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2008年 04月 30日

イベントの反響:鵜飼哲×西山雄二「ジャック・デリダ、他者への現前」@ジュンク堂新宿店

08年4月24日にジュンク堂書店新宿店で行われた、鵜飼哲×西山雄二トークセッション「ジャック・デリダ、他者への現前――教育者として、被写体として、絆として」への感想を複数の参加者の方々から頂戴しました。まことにありがとうございます。当日は平日の夕方で雨模様の天気にもかかわらず、幅広い層のお客様(老若男女本当に幅広い)にお越しいただきました。あらためて御礼申し上げます。

西山雄二さんご自身によるレポートは、UTCPブログに掲載されています。4月25日付「【報告】共に旅するための技法―「ジャック・デリダ、他者への現前」」がそれです。また、会場の様子を写真撮影してくださった三村由佳さんからご提供いただいた写真をご紹介します。また、ジュンク堂書店新宿店人文書担当の阪根正行さんがイベントの様子を記事風にまとめてくださいましたので、あわせてご紹介します。阪根さんによるより詳細なイベントリポートは別エントリ「イベントリポート:鵜飼哲×西山雄二「ジャック・デリダ、他者への現前」@ジュンク堂新宿店」にてご紹介しています。

◆参加者様からの感想

昨日の講演会ですが、行ってみて、とても良かったです。鵜飼さん、西山さんお二方の「デリダから学んだこと」を聞いて、『条件なき大学』のなかでのデリダの言葉が、彼の顔、表情とともに新たに浮き上がってくるような感覚がしました。小さな場所に大勢の人が集まって、質疑応答なども出ていて、終わってしまうのが惜しく感じるほど濃密なひとときでした。

鵜飼さんによると、83年にデリダが初来日した頃にはまだ「大学論」というのは個々の哲学者の思想の一部というだけの認識しかなかったそうですが、大学の現状を考えると、どうやってその危機に抵抗していくか?ということを含め、デリダの語っていたことが強烈な危機感を帯びて目の前に現れているように思います。

言葉が押し潰され、見えなくさせられていくような動きをしている昨今、「全てのことを言う権利」をもつ<条件なき大学>をどのような形で実践の場に移行できるのか?ということ、そして、「全てのことを言う権利」は応答可能性、責任をもつことと表裏一体であること。そうした面においてデリダはとても忍耐強く、相手の話を聞ける人だったと鵜飼さんは強調されていました。

デリダとファティの旅についての西山さんのお話に、共に旅をすることは自分とその空間そのものが旅をすることであると仰っていたのですが、「場所において、その場所とともに旅をするには?」というその問いかけを受けて、あるテクストを読むということも、テクスト自体が旅をすることなのだということ、それが脱構築に結びついているというお二人の言葉がとても印象に残っています。

◆イベントの様子
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◆リポート「鵜飼哲×西山雄二トークセッション」《短縮版》

西山氏が持つ"L’Université sans condition", Jacques Derrida.(『条件なき大学』の原書)にいつも挟まれている1枚のポストカードの紹介からトークセッションは始まった。このカードの送り主は鵜飼氏。デリダについて二人で語らう今日という日がくることを、このポストカードは予め告げていたのだろう。

前半は「デリダの大学論」について語られた。鵜飼氏から「デリダの大学論」が、日本では長らく理解されてこなかったという指摘があり、それに続き西山氏から『条件なき大学』についての説明があった。特に興味深かったのは、『条件なき大学』の「場所がない」という性質について。「どこに行けば何があって、そこで講義を受ければ単位がもらえる」というような「場所」はない。そうではなく、例えばニューヨークやパリでシンポジウムを開催する。こちらから出向いて何かを「する」、「動く」という「余白」だけがある。このような大学の在り方が、人文学をどのように発展させるのだろうか。

後半は「デリダと映画」について語られた。とりわけ鵜飼氏による『言葉を撮る』という作品が持つ意義についての説明が印象的だった。デリダはゼミやシンポジウムを通じて毎週公衆の前に現れたが、自身の写真や映像が流通することには危機感を持っていた。だからこの映画、『デリダ、異境から』(『言葉を撮る』付録DVD)に出演することにも慎重だった。ただ、デリダにとって、ファティとの旅(映画制作、共著)は非常に深刻な意味を持っていた。デリダは49年にアルジェリアからパリに移住し、その5年後にアルジェリアで内戦が起こった。その時デリダはアルジェリアにいなかった。何故あんなことが起こったのか分からないし、ムスリムとユダヤ人とが幸せに共存することは可能だったとデリダは考えいたし、内戦の時、自分はアルジェリアにいるべきだったとも思っていた。だから、この問題はデリダのなかでずっと解決できないでいたのだ。こういった思いが、サファー・ファティというエジプト出身の女性監督との共著である『言葉を撮る』という作品には託されている。

トークセッションは終始これ以上ない雰囲気のなかで進められた。デリダについて深い友愛をもって静かに語る鵜飼氏。デリダへの溢れんばかりの想いを情熱的に語る西山氏。そんな二人の姿に魅せられて 熱心に耳を傾ける聴衆。全体が一つになった素晴らしいトークセッションであった。

最後に、担当者としてこのような奇跡的な場に同席できたことを大変うれしく思います。鵜飼、西山両先生、並びに駆けつけて下さったお客様に感謝し、この場を借りて厚く御礼申し上げます。(ジュンク堂書店新宿店人文書担当 阪根正行)
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by urag | 2008-04-30 21:43 | イベント告知 | Trackback | Comments(2)
2008年 04月 30日

イベントリポート:鵜飼哲×西山雄二「ジャック・デリダ、他者への現前」@ジュンク堂新宿店

08年4月23日にジュンク堂書店新宿店で行われた、鵜飼哲×西山雄二トークセッション「ジャック・デリダ、他者への現前――教育者として、被写体として、絆として」の記録(ダイジェスト版)を、人文書担当の阪根正行さんが作成してくださいました。以下に全文を掲載いたします。阪根さん、たいへんありがとうございました。

***

鵜飼哲×西山雄二トークセッション「ジャック・デリダ、他者への現前――教育者として、被写体として、絆として」《ダイジェスト版》

《序》

西山:"L’Université sans condition", Jacques Derrida. 僕はこの本にいつも1枚のポストカードを挟んでいます。2001年の秋に受け取ったポストカードで、送り主は鵜飼哲さんです。「今度、サンジェルマンの書店でデリダのトークイベントがあります。一緒に行きませんか?」とのお誘い。私はこのポストカードを手にサンジェルマンに出向き、トークショーに参加しました。そしてデリダからサインを頂き、握手をしました。これは私が持っているデリダのサインが入った唯一の本です。この思い出深い本をこの度翻訳し、『条件なき大学』として出版することができました。そして今日、ポストカードの送り主である鵜飼哲さんとトークイベントを催せたことを大変うれしく思います。

《デリダの大学論》

鵜飼:デリダの翻訳が日本で初めて出版されたのが(『声と現象』、『グラマトロジーについて』)、ちょうど私が大学に入学した70年頃で、もう30,40年読まれてきたことになります。ただデリダの大学論となると、まだちゃんと理解されていません。今回出版された『条件なき大学』が初めての大学論という訳ではなく、83年にデリダが来日した際のセミネールでも大学論(『他者の言語』所収)が語られていますが、当時は全く理解されなかったと思います。哲学者がその主要な仕事として大学論を語るということが日本ではまだ知られていなかったし、当時は69年の大学解体の名残が強く、デリダの大学論は穏健でポイントが分からないという感じでした。しかし、もう大学がどうしようもないという状況で、大学について毎日考え続けなければ大学で教育活動ができないという昨今において、デリダの晩年の著作である『条件なき大学』が翻訳されたことは非常に大きな意味があると思います。

西山:『条件なき大学』とタイトルにあるように、デリダの説く大学は無条件です。全てを言う権利が必要です。これは日本では馴染みのない考え方かもしれません。例えば、蓮實重彦さん、奥島孝康さん、阿部謹也さんといった大御所が大学の重要なポストに就いた際に「大学論」を発表したということはありますが、デリダの大学論はこれらとは全く異なります。そもそもデリダは伝統的な意味での大学教員ではありませんでした。助手であったり、大学院大学で教えていたりという人で、デリダの大学論は、大学の外部から「大学とは何か」「教育とは何か」を問うています。そして『条件なき大学』を我々が受容するうえで重要なポイントが3つあります。1つ目は、デリダが3年前に亡くなり、残されたテキストから「デリダがどう学んで、どう教えようとしたのか」を読み解き、我々が学ぶ、教える道筋を見出すこと。2つ目は、高等教育という「制度」について考えること。デリダは「脱構築」を提唱した人であり、この「脱構築」は教えるのが困難です。例えば、ニーチェの永遠回帰を考えるならば、永遠回帰を理解しただけでは駄目で、私がどのように永遠回帰するかをも含めてはじめて、永遠回帰なのです。「脱構築」も同様であり、ここで大切なのは、大学、ゼミナールという制度のなかで「脱構築」をいかに可能にするかを考えることです。3つ目は、「脱構築」は20世紀後半にアメリカへ渡り、イェール学派を形成し、またカルチュラル・スタディーズ、マイノリティ、フェミニズムといった学問と連動し、マクロ的な視点で人文学という学問を変容させました。このように人文学(制度)がどう変化したかを捉えること。以上が特に重要なポイントです。

鵜飼:「制度」ということで言えば、言葉もまた「制度」です。哲学というのはまず言葉(制度)の営みと言えます。しかし、"droit"という言葉に「権利」という意味と「まっすぐな」という意味があるのに反して、哲学という「制度」はそもそもまっすぐには行けません。回り道が必要です。また今日では、最良の制度が大学とは限りません。テレビや本(出版)、インターネットによって知の生産や流通が可能です。どのように哲学の「制度」を刷新していくかを考える必要もあるでしょう。また「脱構築」ということで言えば、デリダには「署名」の問題があります。ある行為に対して「誰がやったか」という固有名が一般的には求められる訳ですが、それを「匿名」という方法で回避する。「誰がやったか分からないけど生き延びる行為(出来事)」というのが「脱構築」に繋がっていくように思います。こういった痕跡を『条件なき大学』において感じることってありますか?

西山:はい。「場所がない」ということです。現在、私は東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/という研究機関に在籍していますが、ここの特長は、「どこに行けば何があって、そこで講義を受ければ単位がもらえる」というような「場所」がないことです。そうではなく、「ニューヨークやパリでシンポジウムを開催したり、こちらから出向いて何かをする」という「動く」ということ、「余白」だけがあるのです。これはデリダが創設したCIPH(国際哲学コレージュ)http://www.ciph.org/にも通じますし、これらが人文学をどのように発展させるかが問われています。『条件なき大学』というのは「場所がない」ということでもあります。

《デリダと映画》

鵜飼:デリダは2004年10月に亡くなりましたが、本当は秋からゼミを再開する予定でした。最後の10年間は定年退官していたこともあり、毎年、半年程ゼミをするだけでしたが、それまではずっと1年中ゼミをしていたのです。そのゼミの特長は誰でも自由に発表できるということです。自由だからひどい発表もあります。それに80年代はハイデガーのナチスとの関係が明らかになった時期で、ハイデガーを批判するためだけに発表する人が結構いたんですね。それもあからさまで次元の低い批判だったので聞くのもうんざりという発表だったのですが、どんな発表でもデリダは必ず聞くのです。デリダというのはそういう人でした。このようにゼミやシンポジウムを通じて、デリダは毎週公衆の前に現れました。海外へもよく行っていました。ドゥルーズに「飛行機哲学者」と言われたり、ブランショやジュネに「公演しすぎだ。もう少し落ち着いて本を書けよ」とも言われる程でした。そんなデリダですが、来日した83年頃は写真のない哲学者だったのです。81年にチェコで開かれたセミナーに出席した際の騒乱で当局に逮捕され、写真が新聞に載りました。それ以降、写真(イマージュ)を故意に隠すということはしなかったようですが、やはり写真、映画の場合は役者(被写体)としての映像が流通することには危機感を持っていました。だからこの映画、『デリダ、異境から』(『言葉を撮る』付録DVD)に出演することも慎重だったと思います。ただ、写真(イマージュ)について補足しておきます。映画のなかで、デリダのお母さんの映像が出てくるのですが、もうデリダそっくりなんですね。それで思ったのは、自分の顔は確かに自分の顔ですが、それはまたお母さんの顔でもあり、お父さんの顔でもあるということです。自分だけではない広がりを持っています。自分の写真というのは、特定の個人では決してないのです。

西山:僕は『デリダ、異境から』をパリに留学中テレビで観ました。これは旅の映画、ロードムービーですね。旅ということで言えば、先にマラブーとの著作があります。これはデリダが旅先からマラブーへ手紙を送り続けるというものですが、デリダが言う興味深いことに「共に旅ができるか?」という問いがあります。デリダは言います。「旅をする時は半眠半醒という感じで、そもそも自分とも旅をしているかさえあやしい。ましてや他人と旅なんてできるだろうか」。

鵜飼:デリダが共に旅をするという時、それは何かアクシデントがあれば一緒に死ぬかもしれないということでもあります。容易ではないんですね。そういうことを平気で考えてしまう人なんです。『デリダ、異境から』について続けましょう。この映画はアルジェリア、スペイン、パリ、アメリカと様々な場所が出てくるのですが、中でも「スペイン」の映像が重要だと思うんです。例えば、堀田善衛がゴヤについて書いていますが、その中でスペインは日本人には分かりづらいと盛んに言います。この分かりづらさは、デリダがスペインに見ているものにも通じます。スペインというのは植民国ですが、ごく一部の特権階級が栄えることはあっても、民衆に富が行き渡るという状況には程遠い。民衆はいつも貧しく、不毛な感じが漂っています。こういったスペインのどうしようもなさが、デリダの「脱構築」の原風景にあるように思うのです。

西山:さらに言えば、この映画ではスペインという説明もない。他に出てくるアルジェリアもパリもアメリカも、基本的に場所に対する説明は一切ありません。名を除いています。これはどういうことかと言えば、「場所に旅をするのではなく、場所と共に旅をする」ということです。例えば、ルーブル美術館に行った、エッフェル塔に行った、凱旋門に行ったというのは、フランス(場所)に旅をするということで、これでは駄目です。そうではなくて、「えっ、ここもフランスなの?」というような旅をすること、フランス自体も変わる、フランス(場所)も一緒に旅をするというのでなければならないのです。デリダが「共に旅をする」と言うならば、こういうことだろうし、これはテクストの場合も同じです。私がテクストを旅する(読む)と共に、テクストも旅をする(変わっていく)。「テクストと共に旅をする」。こういうのをまさに「脱構築」と言うのかもしれませんね。

《サファー・ファティ》

鵜飼:『言葉を撮る』の共著者であり、映画『デリダ、異境から』の監督であり、私の友人でもあるサファー・ファティを紹介させてください。彼女はエジプト南部で育ちました。政治思想で言えば、第四インターナショナル、トロツキズムの影響下にあります。彼女がエジプトの大学で体験したのは、当局の左翼一掃です。共産主義やトロツキズムが大学から一斉に排除されました。その際、左翼勢力を一掃するために当局が利用したのがイスラム原理主義であり、この運動の後ろ盾としてアメリカのCIA等も絡んでいました。9.11以前に、こういうことが中東諸国で起こっていたという事実を我々はまず知っておかねばなりません。このような状況下で彼女はエジプトからフランスに逃げ出してきたのです。そんな彼女は一方で、アラビア語とドイツ語が堪能であり、フランス語で論文を書くというような人です。ブレヒトの異化についての論文を書いていたように思います。また夫はスコットランド人なので家では英語を話し、シェイクスピアにも精通していて、そのいくつかは暗唱できるという類い希な才能の持ち主です。デリダは『言葉を撮る』をファティと共著で出版しました。共著というのは、ドゥルーズとガタリのように決して珍しいものではありませんが、デリダに関して言えば、共著と言えるのは本当にこの一冊ぐらいです。そしてデリダにとって、ファティとの旅(映画制作、共著)は非常に深刻な意味を持っているのです。デリダは49年にアルジェリアからパリに移住し、62年フランス市民権を得るとともにアルジェリアへは帰れなくなりました。またパリへ移住した5年後の54年にアルジェリアで内戦が起こりました。その時デリダはアルジェリアにいませんでした。なぜあんなことが起こったのか分からないし、フランスもアルジェリアを植民地にせずに、ただムスリムとユダヤ人とが幸せに共存できるようにすべきだったとデリダは考えていました。そして内戦の時、自分はアルジェリアにいるべきだったとも思っていました。だから、この問題はデリダのなかでずっと解決できないでいたのです。こういった思いが、サファー・ファティというエジプト出身の女性監督との共著である『言葉を撮る』という作品には託されています。

《あとがき》

すばらしいトークショーでした。デリダについて深い友愛をもって静かに語る鵜飼先生。デリダへの溢れんばかりの想いを情熱的に語る西山先生。そんなお二人の姿に魅せられて熱心に聴き入るお客様。終始全体が一つになっていました。担当者としてこのような奇蹟的な場に同席できたことをうれしく思います。ありがとうございました。(ジュンク堂書店新宿店人文書担当 阪根正行)

※ 上記のレポート(要約文)は拙者のメモをもとに作成しました。鵜飼先生、西山先生が実際に語られた言葉通りではありません。またニュアンスの取違いも多少あるかもしれません。ご了承下さい。(阪根正行)
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by urag | 2008-04-30 21:22 | イベント告知 | Trackback | Comments(5)
2008年 04月 26日

近刊チェック《知の近未来》:08年4月25日

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■「近刊チェック《知の近未来》」/ 五月
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取次大手の日販(日本出版販売株式会社)トーハンが運営する、「全国書店ネットワーク」が謳い文句のウェブサイト「e-hon」に、「もうすぐ出る本の予約」というたいへん有益な近刊情報コーナーがある。

http://www.e-hon.ne.jp/bec/SB/MikanTop

扱っているのは以下の18分野の近刊である。小説・エッセイ/ノンフィクション・教養/文庫・新書/思想・心理・歴史・教育/ビジネス・経済・社会/Web/コンピュータ/サイエンス・テクノロジー/児童/コミック・アニメ・ゲーム/テレビ・タレント・写真集/映画・音楽・サブカルチャー/趣味・娯楽/スポーツ・格闘技/生活・料理・健康・ダイエット/語学・就職資格/学習参考書/楽譜。

ジャンル分けそのものの妥当性はしばらくおくとしよう。ここで紹介されている書目は、出版社から提供されたデータを元にしている。内容紹介文がなかったり、書誌情報が欠けていたり、重複登録されていたりと、細かい問題がないわけではない。また、すべての出版社が漏れなく近刊情報のデータ提供に参加できているわけではないから網羅的な目録でもない。しかしそれでも日本最大の近刊書データベースのひとつであると言っていいだろう。

ちなみに同じ日販系列のウェブサイト「本やタウン」でも近刊情報コーナーがあり、こちらの分類は上記とは少し異なっている。

http://www.honya-town.co.jp/hst/HTNewpub?week=0&genre=1

文芸/新書/社会一般/資格・試験/ビジネス/スポーツ・健康/趣味・実用/ゲーム/芸能・タレント/テレビ・映画関連/芸術/哲学・宗教・心理/歴史・地理/社会科学/教育/自然科学/医学/工業・工学/コンピュータ/語学・事辞典/学習参考書/児童図書/全集。

以上23分野は「書籍近刊情報」として括られており、文庫やコミックは別立てになっている。「本やタウン」は基本的に日販系リアル書店の集合体であり、サイトから本を予約することはできない。

日販と同じく取次大手のトーハンがバックアップしているオンライン書店「セブンアンドワイ」にも予約コーナーはある。

http://www.7andy.jp/books/reserve/

こちらは21分野の「本のカテゴリ」を設定している。ビジネス、経済/就職、資格/語学、辞書/コンピュータ/理学、工学/医学、薬学、看護/法律、社会/歴史、心理、教育/芸術/生活/趣味/地図、ガイド/子ども/学習参考書/文芸/エンターテインメント/アイドル写真集/コミック、アニメ/ゲーム攻略本/楽譜、音楽書/関連グッズ。

日販系との違いがここに表れていて興味深い。上記の21分野はさらに細分化されている。たとえば、大分類「歴史、心理、教育」の下位には次のような25の中分類がある。

歴史文庫/人文全般/心理一般/発達心理/臨床心理/カウンセリング/精神病理/社会心理/哲学、思想/宗教/宗教、神道/宗教、仏教/宗教、キリスト教/文化、民俗/地理/歴史/世界史/日本史/図書館、博物館/教育全般/教育一般/学校教育/保育/教育問題/教育関連就職試験。

教育全般と教育一般の違いがどこにあるのかよく分からないが、それはともかく、この中分類にはさらに下位の分類がある。たとえば、中分類「哲学、思想」の下位には、次のような26の小分類が配列されている。

哲学、思想全般/哲学、思想一般/辞典、事典/哲学史/ギリシャ、ローマ哲学/中世思想/ドイツ観念論/フランス啓蒙思想/古典社会思想/東洋思想/日本思想/倫理学/言語学/記号論/論理学/形而上学/認識、観念論/プラグマティズム(合理主義)/現象学、実存主義/構造主義、ポスト構造主義/現代思想/フーコー/自然哲学、宇宙論/文化、技術哲学/自然科学読物/哲学、思想その他。

西洋思想に比べると、東洋思想や日本思想はあまりにも大雑把なくくり方だが、これは今に始まった話ではないので、脇におく。個人名ではフランスのミシェル・フーコーだけが突出しているが、そこも当面は突っ込まないでおくとしよう。

さて、セブンアンドワイでは、上記のような小分類まで降りて選択しないと書誌情報が見れないわけではない。大分類でも中分類でも見れる。シンプルさではe-honのほうがまさっているように見えるし、扱われている書目も、私個人はセブンアンドワイよりe-honのほうが好みが多かった。これは、専門書への重点の置き方がトーハンと日販で異なるためかもしれない。

このほかにも、各種オンライン書店では予約コーナーが存在するが、上記の二社や版元各社の近刊予告を主な参照先にして、今月から毎月一回、注目の近刊書をピックアップしていこうと思う。

かつての連載「現代思想の最前線」では主に洋書新刊を取り上げ、続く「ユートピアの探求」では本の情報ではなく一出版人の肉声を綴ろうとしてその難しさにしばしば悩んだ。再び新刊の紹介に戻ろうかとも思ったけれど、それはやめて、今回の新連載を思いたった。近刊の情報収集は仕事上も一読者としても必要なので、継続していけそうな気がする。というか続けねばなるまい。

今月は前口上が長かったので、注目の近刊情報の紹介は簡単に済ませなければならない。来月つまり08年05月の新刊を、版元別に見てみる。大手版元の情報がほとんどだが、それは中小の版元の場合、近刊情報が間際にならないと提出できないことが多いからだろう。以下の新刊はほとんど大手のものに偏っているのが個人的には気に食わないが、現状では仕方がない。

まずは講談社の来月の新刊。価格はすべて税込予価である。

05月12日発売予定
水野和夫+島田裕巳『資本主義2.0 宗教と経済が融合する時代』1,575円

05月14日発売予定
中沢新一『対称性人類学(2)狩猟と編み籠』2,100円
大澤真幸『〈自由〉の条件』2,730円
森山大道『S' Moriyama Daido』通常版6,825円 特別限定版27,300円

まず『資本主義2.0』だが、版元の宣伝文句はこうだ。「次の500年を支配する経済の絶対ルール! 1995年に世界は変わった。「資本主義2.0」では、宗教と経済が渾然一体となる。それぞれの第一人者が、日本人がまだ気づいていない経済理論の激変を語る!」と。真っ先に連想するのは、ブッシュ政権下のアメリカのネオコンと福音派の結合。500年も支配されるのは困りものだけれども、どこか「本当にそうなるかも」という心配はある。

かたや、中沢さんの近刊は「10万年の精神史を読む」と宣伝されている。さすがに人類学は桁が違う。大澤さんの近刊は「大澤社会学の集大成。堂々の1000枚!」と。昨年刊行されて反響を呼んだ大著『ナショナリズムの由来』とともに、長く読まれそうな予感。森山さんの写真集は「スポーツの聖地」を巡って撮影されたものとのこと。A3サイズの大判。次に岩波書店。

05月15日発売予定
白楽晴『朝鮮半島の平和と統一 分断体制の解体期にあたって』2,415円

05月28日発売予定
ジュディス・バトラー+ガヤトリ・スピヴァク『国家を歌うのは誰か? グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』1,785円
スピヴァク『スピヴァクみずからを語る 家・サバルタン・知識人』2,415円

日本の論壇でもつとに知られている韓国の批評家白楽晴の半島統一論は、クレインから01年に刊行された『朝鮮半島統一論 揺らぐ分断体制』以来。続いてスピヴァクはインタビューと対談の二冊同時発売。バトラーとの対談本が特に楽しみ。対談本は竹村和子訳、インタビュー本は大池真知子訳。未訳だが、昨年末についに刊行されたスピヴァクの『他なる諸アジア』もおそらくはどこかが版権を取っていることだろう。

http://www.blackwellpublishing.com/book.asp?ref=9781405102063

このほかに岩波書店で気になった来月新刊は、単行本が今福龍太『ミニマ・グラシア 歴史と希求』、富山太佳夫『英文学への挑戦』、文庫本ではスタニスラフスキー『芸術におけるわが生涯(上)』(蔵原惟人・江川卓訳)、シュレーディンガー『生命とは何か 物理的にみた生細胞』(岡小天・鎮目恭夫訳)、トクヴィル『アメリカのデモクラシー 第二巻(下)』(松本礼二訳)。スタニスラフスキーの本は、未来社のロングセラーでもある彼の自伝が岩波で新訳されて単行本として83年に刊行されていたものの文庫化。シュレーディンガーの本は古い新書からのスイッチ。

他版元でまだまだ注目書があるので、一気に並べてみると、

04月28日 糸井重里『糸井重里の最後の「広告論」』日経BP社 1,260円
05月02日 雨宮処凛『雨宮処凛の闘争ダイアリー』集英社 1,470円
05月13日 川本三郎+鈴木邦男『本と映画と「70年」を語ろう』朝日新聞出版 756円 →値段からすると新書か?
05月20日 ジョセフ・スティグリッツ『世界を不幸にするアメリカの戦争経済 イラク戦費3兆ドルの衝撃』徳間書店 1,785円
05月21日 ジェイン・ジェイコブズ『壊れゆくアメリカ』日経BP社 1,890円
05月23日 デイヴィッド・ストローン『地球最後のオイルショック』新潮選書 1,575円
同日 チェ・ゲバラ『ゲバラ世界を語る』中公文庫 760円
05月26日 左巻健男『地球を救う数字』小学館 1,365円
05月28日 古川康一+向井国昭『数理論理学』コロナ社 2,940円 

がある。このほかには下旬刊行予定の池谷裕二・木村俊介『ゆらぐ脳(仮)』(文藝春秋、1,300円)、文庫本ではちくま文庫のシリーズ『ちくま日本文学』の第15巻「柳田國男」と第16巻「稲垣足穂」、ちくま学芸文庫の『橋爪大三郎の社会学講義 入門編』や木村敏『自分ということ』などに注目。いずれも05月08日発売だ。また、その翌日09日発売の河出文庫に、文庫本オリジナル編集のスラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東 革命とテロル』がある。長原豊訳。ジジェクの文庫本は、06年のちくま学芸文庫『否定的なもののもとへの滞留』以来。

最後に触れなければならないのは、昨日発売されたばかりのNHKブックス別巻『思想地図 vol.1 特集・日本』(東浩紀+北田暁大編、1,575円)と、来月にかもがわ出版から創刊される「超左翼マガジン」『ロスジェネ』(1,365円)だろう。

前者の創刊趣旨はこう述べられている。「思想本来の力を取り戻せ! 思想はいま、本当に沈滞しているのか? 現実への性急な処方箋でもなく、イージーな人生論でもない、思想本来の力とは何か? ゼロ年代の思想を俯瞰し、来るべき10年代の知的な羅針盤を作るために、「思想地図」創刊! 創刊号の特集は「日本」。従来のイデオロギーや論壇的位置取りに捕らわれず、現代日本の課題に真摯に向き合い、新しい読者を獲得しつつある若手論客の論文を多数収載!」

業界の反応としては、たとえば双風舎さんのブログ「双風亭日乗」04月20日付のエントリー「北田さん、東さん、がんばれ!」をご参照いただきたい。また、創刊プレイベントの感想が、enka07さんのブログ「烟霞余録」の07年11月28日付エントリー「東浩紀・北田暁大対談」で読める。

http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2008/04/post_082f.html →書影付。
http://enkayoroku.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_25b5.html

一方、『ロスジェネ』の創刊意図と受け取れる「ロスジェネ宣言」にはこうある。「就職超氷河期(1990年代という「失われた十年」)に社会へと送り出された20代後半から30代半ばの私たちは、いまだ名づけられ得ぬ存在として日々働き暮らし死んでいきつつある……、その数20,000,000人。「ワーキングプア」「フリーター」「ひきこもり」「ニート」「うつ病世代」「貧乏くじ世代」「負け組」「下流」「ロストジェネレーション」……。世間が私たちをさまざまなレッテルで一括りにする。しかし、私たちは、「レッテル貼り」によって目の前にある問題や矛盾が隠されたり、未解決のまま先送りされることを望まない。〔…〕全国のロスジェネ諸君! 今こそ団結せよ!〔…〕いま『ロスジェネ』は、ここに、左翼と現実とをつなぐ空間を設定する」。

本誌の詳細については版元の特設コーナーをご参照いただきたいが、『ロスジェネ』と『思想地図』の両方に萱野稔人氏が顔を出しているのが興味深い。

http://www.kamogawa.co.jp/moku/syoseki/0184/0184_top/0184.html

かなり駆け足の列記になり、メモ以外の何物でもなくなってしまったけれども、これから毎月、情報の濃淡をつけながら、近刊書から見る近未来=来月の書店店頭での知の風景を先取りしてみたい。情報の洪水の中で、たとえごくわずかなりとも世間の同好の士の便宜に適えば幸いに思う。


◎五月(ごがつ):某出版社取締役。ブログ→ http://urag.exblog.jp
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◆追記[08年4月26日]:まったく空恐ろしい間違いだった。e-honは日販ではなくトーハンが運営していることをメルマガ読者氏から指摘していただきました。関係者ならびに読者の皆様に深くお詫びして訂正します。
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by urag | 2008-04-26 00:02 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(1)
2008年 04月 24日

http://www.youtube.com/666

YouTube username:666 親版のニコ動仕様のほうが長いけれど分かりやすい気がする。
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by urag | 2008-04-24 21:16 | 雑談 | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 24日

ネグリ&ハートの原点『ディオニュソスの労働』ついに刊行、人文書院より

a0018105_14373744.jpg弊社より刊行している『芸術とマルチチュード』の著者であるアントニオ・ネグリが、『〈帝国〉』(以文社)や『マルチチュード』(NHK出版)に先駆けて、マイケル・ハートとタッグを組んで出版した、二人の原点と言うべき『ディオニュソスの労働』がついに人文書院から発売されました。訳者あとがきの一部が下記のリンク先にて読めます。

ディオニュソスの労働――国家形態批判
著:アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート 訳:長原豊+崎山政毅+酒井隆史
人文書院 08年4月 定価6,090円 A5判上製480頁 ISBN978-4-409-03074-5

帯文より:三十年強の長きにわたるネグリ思想の一大集積。『〈帝国〉』や『マルチチュード』で展開される現在の基本的な問題設定のすべてがここにある。並ぶものなきユニークさにみちた、さまざまな次元での〈革命〉をめぐる、真摯な思考のオーケストレーション。

版元紹介文より:『帝国』以前の最重要著作、いよいよ登場。共和制の問題、社会的賃金の問題、国家の枠組みを超克する「構成的権力」の諸問題等々、また「マルチチュード」「非物質的労働」等々の論点など、後に『〈帝国〉』や『マルチチュード』で展開されることになる基本的な問題設定・論点のすべてがすでに本書で提示されており、現在のネグリのスプリングボードともいえる最重要な著作である。「『〈帝国〉』、『マルチチュード』を『資本論』に喩えるとすれば、本書はその二冊に対する『経済学批判要綱』をはじめとした草稿群と位置づけることができる」(訳者あとがきより)。

原書:"Antonio Negri & Michael Hardt, Labor of Dionysus : A Critique of the State-Form", Minneapolis: University of Minnesota Press, 1994.

訳者:
長原豊(ながはら・ゆたか):1952年生。法政大学教授。『天皇制国家と農民』(日本経済評論社,1989)、ジジェク『迫り来る革命』(岩波書店,2004)など。
崎山政教(さきやま・まさき):1961年生。立命館大学教授。『サバルタンと歴史』(青土社,2001)、『思考のフロンティア 資本』(岩波書店,2004)、『異郷の死』(共編,人文書院,2007)など。
酒井隆史(さかい・たかし):1965年生。大阪府立大学准教授。『自由論』(青土社,2001)、『暴力の哲学』(河出書房新社,2004)、ネグリ&ハート『〈帝国〉』(共訳,以文社,2003)など。

目次:
謝辞 
序――ディオニュソス
 

第一章 批判としてのコミュニズム
恐竜/コミュニズム/労働/主体/ポストモダン/さまざまなマルクス主義/道程 - 経路

第二章 ケインズと国家の資本主義的理論
近代国家の時期区分――基本的契機としての一九二九年/ケインズと一九一七―二九年という時代――十月革命と資本主義の構造への衝撃についての理解/ケインズにおける政治から科学へのシフト――世界大恐慌と資本内部の労働者階級/資本主義的再編と社会国家

第三章 憲法における労働
1 問題設定への序論:労働の憲法的な社会的妥当性  社会的資本と社会的労働  第一の帰結――ブルジョワ的範疇としての労働
第二の帰結――資本の科学  法治国家と社会国家/2 労働の憲法化過程:資本主義的発展における労働力の憲法化の歴史過程  第一の司法的帰結――諸源泉のシステムの危機  第二の司法的帰結――法の主権理論の危機  社会国家における権利 - 法の具体的産出様式のあり様  社会国家の生産的源泉/3 労働の憲法化のモデル:労働の憲法化からそのモデルへ  権利 - 法の一般理論とモデル構築  抽象的労働のモデルの具体化の諸条件  資本の啓蒙  社会国家/4 ブルジョワ的権威理論モデルの批判  弁証法の慢性疾患  社会的資本における従属  資本の社会的組織化  諸矛盾から敵対へ  結論という装いのもとで――労働者主義的批判は可能だろうか?

II
第四章 コミュニズムの国家論
修正主義の伝統とその国家概念/問題を位置づける――マルクス的アプローチ/理論の現段階――ネオ・グラムシ派のヴァリエーション3
問題の再設定――分配から生産へ/国家の構造的分析の諸展開――組織化のメカニズム/国家の構造的分析の諸展開――危機論における国家/一つの挿話――ブルジョワ理論の逃げ口上、ほのめかし、自己批判/問題の再提起――国家、階級闘争、そしてコミュニズムへの移行

第五章 国家と公共支出
総括的な問題構成――解釈の諸条件と現実の諸条件/第一の分析的アプローチ――生産的労働の社会的統一に向かう傾向の評価要素/第二の分析的アプローチ――社会的蓄積、国家管理、正統性の資本主義的基盤の諸矛盾をめぐって/イタリアにおける公共支出の危機/危機と再構造化の時期における新たなプロレタリア的主体/公共支出の蓄積と正統化諸機能のさらなる考察/制度的労働運動のイデオロギー的崩壊――改良主義と抑圧/新たな戦略のための古い戦術

III
第六章 ポストモダン法と市民社会の消滅
ロールズと革命/ポストモダン法と憲法〔=政体構成〕における労働の亡霊/システムの精髄――反照と均衡/弱い主体と回避の政治/ネオリベラリズムの強い国家――八〇年代における危機と革命/共通善と共同体の主体/国家の自律――道徳的福祉/国家への社会の実質的包摂

第七章 構成的権力の潜勢力
現実リアルの社会主義の危機――自由の空間/ポストモダン国家の逆説/ポストモダン国家の社会的基礎と現存するコミュニズムの前提条件/近代性内部のさまざまなオルタナティヴについての考察/存在論と構成/暴力の実践的批判/ポストモダン国家の規範的展開と強化/法的改良主義の幻想/構成的主体の系譜学

原註/訳者あとがき/引照文献/索引

***

フェリックス・ガタリにささげられた本書について、初出をもう少し詳しく見ていきますと、次のようになります。まず第I部の第一章はネグリ+ハートの書き下ろし原稿です。同じく第I部の第二章、第三章はぞれぞれネグリが60年代に執筆したもので、前者(第二章)は72年にフェルトゥリネッリより刊行された著書『労働者と国家』から採られたものです。後者(第三章)は、第II部の第四章、第五章とともに、77年にフェルトゥネッリより刊行されたネグリの著書『国家形態』から採られたもので、この二つの章は70年代に執筆されました。そして、第III部を構成する第六章と第七章はネグリ+ハートの書き下ろし原稿。

ネグリの著書は、英米で刊行された単行本としては、89年に二つの論文集『奪回された革命』と『転覆の政治学』(現代企画室)が、そして91年に『マルクスを超えるマルクス』(作品社)と『野生の異例性』(作品社より近刊)が刊行され、そのあと94年にハートとの共著『ディオニュソスの労働』が刊行されます。そして2000年に刊行された『帝国』以降は、ますますさかんに訳されています。

英米圏でネグリの著書が丸ごと翻訳出版されたのは79年のアンソロジー『労働者階級の自律と危機』に収められた『支配とサボタージュ』が初めてだったろうと思います。上記アンソロジーが出版された年の春、ネグリは逮捕されます。『支配とサボタージュ』はごく小さい本で、イタリアのフェルトゥリネッリから刊行されたのはアンソロジー刊行の前年、78年です。日本語訳は、小倉利丸さんによる部分訳が『現代思想』83年3月号「増頁特集=マルクスと現代思想』に収録されています。全体はまだ訳されていないのが、残念です。どなたかお訳しになりませんか。

***

なお、人文書院の4月21日現在の復刊予告によれば、下記のスケジュールで復刊予定とのこと。いずれも待望の書目ばかり。特に、第II巻のみの在庫だった『結合の神秘』第I巻は古書価が2万円近かったこともあり、朗報。ユング・コレクションではこのほか『アイオーン』などが古書では『結合の神秘』同様に高価。学生が買える値段ではないだけに、重版が待ち望まれていると思われます。

6月 『シュルレアリスムと絵画』 A・ブルトン 予定価格10000円
6月 『聖書象徴事典』 M・ルルカー 予定価格5500円
8月 『ユングコレクション5 結合の神秘Ⅰ』 予定価格6200円
今秋 『スピノザ 異端の系譜』 Y・ヨベル 予定価格7600円  
今秋 『恋する虜』 J・ジュネ 予定価格7600円
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by urag | 2008-04-24 14:17 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 21日

竹内てるよの幻の詩集『美しき時』復刊、オフィスエムより

弊社より詩文集『静かなる夜明け』を刊行させていただいている作家の竹内てるよさん(1904-2001)の幻の詩集『美しき時』が、長野市の出版社オフィスエムさんから発売されました。
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オフィスエムさんのご説明によれば、この詩集はもともと「昭和36(1961)年10月10日、蛍草会出版部(山梨県大月市猿橋町)より発行された」もので、「一人息子である徹也さんの三周忌に、周囲の人たちの善意やプリント印刷の喜多井仁さんのご尽力によって出版されたもの」だそうです。発行所の所在地や奥付に付された百番台のナンバリングから推測して、てるよさんを慕う近隣の人々によって制作されたごく小部数の限定出版物だったろうと思われます。

それが今回、てるよさんのお知り合いだった小倉広子さんを発行者として、実に約半世紀ぶりに新装復刻されました。半世紀前の親本は、国会図書館に所蔵されておらず、古書市場でも見かけることのない、たいへん珍しいものです。収録作は以下の通りです。

序詩/真実/ひとりの時/白梅/冬/坊やよ お前を生かすために/わかれの朝/秋/頬/わたくし/白梅と女/春の静寂/銀鱗/若芽/サルビア/ほたるぐさ/花と微風/秋来る/馬/静かなる朝/誕生の日/生命/あぶれ/粉雪/雪の上の花/女性の幸/むかえ火/ゆきうさぎ/流雲/萩咲く/生きたるは/一つの声/蓮/まんさくの花/黄菊/いのち新し

この内容を見る限りでは、定番詩集『生命の歌』(1941年、第一書房/1946年、南北書園/1949年2月、白林社/1949年12月、甲陽書房/1951年、かんらん社/1983年、渓文社)に収録されている代表作とさほど大きくは変わらないのですが、独自の構成が新鮮で、特に、掉尾を飾る「いのち新し」は、『生命の歌』には収録されたことのないたいへん美しい詩篇です。

私たちは いのちの尊厳を愛し
生きるに難しい今の現象にあわてず
信ずべきを信じ まっすぐに生きてゆく
そのことのいとなみに しっかり立とう
(「いのち新し」より)

新たに加えられた挿画も装丁も美しく、またカラー印刷の瀟洒なしおりが付いています。手元に置いて日々愛読するも良し、親しい友人に贈るも良しの、素晴らしい本になっています。購入は全国書店のほか、オフィスエムさんのウェブサイトからも可能です。ぜひご利用下さい。

美しき時 竹内てるよ詩集
竹内てるよ:著
オフィスエム:発売 小倉広子:発行 08年4月 定価1,575円 46判上製フランス装108頁 ISBN978-4-900918-93-1

「おぼえているでしょうか、あの時が来たのです、いつか私があなたに語った、美しい時が来たのです、人が最も真実でなくてはならない、美しい時が来たのです」。希望の光をつむぐ詩人・竹内てるよ。女性であることの愛と哀しみと慈しみの世界……。47年の歳月を経てよみがえった珠玉の詩集。装幀:石坂淳子、挿画:たけだみよこ。しおり付き(画:たけだみよこ)。
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by urag | 2008-04-21 12:22 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 18日

ブックフェア「大学の未来、教養の行方」@東大生協駒場

弊社より先月刊行したジャック・デリダの『条件なき大学』を中心としたブックフェア、「大学の未来 教養の行方――大学はなぜ必要か? 何のための教養か?」が東京大学生協駒場書籍部で好評開催中です。フェアの店頭写真や、ブックリストが、『条件なき大学』の訳解説者である西山雄二さんの記事によって、UTCPブログで公開されています。同様のフェアは、東京大学生協本郷書籍部や、北海道大学生協クラーク店、東北大学生協文系店で開催されていると聞いています。学生の皆さんにご高覧いただけたら幸いです。

さて、先般告知させていただいた通り来週木曜日、08年4月24日夕方に、ジュンク堂書店新宿店にて、ジャック・デリダをめぐる鵜飼哲さんと西山雄二さんのトークイベントが行われます。日本のデリダ受容史における第二世代の鵜飼さんと第三世代の西山さんが、デリダとの出会い、交流、別れを、ざっくばらんに語る予定です。皆様のお越しをお待ちしております。

◎鵜飼哲×西山雄二トークセッション「ジャック・デリダ、他者への現前――教育者として、被写体として、絆として

日時:2008年4月24日(木)18:30~
会場:ジュンク堂書店新宿店8階喫茶
入場料:1,000円(1ドリンクつき)
定員:40名
受付:7Fカウンターにて。電話予約承ります。TEL.03-5363-1300

内容:脱構築の哲学者ジャック・デリダが死去して三年半が経とうとしています。もはや私たちは彼が生きて語る姿を見ることはできません。しかし彼の肉声は、彼の講義を受けた者たちの記憶と、彼の自伝的映画のうちに、残されています。彼はどんな教育者だったのでしょうか。また、彼は被写体としてどう振舞ったのでしょうか。つまり、デリダの《他者への現前》とはいかなるものだったのでしょうか。彼と間近に接した鵜飼哲さんと西山雄二さんに語っていただきます。ジャック・デリダ『条件なき大学』(月曜社)および、デリダ+ファティ『言葉を撮る』(青土社)刊行記念。

講師紹介:
鵜飼哲(うかい・さとし)1955年生まれ。一橋大学言語社会研究科教授。著書に『応答する力』(青土社)、『抵抗への招待』(みすず書房)、『償いのアルケオロジー』(河出書房新社)など。訳書にデリダ『盲者の記憶』、『生きることを学ぶ、終に』(以上、みすず書房)、ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(現代企画室)など。

西山雄二(にしやま・ゆうじ)1971年生まれ。東京大学特任講師およびグローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」プログラム・マネージャー。著書に『異議申し立てとしての文学―モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房)。訳書にカトリーヌ・マラブー『ヘーゲルの未来―可塑性・時間性・弁証法』(未來社)など。
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by urag | 2008-04-18 21:19 | イベント告知 | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 17日

サイン本の直販コーナーを開設しました

東京都写真美術館での「森山大道展:I. レトロスペクティヴ1965-2005/ II. ハワイ」(08年5月13日~6月29日)の開催を記念して、弊社公式ウェブサイト内にサイン本の直販コーナーを開設しました。扱っているアイテムは以下の通りです。

1) 森山大道サイン入り『ハワイ』+大竹伸朗アートワークによる「ハワイ」ポスター2種類セット 12,300円(税込) ※大竹さんのサインは入っていません。
2) 大竹伸朗アートワークによる「ハワイ」ポスター2種類セット 6,000円(税込) ※大竹さんのサインは入っていません。
3) 森山大道サイン入り『ハワイ』 6,300円(税込)

また、蔵出し貴重本として以下の3点も販売します。在庫僅少につき品切の際はご容赦下さい。

4) 森山大道サイン入り『新宿』 7,560円(税込)
5) やなぎみわサイン入り『White Casket』ナズラエリ版(海外版) 12,600円(税込)
6) 川田喜久治サイン入り『地図』 12,600円(税込)

皆様のご利用をお待ちしております。
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by urag | 2008-04-17 22:07 | 販売情報 | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 12日

全景カタログ刊行記念、大竹伸朗サイン会@青山BC本店

大竹さんの『全景』展カタログの刊行記念サイン会が、明晩、青山ブックセンター本店で以下の通り行われます。

大竹伸朗サイン会――『全景SHINRO OHTAKE 1955-2006』 カタログ刊行記念

日時:08年4月13日(日)18:00~19:00(ご案内開始17:50~)
会場:青山ブックセンター本店内・洋書コーナー
参加方法:『全景』カタログをお持ちのお客様を対象としたサイン会です。本店および六本木店にて、ご希望のお客様に整理券を配布いたします。サイン会には本書と整理券を御持参ください。サイン会進行は整理券の番号順でのご案内となります。整理券が無くても時間内に本書を御持参いただければ、サイン会にご参加いただけます。そのさい、ご案内は整理券ご持参のお客様が優先となります。

お問い合わせ電話: 青山ブックセンター本店 03-5485-5511(10:00~22:00)
※受付時間は、お問い合わせ店舗の営業時間内となります。御注意下さい。

<イベント内容>
『大竹伸朗 全景 1955-2006』を対象とした、大竹伸朗さんによるサイン会。

<書籍紹介>
『大竹伸朗 全景 1955-2006』
308×230mm / 約1,200頁 / 約6kg / CD2枚付 / ハードカバー / 特製ケース / 9,450円(税込)

[付録CD]
・ 遠隔演奏ノイズバンド《ダブ平&ニューシャネル》の演奏を収めた『拾熱』
・ 展覧会場での演奏を収録した音源

東京都現在美術館の全フロアを使って展示された大竹伸朗の大回顧展「全景 1955-2006」展から一年余。展覧会の全貌をおさめたカタログが、とうとう書店店頭に現れた。約2000点の全作品を掲載。1151ページ。重量6㎏。自動演奏マシーン「ダブ平&ニューシャネル」CD2枚付き。これは一体「本」なのか。大竹伸朗という一人の人間の作り出したもの――幼少時の漫画絵から原型をとどめないほど貼り込みされたスクラップブック、学生時代の油絵、写真、ドローイング、エッチング、木の箱に様々なものが塗りこめられた立体作品、遠隔演奏マシーン「ダブ平&ニューシャネル」音源CD――等々、51年間、休むことなく作り続けられた痕跡が1000枚を超えるページに刻まれ、見る者を圧倒する。

発行: グラムブックス
編集: 東京都現代美術館 / グラムブックス / ベイスギャラリー
テキスト: 大竹伸朗 / 湯浅学(音楽評論家)/ 薮前知子(東京都現代美術館学芸員)
資料編作成: 岡村恵子(東京都現代美術館学芸員)
ブックデザイン: 池田進吾(67)

<プロフィール>
大竹伸朗 (おおたけ しんろう Shinro Ohtake)
1955年 東京生まれ。画家。 ‘82年初個展開催以来、絵画、立体作品、版画、コラージュ、印刷物、絵本、写真、エッセイ、山塚アイや内橋和久との音楽活動など幅広く活動。作品集・著書に『SO:大竹伸朗の仕事 1955-91』(UCA)、『倫敦/香港1980』(UCA)、『UK77』(月曜社)、『ジャリおじさん』(福音館書店)、『既にそこにあるもの』(ちくま文庫)、『テレピン月日』(晶文社)、『ネオンと絵具箱』(月曜社)など多数。山塚アイとの共著『ドンケデリコ』(河出書房新社)が増補新装発売。
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by urag | 2008-04-12 13:19 | イベント告知 | Trackback | Comments(2)
2008年 04月 12日

後日談:東大ネグリイベントへの様々な感想と異論

若い読者のための注釈:「トラメガ」とは、トランジスタ・メガフォンの略。街頭演説や、イベント会場、駅構内などの混雑した場所で、音声を効率的に聴衆に聞き届けてもらうため、話者の肩に掛けたりして使用できる軽量の拡声器のことである。小さいわりにうるさいのが特徴。中型で2万円以上、大型では10万円以上する。松平耕一さんのブログに掲載されている写真を参照されたい。

***

姜尚中マジギレでトラメガを破壊!!」@ziprockerさんブログ「マウスパッドの上の戦争。」08年3月29日

今日は東大のイベントだったのだが、珍しく、あの、大人しくて知的でスマートな姜さん(姜尚中)がキレていた。と、いうのも、「早稲田の地下部室と東大の駒場寮、奪われたこの恨み、忘れずでおくべきかあああ!!!」という、あの、学生運動の亡霊達がやってきて、「帝国大学が足元で大衆やら民衆やら学生を弾圧しておいて、何がマルチチュードじゃああ!!!」と、怒り狂っていたからだった。彼らの主張によればこのイベントに出ている某教授は東大駒場寮の廃寮と抵抗運動に対して、酷い弾圧を加えた一味の一人らしい。亡霊達は得意の立て看板と、トラメガ、ビラで会場を威圧し、邪魔だと言われると「自由な言論の弾圧だ!」と、涙を流した。ところがあまりにも騒ぎ立てるので、さすがの亡霊にもぶちキレた姜さんが、トラメガを放り投げ、ガ、チャン、と。「あ、あ、これは暴力だ!」と、少しビビリつつ、弱々しく騒ぎ立てる亡霊達。

あらら・・・

双方が暴力使って憎しみあってもしょうがない。亡霊な人達はこのイベントに来る前に事前に「学生の寮を学生の同意を得ずに暴力的に破壊したことと、同じ大学がそういった暴力ってどうよ?と、主張している人を呼んでイベントするのはちょっと、おかしーんじゃないの?」とか申し立てを文章で送って、その点についてのコメントを姜さんにもらっていればよかったんだと思う。それで無視されたら、まあ、怒鳴り込むのもしょうがない。でも、いきなりはよくないよ。姜さんの方でもイベント主催者はこういった怒鳴り込みが来るような怪しい教授を呼んで話させるってのも問題なんじゃないの?事前に突っ込みがあればいろいろ調整できて、お互いまるーく進行できたような気がする。ま、こういうのが面倒だから突然やってくるのだろうけど。亡霊たちは。(というか、スガさん、笑って見てないで止めようよ!!)

***

姜尚中トラメガ事件――安田講堂2008年革命」@松平耕一さんブログ「文芸空間」08年3月30日

事態が突如として緊迫したのは、石田英敬がネグリとマルチチュードについて語り始めてのこと
早稲田大学の花咲さんと、そのお友達が、石田にアジを飛ばし始めたのだ

内容はよく分からなかったけれども、「駒場寮」という言葉が聞き取れた
「駒場寮」は、東大に昔あった、有名な自治寮だ
関東圏では、東大駒場寮、早稲田学生会館、法政学生会館が、順次、前世紀末から今世紀初めにかけて、強制解体させられていっている
学生による自治区の解体
それは、「帝国」が自治空間を、生権力により蹂躙・変革し、環境管理をすすめていく過程であった
そこらへんの因縁がもとになって、石田が糾弾されたのだとわかった

その瞬間、もっとも迷いなく迅速に動いたのは姜尚中だった
君たちやめなさい
終わってからにしなさい
やめないなら出て行きなさい
大きな声で威圧しつつ、花咲さんたちに詰め寄っていった

それが、マルチチュ-ドについて語る態度ですか
ヤジを認めないのはおかしい
というヤジでもって反駁する花咲さんたち

姜尚中は、花咲さんの足元においていったトラメガを持ち上げ、地面に叩きつけた
トラメガと床が、ごっちんこする音が構内に響いた
暴力反対! という声があがった

そのとき、安田講堂はマグニチュード1ぐらいで震えた
40年前は、マグニチュード7くらいはあったのでしょうか

マグニチュード?
マルチチュード?

昔のマルチチュードは7で、今のマルチチュードは1くらいになっていたりして

衝突はその一瞬でおさまった

やがて、ネグリと石田のトークが始まる
ネグリの電話は、フランス語でぐだぐだと続いた
翻訳が即時的になされるわけでない
聞いている側としては、ちょっと退屈してしまった

左翼同士の内ゲバというのもさもしいものではある
姜尚中なんかも、大学では規律・訓練を行う教育者として立派な人物なのかもしれない
Web状況なんかを見れば、在日差別なんかもひどいものなわけで
当面、マルチチュードたちのアソシエーションなど、行われそうにない日本である

「2ちゃんねらー」とは水と油な雰囲気の、先生たちの集う会合でした

***

大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について--米粒が立ち上がった日」@常野雄次郎さんブログ「(元)登校拒否系」08年4月7日

上野千鶴子がネグリの暴力肯定に疑問を投げかけたあとだっただけに、姜尚中のこの行動は際だっていた。

かどうかは僕は見に行かなかったので定かではない。ただ、この事件について話題にしたブログをいくつか読んで印象に残ったのは、この青年たちの状況に対する介入への揶揄(やゆ)や迷惑感情の発露である。サヨク的なイベントに来ておいて青年たちへの反感を表明している人々は、ネグリや壇上の知識人から何ごとか重要なことを注入してもらいたかったのだろうか? その権利を侵害されて憤慨しているのだろうか? このイベントの秩序を乱した青年たちへの聴衆の反感は、与えられるべきものを手に入れられなかった消費者のクレームを思わせる(皮肉なのは、当のネグリ自身の思想が、そのような態度を真っ向から批判するものであるということだ)。「古くさい運動家にうんざり」などと書いている人は、子どもの頃から慣れ親しんできた教室空間にはうんざりしないのだろうか? 

さて、橋下府知事が「大人」の度量を見せたのに対して、姜尚中は暴力的な抑圧者として振る舞った。このどちらが悪質だろうか?

両方だ。けれども、大阪ではかろうじて守られたものが、東京ではほころびを見せている。それは何か?

***

NEWS・行動報告」@ウェブサイト「2005年12月20日 早稲田大学文学部でのビラまき不当逮捕を許すな!」08年4月10日

以下の原稿は、「情況」2008年5月号のために書かれたものである。原稿執筆については、われわれから「情況」編集部に申し入れ、同編集部もそれを了解した。原稿は4月4日に送付し、6日にもゲラが出るということであった。ところが、いっこうにゲラが出てこないので、6日以降何度も問い合わせを行うことになった。当初は、「まだ、出てこない」という返事であったが、8日お昼過ぎの電話で、編集部員のI氏が「ゲラは出ているのだが、大下編集長が掲載を渋っている」という返事を得た。そこで、大下氏には、改めて掲載を求めるメールを出したところ、8日深夜に大下氏から「掲載できない」との返事が来た。その理由なるものは、われわれの思考では全く理解不能なものである。意味が不明なので、ここで説明することはさしひかえる。大下編集長が「情況」誌で言及すべきことと思われる。

われわれが、なぜこのような原稿を書かねばならなかったか、そして、それが何故「情況」誌に掲載を求めたかについては全て本文に記されているので、繰り返さない。この「事件」に鑑み、われわれ二人は、今後は「情況」誌への執筆を拒否する。

本稿の重要性に鑑み、原稿を緊急にここにアップする。
本稿はコピーレフトであり、転送・転載は自由である。

花咲政之輔
絓秀実

ネグリはどこに行ったか?
 ――3・29東大ネグリ講演会におけるわれわれの行動と姜尚中らへの批判
 付・4・1早大入学式での学友不当逮捕に抗議する


花咲政之輔
絓秀実

以下、本稿で便宜上「われわれ」というところの、一方の花咲は、二〇〇一年七月に一つの頂点に達し、その後も様々な問題を惹起してきた早稲田大学サークル部室撤去反対闘争を担ってきた当該の一員であり、他方の絓は、当時早稲田大学の非常勤教員をしていたかかわりから、その闘争を支援してきた者の一人である。同闘争の現在にいたる経過については、当該のホームページhttp://wasedadetaiho.web.fc2.com/を見られたい。また、われわれが、この闘争を契機にして編集・執筆した論集『ネオリベ化する公共圏』(明石書店)も参看されたい。そこには、ネグリの協働者であるマイケル・ハートも寄稿している。

昨年、われわれはアントニオ・ネグリが来日するという情報に接した。また、来日に際しては、ネグリが早稲田大学においても講演を行うという企画が存在するということも、同時に知った(結局、開催されなかったが)。そこで、われわれは、ネグリのこれまでの思想と行動に鑑み、ネグリへの「質問状」を作成し、「情況」編集部をとおして、その質問状をネグリに渡した。当時、ネグリの日本招聘に関しては「情況」編集部が積極的にコミットしていたからである。「質問状」は「情況」二〇〇七年九・一〇月号に掲載されており、また前掲HPにもアップされている。

われわれの主張は、早稲田大学のみならず現下の日本の大学において、ネグリを招聘して講演会等のイヴェントを開催することが、いかなる意味を持っているかと問うことにある。ネグリ(+ガタリ)の著作のタイトルを用いれば、「自由の新たな空間」を切り開こうとするわれわれの運動を弾圧し、新自由主義の時代にふさわしい監視/管理体制への大学再編を目論む当局の尖兵として行動する教員のなかには、ネグリをはじめとする左派知識人の著作を肯定的に援用(紹介、翻訳etc)することで「大学人」としてのステイタスを誇示しているものが少なくない。端的に言えば、ネグリは反動的に横領されているとさえ言えるのである。そうした状況下でネグリ・イヴェントが行われるとすれば、それは、ネグリのこれまでの思想と行動に反することではないだろうか。われわれとしては、「質問状」を媒介にして、そうした状況に積極的に介入し、ネグリ・イヴェントをラディカルに組み替えることを考えた。そうすることがネグリの思想と行動に応接するにふさわしいと信じるからである。

周知のように、ネグリは日本政府によって来日を阻止された。われわれは、このことについて断固として抗議するものであり、抗議の意味も含め、また、以上略述した当初からの目論見を追求すべく、ネグリ不在のまま開催された三月二九日の東大安田講堂でのイヴェントに介入をこころみた。ネグリが「自由の新たな空間」の出現として不断に記憶を喚起するのは「一九六八年」だが、安田講堂は日本の「六八年」の象徴的な建物である。その建物で、ネグリ・イヴェントが「東京大学130周年記念事業」として行われるということは、さまざまな問題を顕在化させずにはおかないだろう。いや、顕在化させなければならないのである。

われわれ(他数名)は開催一時間前から安田講堂前にタテカンを設置、ハンドマイクを使って主張を訴えるとともに、行動の意図とネグリへのわれわれの送付済み「質問状」を印刷したビラを、集まってくる聴衆に配布しはじめた。その時、最初の奇怪な出来事があった。イヴェント・スタッフ数人(学生であろう)が、東大の警備員数人とともにやってきて、ハンドマイクの使用中止を要求してきたのである。われわれが、その要求を斥けたことは言うまでもない。当日のイヴェントのタイトル(ネグリ講演の演題)「新たなるコモンウエルスを求めて」に照らせば、また、近年、ネグリやハートが積極的に押し出している「<共>(the common)の生産」という主張に徴しても、われわれの行動は、それにかなうものであると思われるからである。

いうまでもなく、「<共>の生産」とは無差異な同一性のことではない。それは「社会的な多数多様性が、内的に異なるものでありながら、互いにコミュニケートしつつ共に行動する」(『マルチチュード』)空間を模索することであり、闘争と議論を前提とする。ネグリ来日を前に刊行された『さらば、“近代民主主義”』は、その日本語版の惹句にも、またネグリ自身の「序文」にも記されているように、聴衆からの激烈な野次や罵声と討議のなかで生まれた。ネグリは、それらの罵声や野次をも「<共>の生産」の一過程として肯定したのである。それに較べれば、われわれの行動など申し訳ないくらい穏健なものだろう。

しかし、この学生スタッフの奇怪な行動は、その後のさまざまな出来事の序曲に過ぎなかったのである。

イヴェント開催の数分前、当日の主催者の中心人物でありコメンテーターでもある姜尚中(東大情報学環教授)が到着した。われわれはビラを手渡そうとしたが、姜は受け取らないばかりでなく、タテカンを横目で見て「これは撤去できないのか」と側近の学生(?)に例のシブい低音でつぶやいたのである。さすがに、その学生は姜をたしなめていた様子だったが、われわれが、この姜の発言に驚愕し呆れたことは言うまでもない。もちろん、われわれの目的は集会破壊ではないし、姜がそそくさと入場したこともあり、その場は、マイクで批判するだけでやり過ごした。
集会が始まっても、驚き呆れる主催者側の発言が頻出する。以下、簡単に列挙・報告しておこう。

開会するや否や、主催者側学生の司会者が、「不規則発言禁止」を宣言し、続いて姜が「ネグリの思想に反するかも知れないが、不規則発言には『生政治的』に対応する」と言った(「生政治」ではなく「生権力」であったかもしれないが、姜の例の声故に聞き取り不能)。姜にも多少の疚しさがあるのであろう。しかし、それ以上に「東大創立130周年記念事業」と銘打ったこのイヴェントは、官僚的につつがなく終らせたいという意味だろう。ところで、この場合、「生政治」(「生権力」?)というのは語の濫用・誤用であり、単純に「肉体的かつ暴力的に対応する」という意味であろうが、まあ、こんな時にコジャレて「生政治」などという言葉を使ってみる姜という人には苦笑を禁じえなかった。つまり、ネグリでも呼んでコジャレた集会を企画してみたというのがミエミエではないか。ちなみに、当日のパネリストの一人である石田英敬(東大情報学環教授、後述)は、かつてbiopoliticsを「生体政治」と訳しており、この訳語{2字圏点}の方が、当日の姜の言う「生政治」のニュアンスに近い印象を与える。まあ、いいコンビだということだ。姜により好意的に考えれば、姜の言う「生政治」は、フーコーがその概念を出した時に参照した「警察学」を想起させるが、もちろん、それもきわめて俗なイメージとしての「警察{ポリツァイ}」のことである。

もう一人のコメンテーター上野千鶴子(東大文学部教授)は、「一九六八年年というのは私たちにとって、特別な年であった。その四〇年後である、この二〇〇八年に、在日と女が教授としてここに立っているのは、当時からしたら考えられないことであり、皮肉ですよね{6字圏点}」と言った。上野の発言からは、当日のその官僚的空間に対する皮肉は聞き取れないのだから、このことこそまさに「皮肉」である。

昨今の上野は『おひとりさまの老後』の著者として著名だが、その本は、すでに斉藤美奈子や金井美恵子も批判しているように、女性ロウアークラスに対する配慮を欠いた、「勝ち組」女性のイデオロギーを敷衍したものに過ぎない(上野は、その同じ二九日に、近くの中学校で、約一六〇〇人を集めて「反貧困フェスタ」が開催されていたことを知っているだろうか)。その本と同様に、上野のイヴェントでの発言は、「六八年」が提起したフェミニズムや在日の運動の今日的帰趨が「勝利」であることをことほいでいるわけだが(そういう側面があることは否定しない)、しかし、その「勝利」が、その場において官僚的空間へと変質していることに、まったく無自覚なのである。ネグリも不断に参照するドゥルーズ/ガタリは、マイノリティー問題を論じて、その多数多様性が「1」に回帰することを警戒し、常に「n-1」でなければならないと言った。その日、安田講堂の演壇に立っている二人は、まさに「1」に回帰してしまった「マイノリティー」ではないのか。

パネリストの一人として登場した石田英敬は、学生時代は革マル派(のシンパサイザー?)として著名な存在であった(立花隆『中核vs革マル』参照)。現在はシチュアシオニストなどを援用して社会批判もおこなうフランス文学者となっているが、東大駒場寮廃寮反対闘争では、運動弾圧の尖兵として「大活躍」した。われわれが携わってきた早稲田大学地下部室撤去反対闘争は、駒場寮闘争とも連動・連帯して闘われた。それゆえ、石田のような人物が、ネグリ・イヴェントに登場すること自体が、きわめて訝しいと感じられる。石田の登場に対して、われわれは、その問題を問う野次と罵声(といっても、おとなしいものだが)によって応えた。ところが、その時、姜尚中が「野次は止めろ、終ってからにしろ。止めないなら出て行け」と怒鳴り、それにわれわれが反論するや、こちらに歩み寄ってきて、われわれの持参したハンドマイクを持ち上げ、地べたに叩きつけたのである。この威圧的かつ「警察」的な暴挙に対して、われわれがイヴェント中も随時声をあげたことはいうまでもない。

かつて姜は、丸山真男を「『異質なるもの』に対する問題意識はほとんど伝わってこない」と批判したことがある。これは、丸山のナショナリズムにかかわって言われたもので、別段独創的なものではないが、姜の主張にもそれなりの理はある。しかし、一九六八年の東大闘争時の丸山は、最後にはブチ切れたとはいえ(それにも、それなりの理由はある)、東大全共闘とは、野次と怒号のなかで「対話」を続けていたのであり、この面での「「『異質なるもの』に対する問題意識」は、この度の姜などより、はるかにあったと言えるのである。ネグリ・イヴェントで見せた姜の「思想と行動」は、単に条理的な均質空間の維持に、官僚的に腐心しているだけであり、「六八年」の丸山真男にさえ遠く及ばない。上野千鶴子と一緒になって、「六八年」の懐古にふけっている場合ではないだろう。

イヴェント終了後、われわれグループは、再び安田講堂前で情宣活動を行いながら、姜を待った。しかし、「議論は終ってからにしろ」と言った張本人の姜は、ついに、われわれの前に姿を現さず、後に仄聞したところによれば、こっそりと別の方向へ去っていったということである。考えてみれば、最初からビラの受け取りさえ拒否し、タテカンの撤去をも考えた姜であれば、当然のことではあろう。上野千鶴子よりはマシな「皮肉」を記せば、ネグリが来なくてよかったネと言いたい。繰り返して言えば、ネグリは姜らの官僚的なイヴェント運営に、当然のことながら異をとなえただろうからである。姜らは、結果的に、ネグリ来日を阻止した日本政府に守られたとは言えないか。

イヴェント前後の情宣活動中、参加者からは賛否さまざまな意見が寄せられ、意見を交換することができた。われわれの行動を支持する意見も多く、その中には、ネグリ招聘や他のネグリ・イヴェントに携わった者も少なからず含まれる。また、「姜さんも辛い立場なんだから、手加減してやってよ」という意見も、関係スジから複数あった。ここでその内容を記す必要はないだろうが、われわれも姜のいわゆる「辛い立場」なるものは仄聞している。しかし、それは「辛い立場」であるとしても、「官僚」としてのそれであろうと認識している。そして、われわれの行動は、自身の力量不足もあって、「手加減」以上の初歩的な介入であった。

われわれの行動に対する批判として、以上のこれまでの論述がそれへの回答とはならぬものとしては、「ハンドマイクやタテカン(それに野次であろうか?)といった闘いの方法は、やり方として古い」というものが一番多かった。それについて、一言しておこう。そういう人たちは、何が「新しい」方法かを決して示さないのである(せいぜい、ネットとか馴れ合い的な議論の方向といったものだ)。いや、「古い」と批判することによって、彼らは「闘争」から逃避することを合理化しているだけではないのか。

彼らが「古い」と批判するのは、半ば以上に「異質なるもの」に対する拒絶反応ゆえであろう。もちろん、われわれが全て正しいなどと言うつもりはないが、彼らに「異質なるもの」を提示しえたということだけでも、われわれの行動の意義はあったと思う。それが単純な拒絶反応から、姜の言う「『異質なるもの』に対する問題意識」へと生成変化していくことを期待する。もちろん、われわれも、そうしたものに接し係争するよう務めていく。闘争のスタイルに古いも新しいもない。出来うるかぎり多様なスタイルを、「異質なるもの」として押し出していくことが、さしあたって必要なのではあるまいか。

最後に、もう一つ重大な報告がある。

東大のネグリ・イヴェントの三日後の四月一日には早稲田大学の入学式であり、われわれは例年どおり、抗議行動としてビラまきと情宣活動をおこなっていた。ところが、大学当局は、そこで抗議行動をおこなっていた一人の学生を突然とりかこんで拉致するや、牛込署を呼び逮捕させたのである(いわゆる常人逮捕である)。前掲HPを見てもらえば知られえるように、二〇〇六年一二月にも、文学部キャンパスにおいてビラをまいていた人間が不当逮捕されたが、今回のケースも全く同様であり、理不尽きわまりない暴挙という以外にない。このような恒常的な管理・弾圧体制は、単に早稲田だけではなく、全国の多くの大学に波及していることは周知のとおりだが、同時に、われわれが報告してきた東大のネグリ・イヴェントに見られる事態とも深く通底していると考える。

四月一日の不当逮捕については、今後、前掲HPなどにおいて迅速かつ詳細に報告していく心算である。注目し、かつ支援をお願いしたい。もちろん、本稿で批判の対象とした姜尚中や上野千鶴子といった方々にも、そのことは切にお願いする。


2008年4月1日早稲田大学入学式での不当逮捕糾弾!

全ての皆さん!またもや早稲田大学当局による許しがたい事件が起こりました。2008年4月1日、早稲田大学記念会堂において、昨年2007年突如として早稲田大学学生部によって告示された「戸山キャンパス周辺での新歓活動全面禁止」なる措置に抗議して情宣を展開していた法学部4年学生に対して、学生部職員福田は「常人逮捕」して、牛込警察署に引き渡したのです。

「建造物侵入」ということで、彼は3日間牛込警察署に留置された後、当然ながら釈放され、現在抗議行動を最先頭で展開しています。

現役学生がサークル活動の管理強化に反対して行っていた情宣活動に対して、建造物侵入を適用する、という前代未聞の事態を絶対に許してはなりません。支援・協力・参加を訴えます。また、弁護士費用などで資金が大変です。

カンパもよろしくお願いします。また続報いたします。

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残念ながら、私は東大イベントは見に行っていないので目撃者としては語れませんが、事態の推移を注視しているところです。[22:00追記]
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by urag | 2008-04-12 11:36 | 雑談 | Trackback | Comments(9)