から発動する。しかし、この修辞的外観の下には、奥深い自殺動機が潜んでいて、その引き金となるのは、つねに絶望であり、屈辱であり、貧困である。自らの人生に終止符を打とうとする男女にとって、生きることが耐えがたい重荷になり、死が唯一の解決策、大量殺人が唯一の復讐になるのだ」(18~19頁)。「自殺者の数、とくに他人の生命を奪う自殺の数が増加しているのは、明らかに社会生活が、不幸を生産する工場になっているという事実に由来する。一方に「勝者」がいて、他方に勝者とはほど遠い意識の持ち主がいるという厳然たる状態において、勝利する(たとえ短い時間でも)ための唯一の方法は、自分の生命を犠牲にして、他者の生命を破壊することである」(19頁)。

★本書は読み方を間違えてはいけない本で、注意を要します。ビフォが書く通り本書は「われわれを取り巻く悲しみ、そして、しばしば侵略的・暴力的な大量殺人にまで至る激怒に変容する悲しみを解剖したものであ」り、「大量殺人と伴った自殺についての試論であり、今日の資本主義と呼ばれるものの本質――金融による抽象化、人間相互の諸関係の潜在化、不安定労働、競争主義など――を把握しようとしたものである」(19~20頁)であって、テロリストの行動と思想を賞讃する名鑑ではありません。原書名である「ヒーローズ(英雄たち)」というのは強烈な皮肉なのですが、読み間違えることを懸念してか、最終章「何もなせることがないときに、何をなすべきか?」の末尾で、あまりにも暗い絶望感が漂う本書の分析について「私の破局的な予感を、あまりまともに受け取らないでほしい」(242頁)とビフォは書いています。『大量殺人の“ダークヒーロー”』は今年刊行された人文書新刊の中でもっとも「問題作」だと言うべき一冊です。

★本書に関連する新刊がこのあと何冊か続きます。
7月26日発売予定:ガタリ『カオスモーズ 新装版』河出書房新社
8月15日発売予定:栗原康監修『日本のテロ――爆弾の時代 60s-70s』河出書房新社
ガタリの『カオスモーズ』はビフォが本書で重要な参照項としている本です。「カオスモーズは、社会的連帯の身体的再活性化、想像力の再活性化であり、経済成長という限定された地平を超えた新たな人間進化の次元を指し示す」(239頁)。また、水声社さんからビフォのガタリ論『フェリックス・ガタリ――そのひとと思想と未来図法(仮)』が刊行予定だと著者略歴に特記されています。

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★また、今月の新刊では以下の書目に注目しています。

ベルクソニズム 〈新訳〉』ジル・ドゥルーズ著、檜垣立哉/小林卓也訳、法政大学出版局、2017年7月、本体2,100円、四六判上製180頁、ISBN978-4-588-01063-7
マルセル・デュシャンとチェス』中尾拓哉著、平凡社、2017年7月、本体4,800円、A5判上製396頁、ISBN978-4-582-28448-5

★ドゥルーズ『ベルクソニズム』は発売済。『ベルクソンの哲学』(宇波彰訳、法政大学出版局、1974年、絶版)の後継となる新訳です。「近年の研究動向を取り入れた」(帯文より)、実に40数年ぶりの新訳。原書は『Le bergsonisme』(PUF, 1966)です。檜垣さんは訳者解説でこう本書を評しておられます。「ドゥルーズは、ベルクソン自身がおこなった以上にベルクソンの核心に接近し、それを独自の存在論的思索にまで高めていく。この書物はきわめてコンパクトなものであり、ドゥルーズという大思想家の作品群のなかでは、そのキャリアのほんのプロローグ的な位置づけに置かれるものでしかない。しかしそれにしてもここでのドゥルーズのベルクソンをあつかう切れ味には凄まじいものがある」(131~132頁)。「ドゥルーズは〔生涯の〕最後まで「内在の哲学」にこだわった。最後の原稿である「内在:一つの生・・・」にはさまざまな哲学者が登場するが、内在にせよ、生にせよ、その言葉をドゥルーズがもちいる根底にはつねにベルクソンがいる。そのことは初期の作品といえるこの書物以降、けっして変わることがないものである」(158頁)。

★中尾拓哉『マルセル・デュシャンとチェス』はまもなく発売。2015年に多摩美術大学大学院美術研究科に提出された博士論文に大幅な加筆修正を施したもので、帯文にはいとうせいこうさんの推薦文が刷られています。曰く「チェスとデュシャンは無関係だという根拠なき風説がこの国を覆っていた。やっと霧が晴れたような思いだ。ボードゲームは脳内の抽象性を拡張する」。主要目次を列記しておきます。序章「二つのモノグラフの間に」、第一章「絵画からチェスへの移行」、第二章「名指されない選択の余地」、第三章「四次元の目には映るもの」、第四章「対立し和解する永久運動」、第五章「遺された一手をめぐって」、第六章「創作行為、白と黒と灰と」、あとがき、註、参考文献、索引(人名・事項)。「なぜ、私のチェス・プレイが芸術活動ではないのですか。チェス・ゲームは非常に造形的です。それは構築される。それはメカニカルな彫刻ですし、美しいチェス・プロブレムをつくります。その美しさは頭と手でつくられるのです」(序章、18頁)とデュシャンは語ったと言います。「このデュシャンの言葉から、本書は開始される。これからのデュシャン論においては、チェスを「藝術の蜂起」の代名詞として「非芸術」へと分けるよりも、むしろその区分によって失われていたものを探し出すことが期待されるのである」(18~19頁)と著者は書きます。著者の中尾拓哉(なかお・たくや:1981-)さんは美術評論家。本書がデビュー作となります。

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★このほか、最近では以下の新刊との出会いがありました。

反「大学改革」論――若手からの問題提起』藤本夕衣/古川雄嗣/渡邉浩一編、ナカニシヤ出版、2017年6月、本体2,400円、4-6判並製264頁、ISBN978-4-7795-1081-6
外国人をつくりだす――戦後日本における「密航」と入国管理制度の運用』朴沙羅著、ナカニシヤ出版、2017年7月、本体3,500円、4-6判上製296頁、ISBN978-4-7795-1185-1
イマ イキテル 自閉症兄弟の物語――知ろうとするより、感じてほしい』増田幸弘著、明石書店、2017年7月、本体1,600円、4-6判並製336頁、ISBN978-4-7503-4542-0

★まずはナカニシヤ出版さんの新刊2点。『反「大学改革」論』は発売済。巻頭の「はじめに」によれば本書は「「若手」に属する大学教員・研究者――基本的に40歳以下としたが、例外も含む――が集い、それぞれの立場から、大学の在り方を根本的に問いなおすことを試みて」おり、「大学論に加え、教育学の諸分野(教育哲学、教育史学、教育社会学、教育行政学)、さらには哲学、文学、科学史、物理学といった、文理にまたがる多様な専門をもつものが、「大学改革」を論じ、それを総合することをめざした」とのことです。目次詳細と寄稿者略歴は書名のリンク先をご覧ください。

★朴沙羅『外国人をつくりだす』はまもなく発売。2013年に京都大学大学院文学研究科へ提出した博士論文に大幅な加筆修正を施したものです。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。「本書は、日本が中国やアメリカとの戦争に負け、連合国軍が日本を占領していた時期(すなわち1945年9月から1952年4月までのあいだ。以下「占領期」)に、日本へ渡航してきた朝鮮人がどのように発見され、どのように登録されたのかについて、個人の体験談と文献から明らかにする」(序章、3頁)。「本書は、いかにして入国管理体制は在日コリアンを対象としたのかという問題を、解放後の朝鮮から占領期の日本への「密航」と「密航」後の地位獲得プロセスから検討するものである」(同、17頁)。著者のブログの7月20日付エントリー「単著を出版します」では、巻末の「謝辞」とは異なる、未掲載の「あとがき」を読むことができます。

★増田幸弘『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語』はまもなく発売。著者がひょんなことから知り合った、自閉症の子供をもつ家族四人の生活を10年にわたる取材を通じて綴ったもの。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。知人や関係者による10の証言も随所に挿入されています。家族が向き合ってきた数々のエピソードに接するとき、自身の理解力の限界を感じ、安易な感想や印象を言うのが憚られます。本書は部分的に教訓を抜き出せるような類の軽い本ではなく、その全体を通読し再読することをもってしか接近しえない固有の重みを持っていると感じます。

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by urag | 2017-07-22 22:06 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 20日

ハーマッハー追悼「D’avec ──ヴェルナー・ハーマッハーから/とともに」(宮﨑裕助)

D’avec ──ヴェルナー・ハーマッハーから/とともに
宮﨑裕助

 ヴェルナー・ハーマッハーが逝った。69歳であったからまだそんな年齢ではない。自分にとって氏は、同時代に存在し思考しているということ自体が励みになるような数少ない人々のひとりであった。あまりに唐突な死に、いまだどう受け止めてよいかわからないでいる。

 ハーマッハーとの出会い……それはテクストを通じてだった。大学院の修士課程の頃だっただろうか、私は、デリダの『法の力』を通じてベンヤミンの「暴力批判論」に次第に取り憑かれるようになっていた。「暴力批判論」はきわめて難解なテクストであり、当時の自分には到底太刀打ちできる代物ではなかったが、さまざまな註釈や解説を漁っているうちに出くわしたのが、ハーマッハーの「アフォーマティヴ、ストライキ」であった。

 この論文は、ベンヤミンのいう「神的暴力」を、あらゆる(法の)措定に内在する「純粋暴力」へと練り上げ直すことで『暴力批判論』を再読するという試みである。ハーマッハーは、「純粋暴力」の概念を「廃棄(Entsetzung 脱措定)の論理」において再定義し、国家権力を措定する暴力を中断し休止させる契機のうちに、真の革命的瞬間としての「アフォーマティヴ(afformativ)」の働きを見出す。「アフォーマティヴ」は、ハーマッハーが「パフォーマティヴ」という言語行為論の用語と区別すべく案出した造語だが、この語をベンヤミンのテクストの行間に読まれるべきものとして抽出しその余白に書き込むことにより、ハーマッハーは『暴力批判論』のうちに「超越論的ストライキ」の理論を解明するにいたるのである。

 これは、デリダの『法の力』第二部をなす「暴力批判論」読解と同じ雑誌に掲載されていた。デリダの読解がおおむねテクストの進行に沿った註釈であるのに対して、ハーマッハーの読解はベンヤミンの思考と言葉ひとつひとつの振幅からテクストの行間そのものを先取りして再構成したかのようなものとなっている。それは、当のテクストが明示するはずだったができなかった可能性を余すところなく展開しているようにみえた。要するに、デリダの代補的読解とは対照的に、ハーマッハーの読解は、たんなる代補たることにとどまらず、まさしくすべてを焼き尽くす思考の灰として謎めきつつ残っているベンヤミンのテクストに肉薄し、その焔を再演するかのように思われたのであった。

 いまとなってはハーマッハーがベンヤミンの読み手として世界で最高峰のひとりであることに疑いの余地はない。あとでわかったことだが、デリダのベンヤミン論も傍らにハーマッハーのような傑出した読み手がいてこそ産み出されたのであり、親しい友人であったジャン=リュック・ナンシーやジョルジョ・アガンベンにとってもハーマッハーの読みの仕方は一目置かれていた(ハーマッハーのツェラン論は珍しくもナンシーによって仏訳されている)。

 2002年のジャン=リュック・ナンシー・コロキウムでは、デリダとナンシーの有名な丁々発止の対談(「責任──来るべき意味について」)がメインイヴェントであったが、メシアニズムなどの繊細な話題の要所要所で彼らがハーマッハーに遠巻きに合図をしながら話を進めていたのを思い出す。あるいは、デリダ『マルクスの亡霊たち』の論文集にハーマッハーは寄稿しているのだが、論文集の最後でそれらに応答しているデリダ自身はといえば、自分のテクストの射程を見事に取り出し新たに展開しているハーマッハーの読解には返答なしに讃嘆することしかできないと述べていたのが印象的だった(ちなみにデリダは、テリー・イーグルトンのあまりに杜撰な読みに対してもハーマッハーとは正反対の意味でやり過ごしたのだったが。なお、デリダの応答は『マルクスと息子たち』として邦訳されている)。

 ハーマッハーの驚嘆すべき読解の重要な導き手として、ポール・ド・マンがいることもあとから知るようになった。ド・マンの死後直後に発表したハーマッハーのあるテクスト(「文学的出来事の歴史と現象的出来事の歴史とのいくつかの違いについて」)では、直接ド・マンに言及しているわけではないが、読み進めているうちに、ハーマッハーの企図と語彙がド・マンの『美学イデオロギー』のそれに驚くほど一致していることに気づいた。本人にそのことをメールで書き送ってみたところ、否定されることはなく、といってド・マンとの関係を明らかにしてくれたわけでもなかったが、返事の文面からは地理的にも文化的にも遠く離れた一人の日本人がなぜここまで細かく読んでいるのかを知って喜んでいるようにも思われた。いま思えば、もっと図々しくド・マンとのかかわりを質問しておくべきだったと悔やまれる。

 残念ながら、私自身はハーマッハーに直接教わる機会には恵まれず、近年は断続的にメールのやりとりをするだけであった。今年の3月の末突然氏からメールが届いて驚いたことがあった。そこには、長年かけて何度か書き継がれてきたジャン=リュック・ナンシー論(氏はこれを書物にまとめる予定だった)の最新部分が添付されてあった。翌月4月にナンシーが来日するというタイミングだった。

 タイトルは「D’AVEC──ジャン=リュック・ナンシーにおける変異と無言」。元は2015年のジャン=リュック・ナンシーを囲むコロキウムでの発表原稿だが、改稿につぐ改稿を経て、最近ようやく書き上げたのでぜひ日本語で紹介してほしいと添えられてあった。

 このようなことは初めてであった。こちらの求めに応じてテクストを送ってもらったことはあるが、なぜ直接の教え子でもない私に氏のほうからこのような申し出をしてきたのかはわからない。とくに深い意味はないのかもしれない。私は、最新のテクストを送ってもらったことに感謝の念を書き添えつつ、なんとか紹介できるよう手を打ちたいと返事をした。いま思えば、氏はひょっとするとみずからの死期が近いことを予感していたのかもしれない。熱心な読者には少しでも早く、大事なテクストを送り届けておいたほうがよい──そのような希望が託されていたのかもしれない……。

 タイトルの「d’avec」はフランス語を知る者なら一見して奇妙な言葉であることに気づくだろう。この言葉自体は「~からの(差異)」や「~とは(異なる)」の意味をもつ前置詞の一種として、二つのものを距てる相違を記しづける語である。しかしこの語にあっては、なぜ「de」が、その反対の意味をもつ「avec」(~とともに)と結びついているのだろうか。

 この語は、まさに「de」と「avec」の合成からなることで、いわば「距たりにおける共存」を示唆している。これは奇しくもハーマッハーのテクスト、あるいはテクストそのもののありかたを告げ知らせているように思われてならない。ナンシーの有名な概念に「partage」という分割と共有の両方の意味を併せもつ言葉があるが、「d’avec」はまさにそのようにテクストから距てられてあることで、私たちは「ともに」に結びついているのだと示すのである。

 人々を分かつ死もまたそのような距たりなのかもしれない。テクストとは死後に、死を超えてなお読まれ続けることをその本性としている。テクストの構造そのものに宿る死の契機はまさに死者とともに生きるための条件であり、そのような条件のもとでこそ遺された者たちもまた互いに結びつき生き延びるのだということを、この「d’avec」は合図している。

 いまや、ハーマッハーの遺した数多くの素晴らしいテクストとの対話を再開すべきであろう。だがその前に、というより前に進むためにこそ、しばらくはまだ、自分に差し向けられながら遺作となってしまったテクストとともに、この言葉をただ心の奥で反響するがままにしておきたい。D’avec Werner Hamacher...

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One 2 many “Ent-fernungen” !」(増田靖彦)2017年7月17日

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by urag | 2017-07-20 11:02 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 19日

注目新刊:中山元訳『存在と時間3』『今こそ『資本論』』

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★中山元さん(訳書:ブランショ『書物の不在』)
ハイデガー『存在と時間』(全8巻、光文社古典新訳文庫)の第3巻と、ウィーン『マルクスの『資本論』』(ポプラ社、2007年)の改題新書版『今こそ『資本論』』(ポプラ新書)を先週上梓されました。

ハイデガー『存在と時間3』に収録されているのは、第一部「時間性に基づいた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明」第一篇「現存在の予備的な基礎分析」第三章「世界の世界性」第一七節「指示とめじるし」から、第四章「共同存在と自己存在としての世界内存在、「世人〔ひと〕」第二七節「日常的な自己存在と〈世人〉」まで。中山さん訳の『存在と時間』の最大の特徴は、長大な解説にあります。翻訳と懇切解説が一冊で読めることによって理解が深まるわけです。
なお光文社古典新訳文庫の9月新刊には、ソポクレス『オイディプス王』河合祥一郎訳、マキャヴェッリ『君主論』森川辰文訳、などが予告されています。

フランシス・ウィーン『今こそ『資本論』』は単行本刊行からすでに10年が経過している、という巻頭言にあらためて驚きます。巻頭言というのは、佐藤優さんによる「資本主義システムの下で生き残るために――新書化によせて」という一文です。「ウィーンの『資本論』解釈は、宇野〔弘蔵〕に近い」と佐藤さんは指摘しています。その理由については店頭で本書をご確認下さい。この巻頭言で佐藤さんはこうもしたためられています。「筆者は、学生時代だけでなく、外交官時代も、職業作家になった今も、『資本論』の論理は正しいと考えている。〔・・・〕自らの利潤を犠牲にして、労働者に回すような「人道的」資本家は、資本主義システムの下では生き残ることができないのだ。これが階級社会の本質だ」(5頁)。「資本主義が人間にとって理想的なシステムとは思わない」(6頁)。佐藤さんは親本刊行の時点で書かれた本書の巻末解説「『資本論』の論理で新自由主義を読み解く」において、「本書はこれから『資本論』の標準的な入門書になるであろう」とお書きになっています。なお本書では中山さんによる解説やあとがきの類は掲載されていません。

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by urag | 2017-07-19 11:38 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 19日

重版情報:星野太『崇高の修辞学』3刷出来

星野太さんの『崇高の修辞学』の3刷ができあがりました。シリーズ「古典転生」で3刷に達したのは本書が初めてです。学術書の初版部数や重版部数が年々少なくなるなか、こうして売れていくことはたいへんありがたいことです。なお3刷にあたって新たな修正はありません。また、代官山蔦屋書店さんでは特別小冊子付の同書の在庫がまだ残っているそうなので、どうぞご利用ください。

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なお同書をめぐっては朝日カルチャーセンターで9月末に、星野さん自身による講義が行われます。リンク先でお申し込みが可能です。

講師:星野 太(金沢美術工芸大学講師)
講座内容:私たちは、「崇高」と聞いてどのようなものを思い浮かべるだろうか。素朴に考えれば、それは私たちの心を厳粛な畏怖によって満たす感情、あるいはそれを引き起こす対象のことだ、とさしあたりは言えるかもしれない。だが、そもそもこの「崇高」という概念は、遡れば古代の修辞家ロンギノスの『崇高論』という書物において論じられ、後に近代の哲学者カントの手により、美学の中心的な概念のひとつとして練り上げられたものである。本講座では、修辞学と美学という二つの分野にまたがるこの概念の歴史的変遷を、理論的な側面も含めて概説していくことにしたい。(講師・記)

日程:2017年9月30日(土)13:30-16:45 9/30 1回
場所:朝日カルチャーセンター新宿教室
受講料(税込):9月(1回) 会員6,048円 一般7,344円
注意事項:途中15分休憩あり。教室は変わる場合があります。10階と11階の変更もあります。当日の案内表示をご確認ください。

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by urag | 2017-07-19 10:50 | 重版情報 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 19日

メモ(24)

すでに読まれた方も多いと想像しますが、「ねとらぼ」2017年7月16日付の九条誠一さんによる記名記事「Amazon“デリバリープロバイダ”問題、ヤマト撤退で現場は破綻寸前 「遅延が出て当たり前」「8時に出勤して終業は28時」」には戦慄を禁じえません。この記事では、デリバリープロバイダで配送業務に携わっているAさんと、Amazonの倉庫配送拠点であるFC(フルフィルメントセンター)で働くBさんの証言を紹介しています。すべての発言が重要なので出版業界人はぜひとも全文を読む必要がありますが、業界人が想像していた通りの現実に対する強烈な裏打ちとなる発言を一つずつ取り上げたいと思います。

まずAさん。「デリバリーステーションに所属している社員は、8時に出社して終業は28時というのが基本的な労働時間です。そのようなセンターが高品質なサービスを提供できるわけがありません。〔・・・〕大手企業でさえ撤退するような事業を、地域の中規模運送会社が行うのはやはり無理があります。今の運営は遅配ありきの運用であって、決して利用者のためにはなっていません」。

次にBさん。「Amazon自体はめちゃくちゃもうけているのに、そのAmazonを支えている会社はこんなに苦しい思いをしているのかと。ネット通販=配送料無料、注文すればすぐ届くのが当たり前……こういうイメージを創り上げてしまったことが、今回のような事態を招いてしまったのだと思います。しかし、Amazonとしてはそのイメージこそがブランド力ともいえるので、なかなか手放せないところなのでしょう」。

この記事のヤフーニュース版にはすでに5000近いコメントが寄せられていますが、トップコメントの一つにこんな声がありました。「もうAmazonはAmazonロジスティクスみたいな感じで専用の物流会社使ったほうが良いんじゃないかな?/物流の仕組みはあまり詳しくないからよく分からないんだけど。。」。実に正論です。ただ、アウトソーシングできるものはする、という姿勢を常としているように見えるアマゾンが一から物流会社を作ることは難しいのではないか、という見方が業界内にはあります。

「ねとらぼ」記事が言及している「はてな匿名ダイアリー」の2017年7月9日付エントリー「デリバリープロパイダの中の者だが人手不足で配送の現場はもうヤバイ」は、Aさんと同じくデリバリープロバイダの従業員さんの投稿ですが、これは匿名出版人の投稿「【再掲】アマゾンの「バックオーダー発注」廃止は、正味戦争の宣戦」と同様に、出版界を大いに震撼させている必読記事です。

従業員氏はこう証言しています。「皆さんはクロネコヤマトしか知らない人も多いですから、配送=日時通り届いて当たり前。不備があっても逐一、電話連絡があって当たり前…と思っていますよね。/残念ながら、それはヤマトだからこそ出来る芸当で、一般的な配送業者には真似出来ません。/ヤマトは、社員の教育、配送オペレーション、拠点の数まで全て完璧で、配送においてヤマトの横に出るものはいません」。「「時給300円で人を雇いまくれ。Amazonの荷物で稼ぐぞ!」/「ヤマトが逃げた今、うちらにスポットライトが当たり始めた」/等、社長は今の状況を喜んでいるようですが、現場は手取り12万(自爆あり)で休み無し14時間肉体労働、限界がもう来ています。疲弊しています」。

印象がとても悪いと感じるのは、こうした状況を恐らくは把握しているであろうにも関わらず、アマゾン・ジャパンのトップが対外的には次のように発言していることです。「配送遅延は実際に発生していたが、現在は解消した。まだスムーズになっていないところを直し、再発を防止したい」(「ITmediaビジネスオンライン」7月10日付、青柳美帆子氏記名記事「Amazon「プライムデー」、配送は「数カ月前から準備」」より、記者会見でのジャスパー・チャン社長の発言)。これはテレビニュースにもなっているのでご覧になった方もおられるかと推察しますが、「解消した」などとなぜ言えるのでしょうか。「そうした事実はない」が決まり文句の昨今の悪徳政治家かと見まごう発言に、利用者だけでなく、出版人も驚愕しています。もっと別の言い方はできなかったのでしょうか。いったいチャン社長は誰に向って「解消した」と宣言しているのか。

「弁護士ドットコムNEWS」7月11日付記事「アマゾンプライムデー、ドライバーたちは戦々恐々…「多くてさばけない」配達ミスも」では都内でプライムナウ(対象エリアでの買物が1時間以内に届くプライム会員向けサービス)の配送を担当する男性や、アマゾン利用客の主婦、ヤマト運輸のセールスドライバー、『潜入ルポ アマゾン・ドット・コム』や『仁義なき宅配 ヤマトVS佐川VS日本郵便VSアマゾン』の著者・横田増生さんらに取材しています。ここでも上記の記事で書かれていることを再度事実確認できます。ヤフーニュース版でのコップコメントにはこんな声があります。「普通の消費者だが、最近、アマゾンを使うとき、配送業者のことを一瞬考えるようになった。そろそろ考えて使いませんか。皆さん」。この言葉に尽きる気がします。

デリバリープロバイダ関連の記事では以下の配信に注目が集まっていることは周知の通りです。

先の青柳氏の記事でも指摘されている「消費者の「アマゾン離れ」を引き起こしかねない状況となっている」ことに対して、アマゾンが下請けへの無茶振りではなく自社で解決すると決めて根本的な対応を講じない限り、客もメーカーも現実的に「アマゾン離れ」へと傾かざるをえなくなるでしょう。アマゾンだけに頼る買い方や売り方から、複数の他の通販サイトを使い分ける選択の時代への変化の萌芽が表れつつあるように見えます。この件はアマゾンでのカート落ち問題と併せて、後日再度言及するつもりです。

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なお米国のアマゾン・コムにおける物流の現在を追った記事には以下のものがあります。米国版「WIRED」2017年7月11日付、Davey Alba氏記名記事「The Humans Making Amazon Prime Day Possible」の日本語訳版「アマゾンの「プライムデー」は、人力なくして成り立たない──配送の現場を支える人々に迫った」(2017年7月15日配信)。

また、英国アマゾンで始まったドローン配送サーヴィス「Prime Air」についての記事には以下のものがあります。英国版「WIRED」2016年12月14日付、Matt Burgess氏記名記事「Amazon has made its first Prime Air drone delivery in the UK」の日本語訳版「アマゾン、ついに「ドローン配送」を実施:英国で」(2016年12月14日配信)。

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by urag | 2017-07-19 09:11 | 雑談 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 17日

ハーマッハー追悼「One 2 many “Ent-fernungen” !」(増田靖彦)

One 2 many “Ent-fernungen” !
増田靖彦

鋭利かつ精緻、しかも強靭でたゆまざるハーマッハーの思考の営みが、こんなにも早く途切れてしまったのは本当に残念です。『他自律――多文化主義批判のために』(拙訳、月曜社、2007年)は、昨今の世界にはびこる文化の単一性や同質性を排他的に希求する傾向に対して、そうした試みの虚構性や欺瞞を暴き出した小著です。その主眼は、個々の文化が、これまでも、いまも、そしてこれからも、多様性や異質性においてのみ存立しうるということに注がれています。ただし、多様性や異質性といっても、それは、単に他の文化と共存しているという意味ではありません。そうではなく、個々の文化には自らを動揺させ、解体し、再形成に誘う働きが潜在しており、そうした働きとの連関においてしか、個々の文化はそれとして存立しえないという意味です。アフォーマティヴと命名されたこの働きは、デリダの憑在論やアガンベンの潜勢力と共鳴するのみならず、ドゥルーズ/ガタリの機械論にも通底する理論的射程をもち、現行の資本主義や民主主義への批判の倫理的手掛かりを与えています。ナンシーやラクー=ラバルトが敬意を惜しまなかったことにも示唆されているように、ハーマッハーの思考の営みは、時間の経過に伴い色褪せていくどころか、その逆に、絶えざる知的刺激をいや増しにして読者に迫ってくるでしょう。それをどのように読み継いでいくのかは、ひとえに私たちにかかっています。

個人的な思い出を申し添えさせてください。必ずしも適切な訳者でなかったかもしれない――常にそうした危惧を抱きつつ『他自律』を翻訳していました。というのも、近現代フランスの哲学思想を専門とする研究者である私が『他自律』の翻訳に取り組むことになったのは、「訳者あとがき」に記したように、偶然の連鎖によるところが大きかったからです。訳出に際して何度も困難に直面し、そのつどハーマッハーさんにご教示を乞いました。そんな不肖な訳者に、ハーマッハーさんはいつも懇切丁寧に説明してくれました。質疑応答はメールで、しかも事柄の性質上、訳者から連絡して開始されます。そうした状況にもかかわらず、ハーマッハーさんは大抵の場合、私からの質問に対して三日以内に解答を寄せてくれました。返信が遅れたときは、その理由とお詫びの言葉が添えられていて、かえってこちらが恐縮してしまったほどです。そのようにしてやりとりを続けるうち、私はしだいにハーマッハーさんから個人的な、そしてまさしくent-ferntな授業を受けている感覚を抱くようになっていきました。とても学ぶことの多い充実したひとときでした。そのような濃密な時間を過ごさせていただいたことに衷心より感謝の言葉を贈らせていただきます。ハーマッハーさん、本当にありがとうございました。

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by urag | 2017-07-17 07:17 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)