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2017年 02月 20日

松江泰治インタビュー「Hashimaのころ」公開

2月16日取次搬入済新刊、松江泰治写真集『Hashima』をめぐり、弊社編集部が松江泰治さんにインタビューした「Hashimaのころ」をPDFで公開します。写真集には収録していない貴重な一問一答です。

 Q――なぜHashimaに行こうと思った?

松江――写真は旅なんだよ。10歳の頃から日本中を旅していた。14歳の夏には46都道府県を制覇し、九州や北海道は毎年のように行っていた。東京から夜行列車を乗り継いで、最果ての地が九州や北海道。当時惹かれたのは、古く寂れた街、工業地帯、運河、そして炭坑や廃鉱など。印象深かったのは、古い小樽の街だな。1980年代初めの小樽は、廃倉庫や工場と運河の寂れた街、それに夕張の炭住(炭坑住宅)や空知炭砿などを撮っていた。

1983年の夏に九州を旅して、筑豊の廃坑などを撮りながら、佐世保、長崎に辿り着いた。軍艦島を見てみよう、と近くまで行ったら、渡ることが出来た。軍艦島を目指していないのに、行けてしまった。目指していないのに撮ることが出来た。情報の少ない時代には、夢のような事がよく起こるんだ。調べる手段がない分を、体当たりで補っていたのだろう。

『Hashima』の最初の3枚は、島に渡る前日の夕方の光景だ。4、5枚目の写真は、当日の早朝の船から。つまりこの写真集は旅のドキュメントなんだ。

『Hashima』の構成は、ほぼ時系列になっている。まず学校の脇に上陸して、学校を巡り、島全体を探検して、最後の写真は夕方の帰りの船から、島を離れるところ。24時間の記録。

・・・続きはPDFでお読みいただけます。

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by urag | 2017-02-20 11:57 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2016年 11月 24日

ルソー『化学教程』連載第12回

ルソー『化学教程』連載第12回をまもなく月曜社ウェブサイトで公開します。

第一部 第三章 物体の凝着原理と物体の透明原理について

1 〔A:33, F:43, C:86〕自然のあらゆる現象を説明するために実に多くの努力をなしてきた哲学者たちは、万物にもっとも普遍的に備わっているもの、かつまずもって説明すべきであろうものについて理に適った仕方で語ることなどかつてなかった。私が言っているのは、各物体の諸部分の凝着cohésionである。例えば、それは一定量の金化粒子corpuscules aurifiques(1)から一つの金の塊を作るような働き〔操作opération〕のことである。ある物体の諸部分が絶対的静止repos absolu(2)の状態にあるとき、〔C:37〕これらの部分が凝着することはありえないという説に基づいて、凝着原理は運動であるとライプニッツは主張した。この静止や運動という言葉でライプニッツはいったい何を言わんとしていたのだろうか。ペリパトス派の形相、デカルトの微細な物質matière subtile、ニュートンの引力ですら、凝着原理の説明としては不十分な仮説のように私には思われる。物質が持つこの〔普遍的な〕特性について無意味な断定を企てる前に、原質の粒子corpuscules Principesの形象とあらゆる性質をよく知っておかなければならないし、その粒子の表面同士が接触する場合どのような種類の接触がありうるのか、また粒子同士の関係や差異が何であるかをよく知っておかなければならない。〔A:34〕動植物といった有機体に関して言えば、有機体の部分的構造、すなわち繊維や脈管のお陰で、〔凝着原理という〕難問にぶつからずに済むとも言える。脈管や繊維はひとつの組織によって支配されており、この組織はそれらからまとまりcohérenceを形成するのである。しかし、〔F:44〕〔有機体のまとまりを持ちつつ〕最も硬いものでもある採掘物〔化石〕corps fossilesや、接着appositionによってしかその部分が結合しない石や金属に対しては、〔動植物のと〕同じような説明はまったく通用しない。他方で、水やその他の液体はその部分同士がまったく無媒介に結合しており、このことは液体の透明さtransparenceが示している。こういった水やその他の液体が流動的であるということは、両者の部分の結合が組織に由来するものではないということを明示している。

(1)物質は粒子から成るという粒子論の議論をルソーは引き合いに出している。ゆえに、金化粒子は金の微小物質というよりは凝着により物質としての金に成る粒子のことを意味する。

(2)「自然的には実体は活動なしにはあり得ず、運動していない物体さえも決してありはしない、と私は主張するのである。経験も既に私に味方しているし、このことを納得するには、絶対的静止に反対して書かれたボイル氏の著作を参照しさえすれば事足りる。けれども、〔絶対的静止に反対する〕理由はまだ他にもあると私は思うし、〔その理由は〕私が原子論を破るために用いる証明の一つなのである」(ライプニッツ『人間知性新論』米山優訳、みすず書房、1987年、9頁)。

2 だが、かりに〔物体の〕部分間の完全な接着が物体のまとまりや安定性を生み出すと仮定してみよう。〔例えば〕二つの大理石の塊が、研磨され完璧に平らになった表面同士でくっつけられると、両者はひとつの大理石となり、まさにひと塊の大理石を形づくることになるだろう。大理石の表面のすべての部分一つひとつが接し合うのに必要な十分に研磨された平面を大理石に与えることができた場合、その結果として大理石がひとつにまとまるということが成立するのである。これは何人かの哲学者が大胆にも主張したことでもある。しかしながら、これこそ「経験に仇なすchicaner contre l’expérience」と言うべきものではないだろうか。今度は、どれだけ各々の部分が隣接しているかに比例して大理石の一体性が増してゆくと仮定してみよう。〔この場合〕たとえ〔隣接する〕研磨面が不十分であるとしても、つねに相当数の接点を二つの大理石が持つことで、分割に対するかなりの抵抗力をこの大理石は持ったと見なすべきであろうか。〔C:88〕しかし、経験によれば、この〔隣接数に由来する〕抵抗力は二つの大理石それぞれが持つ固有の重さから生じる抵抗力〔引力〕を超えることはない。

・・・続きは月曜社ウェブサイトで近日公開いたします。
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by urag | 2016-11-24 15:40 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2016年 05月 09日

ルソー『化学教程』連載第11回

ルソー『化学教程』第十一回:第一部第一編「物体の諸要素とそれらの構成について」第一章「物質の原質について」(続き)

34 私たちがスイギン土terre mercurielleと呼ぶ第三の原質に関して言えば、それは依然としてまったく知られておらず、多くの人びとはその存在を認めていない。以下は、ベッヒャーが伝えるその原質についての知識である。

35 先の二つの原質〔ガラス化土と燃素土すなわちフロギストン〕と混ぜ合わされることで、第三の原質はこれらの三つ原質からできる物質の種類を決定する。このような第三の原質が存在するということを人びとは疑うことができない。というのも、鉱物界の生成について限って言えば、私たちが明らかにするように、半透明の石は第一と第二の土から形成されていることは確かであり(1)、不透明の石に関して言えば、その不透明さ、形状、そして石の状態を生み出す第三の土がその石の中には必ずや存在しなければならないからである(2)。[A:24]金属についても〔スイギン土がその種類を決定するということは〕同じである。なぜなら、金属が先の二種類の土から受け取った色彩と可融性に加えて、第三の原質からしか引き出せないような展性と金属的光沢をも金属は有しているからである。類比関係から、同様の原質はその他の二つの界〔動物界、植物界〕の中にも存在するはずである。事実、不揮発性のエンが結晶化の中でとる規則的な形状はいったい何に由来するというのか。また揮発性のエンの植物の形状はいったい何に由来するというのか。ニガヨモギやモミの木材(3)に見られるように、揮発性のエンは植物の形状をときおりきわめて明瞭に呈する。この第三の土は俗に言う水銀の混合物の中にそれなりの量が含まれており、そのために何人かの化学者たちはこの土に水銀という名称を性急にも当ててしまった。この第三の土はむしろスイギン土と呼ぶべきである。というのも第一に、[C:79]第三の土を含む[F:32]あらゆる物体から液体の水銀を抽出できるということは誤りであるからだ。そもそも、水銀というもの自体が他の原質から成るひとつの混合物ではないだろうか? こうして、強い揮発性を有する(4)という理由でだけで、実に不適切にも、この第三の土は水銀と呼ばれるようになってしまったのである。第三の土は揮発性を有するがゆえに、例えば〔すでにこの土を含んでいる〕何らかの金属にこの土を余分に結合させてみると、この金属は揮発性および流動性という水銀の形態を有するようになる。そして火の助けを借りて金属を凝固することでしか、その金属を再び硬化させることはもはやできないのである。ベッヒャーは、この土がヘルモントやパラケルススの有名なアルカエストalcahest(5)以外の何ものでもないという意見に与しており、あたかも自分がよく知っているものであるかのようにこの液体について語っている。そのアルカエストが持つ強い浸透力pénétration〔という性質〕に魅せられたベッヒャーは、うかつにもこの性質を確かめようと骨を折ることになったのである。上記の化学者たちの主張では、このアルカエストが普遍溶媒dissolvant universelであると知られている。しかしながら、ベッヒャーはこの普遍溶媒と通常の溶媒dissolvants ordinairesを区別した。なぜならば、〔普遍溶媒である〕アルカエストはひとつの物体の部分を分割し、それらを[A:25]把握できないほど細かくすることしかしないのに対して、後者の通常の溶媒は溶解した物体と結合するからである。こうして、この〔普遍溶媒に浸した〕諸部分はその自然の状態état naturel〔=静止〕(6)にしておくと時間とともに沈殿する。もっとも重い部分から沈殿してゆき、そしてもっとも軽いものが沈殿する。これは合金を分離する方法である。というのも、例えば金は他の金属よりも先に沈殿するからである。

続きは・・・特設サイトで公開中。
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by urag | 2016-05-09 17:19 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2016年 04月 22日

ルソー『化学教程』連載第10回

『化学教程』第一部
第一編 物体の諸要素とそれらの構成について
第一章 物質の原質について(続き)

29 ベッヒャーの語るこの実験を彼が行ったという証拠を、私たちはまったく持っていない。そうすると彼が実験をしなかったという証拠も私たちは持っていないことになるが、これは確かなことである。このような疑惑のうちにあって、もし〔彼の証言の〕真実らしさを示してくれるいくばくかの可能性が見出せるのであれば、ベッヒャーのこの証言は何らかの重要性をきっと持つだろう。ところで、三界には〔物体の〕要素となる原質principes matérielsがあり、これらの原質同士はしばしば類比の関係によって秩序づけられている。私があとで示すように、このような類比関係から推測して、私たちはベッヒャーの証言をともかくも妥当なものと認めることができる(1)。もっと言えば、ベッヒャーが本当に実験を行ったと仮定した上で、もし三界の諸原質が同じ性質を持ち、かつそれらが同じ効果を生み出すならば、三界の諸原質の間には、問題となっている類比どころか完全な同一性を容易に認めえる、とまで私は言いたい。そして、人々もこの同一性を認めざるをえないだろう。まず動植物について言えば、〔それらに含まれる原質同士の〕同一性は明らかである。というのも、動物の物質は植物の物質になるからであり、その逆もまた然りであるからだ。鉱物と植物についても、〔両者に含まれる原質が同一であることは〕同じように明らかである。というのも、植物に含まれるエン、土あるいはアルカリ基体base alcalineは、地中から引き出される岩エンや〔エン〕基体と全体的によく似ており、このことは〔鉱物と植物の〕エンが同じ原質、とりわけ同じガラス化土から構成されているということを示しているからである。[A:19]ベッヒャーが各界のガラスの中に見出したと称する固有の色について言えば、こういった色は私にとって依然として何よりもまして胡散臭いものである。[F:27]植物の灰から作られたガラスの緑色からは、動物界のガラスverre animalに見出せる肉体の色を連想することはできないのではないかと私はだいぶ怪訝に思っている。そもそもこれらのガラスを構成する物質の混合の違いこそが色の違いを生み出す原因なのである。ただしガラス化原質principe vitrifiableはどの物質においても同じものである。この物質〔ガラス化原質〕に関するシュタール氏の説明に関しては、いずれもっと詳しく見てみることにしよう。

(1)ルソーの余白書込:エナメルは羊の骨によって作られる。すなわち、凹面鏡を用いて動物の骨をガラス化させることによって作られる。
 仕事の苦労を伝える「人骨は陶器の中に含まれる成分のひとつである」という日本の諺の起源をさかのぼることも無駄ではないだろう。
 余白書込に関する訳注:手稿の形式上、この余白の書込に関して二つの問題がある。第一の問題は、エナメルに関するこの書込が本文のどこにかかっているかである。手稿を見る限り、ルソーは本文を書いた後、しばらく経ってこの書込を行っている(本文とインクの色が違う)。第二の問題は、書込を挿入するための記号が本文中にないことである。したがって、内容からこの書込が注の役割を果たす箇所を推測しなければならない。訳者は、ガラス化に関する実験を伝えるベッヒャーの証言についてルソー本人が検討している文章全体に対応すると考える。というのも、動物の骨を燃やすこことによってエナメルが得られるという事実は、ベッヒャーの言う三界に共通して存在するガラス化土の存在の可能性を示唆するからである。よって、この位置にルソーが注をつけたと推測した。
 次に言及すべきは注の内容的問題である。ルソーがここで「エナメル」とみなしているものは陶磁器に用いられる釉薬(陶磁器にガラス状の表面を作る上薬)であり、それは凹面鏡を使って太陽光線を集めその熱で羊の骨を燃やし、灰にすることによって得られるもののようである。ちなみに『化学教程』から40年後に出版された年刊学術雑誌『自然学、博物誌、技芸に関する考察』第31巻には、石灰化させ熱湯で洗った「羊の骨」を長時間火にかけることによって白色のエナメル物質が得られる実験が記録されている(Observations sur la physique, sur l’histoire naturelle et sur les arts, t. XXXI, Paris, Bureau du Journal de Physique, 1787, p. 129)。この釉薬に関する書込からも分かるように、ルソーの伝える「ガラス化vitrification」とは、ある物体が燃焼し、その物体に含まれているガラス化土が流出して透明な皮膜が作られる過程のことである。
 ルソーは「羊の骨」の釉薬の問題から、陶磁器の製法に関する日本の諺を紹介している。この諺とほぼ同一の文がケンペル(Engelbert Kæmpfer, 1651-1716)の『日本誌』仏訳に出てくる(Kæmpfer, Histoire du japon, livre V, chap. III, t. II, La Haye, P. Gosse & J. Neaulme, 1729, p. 168)。すなわち、「人骨は陶器の中に含まれる成分である les os humains sont des ingrédients qui entrent dans la Porcelaine」という諺である。おそらく、ルソーはこの仏訳を参照してこの注を執筆したと考えられる。『日本誌』で話題となっているのは、志田焼用の粘土を白くするための〈骨折りな仕事〉であり、これは骨灰を使って白い磁器を作る際に人骨が用いられているのではないかというヨーロッパにおける日本のイメージが背景にある。この〈骨折りな仕事〉のことを、ルソーは動物の骨をガラス化させるという困難な作業のことと考えており、このガラス化の難しさが元となって、問題の諺ができたのではないかと考えているようである。
 以下では、『日本誌』邦訳の(1779年に刊行されたドイツ語版を底本とし、『江戸参府旅行日記』と題され抄訳となっている)当該箇所を引用しておく。「さて、われわれはさらに半時間進んで、嬉野のもう一方の地区を過ぎ、さらに二時間、(左手に人家の続くところを通り過ぎて)塩田村に着き、そこで昼食をとった。/この土地では粘土で作った非常に大きな一種の壺が焼かれ、ハンブルクの壺と同じように、水瓶として使われている。/ヨーロッパの人々の間では、マルタン〔ビルマのマルタバン湾に臨む同名の街をいうか〕という国名からマルトアンという名で呼ばれていて、同地〔引用者注:マルタン〕でたくさん作られ、インド中に売られるのである。塩田からは、果てしない平野を東方へと流れ島原湾に注ぐちょうどよい川があるので、これらの壺は舟で運ばれ、他の地方に送られる。/この地方や嬉野,それに続く丘陵、さらに肥前国の至る所の丘や山の多くの場所で見つけられる油っこい白土から、日本の陶器が作られる。この土はそれ自体かたくてきれいであるが、しきりにこねたり引きちぎったり、混ざりものを除いてはじめて完全に加工される。それゆえ、美しい陶器を作るには「骨が折れる」という諺が生まれた」(ケンペル『江戸参府旅行日記』齋藤信訳、東洋文庫/平凡社、1977年、84頁)。
 上記の「骨が折れる」という訳文は、底本であるドイツ語版の「美しい陶器を作るには人骨が必要である」という文の意訳であろう(Engelbert Kämpfer, Geschichte und Beschreibung von Japan, aus den Originalhandschriften des Verfassers, 2. Bd,Lemgo, Meyer, 1779, S. 203)。

・・・続きは近日中に特設サイトで公開開始いたします。
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by urag | 2016-04-22 19:38 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2014年 12月 11日

ウェブ連載:ルソー『化学教程』第九回を公開します

ウェブ連載:ルソー『化学教程』第九回を公開いたします。

第一部
第一編  物体の諸要素とそれらの構成について
第一章 物質の原質について(続き)

24 ところで、ある物質の中でまったく水でも空気でもないものはどのようなものであれそれは必然的に土だということになる。そしてベッヒャーに従えば、空気は物体の混合物の中に原質としては入り込むことは決してなく、空気はむしろ物体の〔絶対的〕体積の中にただ付帯的にのみ入り込むということなので、この事実から例えば次のことが導き出せる。すなわち金属や石はその構成のうちにまったく水を持たないがゆえに、ただ土からのみ形成される、と。だが、これほど多様な混合物は果たして一種類の同じ土のみから成り立っているのであろうか。つまりこれら混合物の多様性はその原質の多様性を示しているのではないだろうか。金とダイヤモンド、大理石と銅はあまりにも異なる本性を持つので、もしこれらの一つひとつがただ一つの土から成り立っているとするならばこの土は上に挙げた例の中では同じものではありえないということが先ず分かる。また、そもそも金属は一体どのような変化métamorphosesを受けやすいのであろうか。[A:15]化学は金属を展性、脆性、高密度、多孔質、流動性、不発揮性、発揮性等々といった性質を次々持たせ、重くも、軽くも、また硬質にもする。では、〔物体の〕本質的部分の多様性からでないとしたら、どこからこれほどの変質altérationsが生じるのだろうか。また、もし金属が単純な物体からなるならば、化学者の意のままにこれほどまでに異なる形態を持って代わるがわる現れるなどということができるのだろうか。[F:23]とするならば、化学者は金属の混合物の中に複数種類の土を含ませる必要がある。

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by urag | 2014-12-11 23:55 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2014年 07月 16日

ウェブ連載:ルソー『化学教程』第8回

ルソー『化学教程』の翻訳第8回をまもなく弊社ウェブサイトで公開いたします。

『化学教程』第一部第一編「物体の諸要素とそれらの構成について」第一章「物質の原質について(続き)」

14 化学者の通常の五つの原質に関して言えば、少なくともそれらのうちの〔水、土、エンの〕三つは、それ自体としては混合物や化合物でしかない。「精体esprit(1)とは、精製アルコールflegmeの中に溶けている酸性のエンである。そのような溶解物が硝石の精体あるいは酢の精体である。尿中の揮発性精体とは、精製アルコールの中に溶けている揮発性アルカリでしかない。[A:11]そのような溶解物が、尿の精体であり、鹿角精esprit de corne de cerfのそれである。燃精esprit ardentとは、酒精esprit de vinまたは松精のようなエーテル性油ないし弱イオウsoufre atténué以外の何ものでもない。イオウそれ自体は、火の原質と酸から構成される。[F:19]臭いのきつい諸々の油は、精製アルコールと少しの出がらしの土terre damnéeからなるものの中で溶解した揮発性エンである。エーテル性油とは、オリーヴ油に似た粘液質でどろりとした油が、諸々のエンによって〔原質間の結合を〕緩められ、精製アルコールの中で拡散したものである。オリーヴ油と発酵している何らかの流動物質liqueurを混ぜさえすれば、その油は完全に燃精に変化するだろう。酒精2リーヴルをとって、12リーヴルの普通の水の中にその酒精を拡散させてみよう。そして、この溶液全体を空気にさらしてみよう。すると揮発性エンは〔気化して〕発散してしまう。〔この溶液の〕油性部分は、玉状に集まり、〔液体の〕表面に浮かぶ。この油性部分はあらゆる点でオリーヴ油やアーモンド油に似ている。エンに関しては、エンからは〔無味の〕水と土が得られる。〔この操作は次の通りである。〕蒸留された硝石は多量の酸精esprit acideを産み出す。だが、粉末状の酒石ないし木炭とともに硝石を燃やすと、それは〔酸精ではなく〕不発揮性あるいはアルカリ性ニトロと呼ばれるアルカリ性エンになる。[C:68]もし硝石を風化作用(2)によって液化させ、この液体を紙で濾過するならば、硝石は多くの土〔残留物〕を残す。濾過されたこの流動物質を乾燥するまで蒸留器で蒸留すると、この物質から無味の水が得られる。そのまま乾燥させられたエンはさらに少なくなる。この作業を最後まで繰り返そう。するとほとんどのエンが土に変化するだろう。〔この作業によって〕エンから消えた部分が無味の水に変わったということは確からしい」(3)。

(1)本翻訳ではespritを「精体」と訳す。espritの訳語としては他に「蒸留酒」ないし「揮発性物質」を挙げることができる。しかし、いずれの訳語にも不都合がある。後者に関して言えば、例えば本段落で使われるesprit volatilという言葉を訳すときなどに問題が生じる。また本文のespritの定義が示す通り、この語は必ずしも「酒」を指すものでもない。この点で「蒸留酒」という訳語にも問題がある。このespritという語は蒸留などの化学的操作から得られる「純化され選りすぐられた物質」を一般に意味している(例えばある作家のespritというとき、それはその作家の作品の「精選集」を意味することがある。このあたりの用法にも「純化され選りすぐられた」というespirtという語の側面が見出される)。『化学教程』においてルソーがespritという語を使うとき、多くの場合、それは蒸留を筆頭とする化学的操作によって「純化され選りすぐられた物質」を意味する。それゆえに本翻訳では単独でespritという語が使われる場合、これを「精体」と訳すことにした。

(2)セナが« si on le laisse liquéfier par lui-même »と書いている部分をルソーは化学操作の用語を用いて« si on le laisse liquéfier par défaillance »と書き換えている。

(3)ルソー原注:セナ、第1巻、9頁〔Sénac, J.-B., Nouveau cours de chimie suivant les principes de Newton et de Stahl, Paris, Vincent, 1723.なお本14段落は冒頭の一文および後続の「イオウそれ自体は、火の原質と酸から構成される」という文以外、セナの著作からの書き写しである(この書き写しの部分を引用符を用いて明示した)。右の文に関しては、ルソーはセナの著作に登場する物質名を完全に書き換えている。セナ本人によれば「イオウは水と土に分解される」〕。


・・・続きは弊社ウェブサイトで近日公開いたします。
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by urag | 2014-07-16 16:26 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2014年 02月 12日

大竹昭子「森山大道のOn the Road」番外講義編@沖縄県立博物館・美術館

「森山大道 終わらない旅 北/南」展の関連イベントとして2014年1月25日に沖縄県立博物館・美術館でおこなわれたシンポジウムでの大竹昭子さんの講演録を、「森山大道のOn the Road」番外講義編として月曜社ウェブサイトにて公開開始いたしました。
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by urag | 2014-02-12 12:18 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2013年 11月 01日

ウェブ連載:ルソー『化学教程』第七回、本日公開

弊社ウェブサイトでの連載、ルソー『化学教程』の翻訳第七回を公開します。

『化学教程』第1部
第1編 物体の諸要素とそれらの構成について
第1章 物質の原質について(続き)

10 それゆえ、物体のこの諸原質や要素の観念についての人々の意見はだいたい一致している。しかし、どのような原質ないし要素があるのか、またそれらは何種類あるのか? この問いこそが、数世紀以来、自然学者と化学者たちを悩ませてきた大問題の核をなしてきたのである。[C:65]タレスは一つの原質しか認めなかった。それは水である。デモクリトスもまた一つの原質しか認めなかった。それは土ないしアトムである。アリストテレスは四つの原質を思いついた。それは土と火という乾いたもの二種、そして水と空気という湿ったもの二種の四つである。アナクサゴラスは、例えば金の原質が金の性質を持つ小さな粒子であると主張することによって、ありうる限りの様々な物体が存在すると主張した。デカルトは大きさと形象〔形態〕によって区別される三つの原質があると認めた。

・・・続きはこちら

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ルソー『化学教程』連載概要

第1回:緒論・総目次・凡例
第2回:1-1-1-1~6(第1部第1編第1章第1~6段落)。
第3回:1-2-1-1~4(第1部第2編第1章第1~4段落)+訳者解説。
第4回:1-2-1-5~10(第1部第2編第1章第5~10段落)+訳者解説解説。第1章終。
第5回:1-1-2-1~9(第1部第1編第2章第1~9段落)。第2章終。
第6回:1-1-1-7~9(第1部第1編第1章第7~9段落)。
第7回:1-1-1-10~13(第1部第1編第1章第10~13段落)。
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by urag | 2013-11-01 12:23 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2012年 12月 10日

近日公開:ルソー「化学教程」ウェブ連載第5回

『化学教程』第一部 第一編 第二章 物体の混合と構成について

1 [A:26, F:35, C:81]ベッヒャーの考えに従って、私たちは物体の物質的な原質ないし物質的な要素を説明してきた。そして、今やその物質の構成compositionを検討せねばならない。すなわち、どのように諸々の原質は、自然的物体を形成するために、一定の比率と組み合わせをもって結合しているのか、ということを検討せねばならない。

2 あるペリパトス学派〔アリストテレス学派〕のひとに物体の混合に関するあなたの学説とはどのようなものか、と尋ねれば、彼はまずこう答えるだろう。物体は、その特性tempéramentおよび固有な諸性質を各物体に与える要素同士の何らかの協働の結果として生じる、と。[A:27]さらに彼を問い詰めて、例えばこう聞いてみよう。なぜ、鉛に結合する錫は銀とは結合しないのか。その理由を彼はいとも簡単に説明するだろう。錫と銀は〔互いに〕反対物質substances contrairesであり、異なる性質températureのものであるからだ、と。あるデカルト主義者は、間隙poreといった形象や粒子といった形象、そして様々な運動によってあらゆる難問を解決するだろう。さらには、未知の性質と遭遇すると、彼はそれらを新たな運動と形象によって説明するだろう。あるニュートン主義者は、ペンを片手に結合力の度合いと引力を計算するだろう。上に挙げた彼らの回答によって、私たちは物体の構成についてより明るくなるだろうか? そのようなことはまったくない。哲学者の様々な体系のあいだを一生右往左往するよりも、化学者の実験室の中でしばらく過ごすほうが、物体の構成についてあなたはより得るものが多いであろう。したがって、確固たる実験によって物体の真の構成constitutionおよびそれらの混合、組み合わせを示すことは、ただ錬金術の学science spagyrique(1)にこそ求められるのだ。この知恵とは深遠かつ興味深い研究であり、[F:36]私たちはこのような研究を哲学者たちの書物に見出すことはまずない。抽象的な体系と観念で頭がいっぱいなので、彼ら哲学者たちは言葉〔遊び〕にばかり夢中になっている。彼らが一体どれほど無学なのかを彼ら自身が知らないのは、ただただおめでたいことである。物体の生成やそれを構成する原質やその混合が形成される仕方を何も知らずに、物体の本性について哲学しようとすることは、あたかも箱の中に入っているものを知るためにその箱をあれこれとひっくり返したり戻したりすることで満足し、また箱の中身を確認する骨折りをせずに、箱の寸法を正確に測ることだけで満足するようなものである。

(1)スパジリックという語については『アカデミー・フランセーズ辞典』(1762年)の次の項目を参照。すなわち「SPAGYRIQUEないしSPAGIRIQUE。形容詞、もしくは女性名詞。金属を分析し賢者の石について探求することを専門とする化学のことを言う。金属化学ないし金属学と同じものである」(Dictionnaire de l’Académie française, art. « Spagyrique », t. II, p. 757 b)。また、spagyriqueが錬金術alchimieないし化学chimieと同義で使われている例としてはゲオルク・エルンスト・シュタールの『理論化学および演習化学の基礎Fundamenta chymiæ dogmaticæ et experimentalis』(1723年)の序言を参照(Stahl, Georg Ernst, Fundamenta chymiæ dogmaticæ et experimentalis, Norimbergæ : Sumptibus Wolfgangi Mauritii, 1723, Proemium, § 1, p. 1)。シュタールによれば、「化学chymiaあるいは錬金術alchymiaないしスパギリカspagiricaとは、混合状態、構成状態あるいは凝集状態にある物体をその原質へと分解するため、あるいはそういった物体を諸々の原質から構成するための技術である」。

3 [C:82]物体の中には、万人がまずもって目にする様々な〔視覚的〕性質がある。しかしそれらの性質は、様々な光〔知識〕lumièresに助けを求めなければ、物体の本性を発見するためにはなんの役にも立たない。たとえば、〔ワインを知らない〕あるラップ人にワインを差し出せば、彼はそれが発泡酒か否か、白か赤かを一瞬にして知るだろう、そしてそれを飲めば酔うということにもすぐに気づくだろう。しかし、[A:28]このようにワインの性質を瞬時に知ったからといって、彼がブドウやブドウ畑を一度も見たことがないならば、彼はワインの本性を知っていることに果たしてなるだろうか? また、ブドウやブドウ畑を見た彼にとって、ワインとはブドウから作られるものでしかないならば、彼は「ワインはこれこれの仕方で作られ、ブドウの育成にはこれこれの物が有効であり、反対にこれこれのものが害であると、私は思う」ということ以上の何かを同郷人に伝えることが果たしてできるであろうか? しかし、ラップ人がそう言ったからといって彼がワインの本性を知っているということにはまずならないだろう。またブドウの酸味のある果汁が、どのようにして心地良く甘い汁になるのかということを知っていることにはまずならないだろう。なぜブドウの汁は発酵するのか、どのようにしてその汁はワインの性質を獲得するのか、そしてこのワイン自体はどのようにしてブランデーの性質や酒石tartreの性質、澱の性質、ビネガーの性質を獲得するのだろうか? ブドウの樹の各部分の姿かたちを記述することは植物学者の役目である。自然学者は仮説によってブドウの樹の植生法則のいくつかを説明するように努める。そして、化学者は両学者が扱わなかったことについて語るのである。化学者の様々な研究はあまりにも不可欠であるのだが、同時にそれは残念ながらこのうえなく困難なものでもあるのだ。なぜ困難なものであるかというと、それは主として三つの理由による。[F:37]第一の理由は、あらゆる自然的混合物を知るために理解せねばならない組み合わせが無数に存在するということである。この地を覆い、その内部を充たしている並外れた数の様々な物体を見よ。確かに原質とは様々な種類の物体を構成するものであり、物体はその素材となる一次ないし二次的な原質の多様な混合物に過ぎない。しかしながら、この地を覆う物体の並外れた多様性について〔少しでも〕考えを抱こうとするのであれば、数の組み合わせを想像するのが一番よい。その組み合わせは、八つの物体だけでも四万通り以上にものぼってしまうのである(1)。第二の理由としては次のとおりである。すなわち、有名な著者〔フォントネル〕が言ったように事実に基づいて本性を把握することが、またその本性を混合物の生成段階のうちに見出すことが、不可能であるとは言わないまでも、大変難しいからである。[C:83]この困難さゆえに、私たちは錬金術の技術にまずもって助けを求めざるを得なくなるのである。というのも、その技術は私たちに混合物をその構成部分へと分解することを教えてくれるからである。ついで、この分解された構成部分を再び組み合わせ、こうすることによって類似の混合物を再び生み出そうとする際に、錬金術の技術は自然の操作を模倣し再現することに役立つ。[A:29]ちなみに金属の原質やその他、〔物体を構成するのに〕必要なものを揃えて金属の混合〔という操作〕を行ったとしても、そのような金属の混合からは、〔分解される前の金属と〕同種の金属をこの世に生み出すことはできない。というのも、金属の構成部分を知っていたとしても、その構成部分がどのように結合されているかを知らなければ、私たちは最も重要な点を知らないことになるからである。無知な人が、このような金属の混合〔という操作〕について良く理解していると厚かましくも自慢することを、かのベッヒャーはよしとしない。最後に、三番目の理由は、私たちの器官の不十分さである。私たちの器官は、凝集形式une forme agrégativeのもとでしか原質も混合物も目にすることができない。このことをあなた方に納得してもらうために、例として、半ドラクマ(2)の良質な銀を十分な量の硝酸液eau forteの中で溶かしてみよう。そして、純粋かつ新鮮な5パントないし6パント(3)の雨水の中にこの溶液を混ぜてみよう。すると、視覚を使っても味覚でも嗅覚でも、この液体が水以外のものを含んでいるということをあなた方が見破るのは不可能になるだろう。とはいえ、水の一つひとつの粒子に銀という別の粒子が付着していることは確かである。[F:38]というのも、この水〔硝酸銀溶液〕をただの一滴でも、ありきたりの澄んだ食塩水の中にたらしてみたならば、この一滴の水は乳白色になり、少量の粉末状の銀を容器の底に沈殿させるからだ。その微細な銀の粒子一つひとつは以前にはまったく知覚されえなかったものである。この先、本書において私たちは多くの似たような観察をすることもあるだろう。

(1)実際に8の階乗は40320である。この数値は、ベッヒャーの化学書『地下の自然学』でも例として用いられている。Becher, Johann Joachim, Physica Subterranea, Lipsiæ : Joh. Ludov. Gleditschium, 1703, lib. I, cap. 2, § 4, p. 187.
(2)1ドラクマは、約3.24グラムである。
(3)1パントは、約0.93リットルである。

続きは近日中にこちらで全文公開いたします。

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追記:2012年12月12日、全文公開開始いたしました。
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by urag | 2012-12-10 10:39 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)
2012年 07月 06日

ウェブ連載:ルソー『化学教程』翻訳プロジェクト 第四回

弊社ウェブサイトで連載中のルソー『化学教程』翻訳プロジェクトの第四回をまもなくアップいたします。

『化学教程』第一部
第二編 自然的な器具instrumentについて
第一章 自然の仕掛けmécanismeについて(続)

5 叡智的な存在Être intelligentは、あらゆる事物の能動的な原理principe actifである。このことを疑うためには、良識bon sensを放棄しなければならない。そして、これほど明白な真理の証拠を挙げるなどということは、明らかに時間の無駄である。疑いなくこの永遠の存在は、[C:100]その力と意志とを直結させ、両者の協同concoursによって宇宙を創り出し、維持することもできたであろう。だが、このことにも増して、一般的な法則を自然〔という機械〕のうちに設定したことが、むしろ永遠の存在の叡智の名に値するのだ。そしてこうした諸々の法則は、決して互いに矛盾せず、〔法則の〕効力はただそれだけで世界とその内にあるものとを維持してゆくのに十分なのである。立法者〔叡智的な存在〕などいない、と歪んだ知性をもったひとびとに言わせているのは〔当の叡智的な存在が設定した〕法則それ自体であり、またこの法則をきちんと管理しているこの存在の誠実さである、などということが果たして信じられるものであろうか。〔これらのひとびとが言うには〕物質は〔法則に〕従っている、[A:47]ゆえに誰も命令していない。この奇妙な推論を絶えずなすならば、ひとは無神論に陥ってしまうことになるだろう。

6 これらの法則のうち、どれが第一のそして最も一般的な法則であるかを決定するためには、宇宙の構造structureをいままで以上に知らなければならない。これらの法則は、もしかしたらすべて唯一の法則に還元されることもあるのかもしれない。このように考えたひとは、決して少なくない。事実、ニュートンは、引力という原理だけで、自然の現象のすべてをほとんど説明してしまった。〔このニュートンの事例が示している通り〕私たちは、宇宙の動因agentが運動mouvementであるということをよく理解している。運動が、あらゆる物事に共通して働いているということを、またそれなしでは何も生じず、それが物質に実に多くの様態を与えることができるということをよく理解している。ところでデカルトは、この唯一の原理〔運動〕から、全宇宙の生成を引き出すことができると主張した。〔こうして〕彼は、愚かにも特異な体系を構築してしまったのだ。そして彼は、期せずして、唯物論者たちに武器を提供してしまった。この唯物論者たちはといえば、〔彼らの体系にとって〕必要不可欠な運動を物質の属性にしてしまうことによって、物質を〔彼らの〕神に祭り上げたのである。この神が世界を創造し維持しているというわけだ。

7 諸々の天体は、みずから運動する。だがそれが、いったい何のうちで、またどの原理によって運動しているのかを私たちは知らない。太陽は、毎日私たちに恵み深い日光を送る。それは地上で、生命と運動とを維持するためである。そして太陽がないならば、自然のなかのあらゆるものが消滅してしまうのである。しかしながら、宇宙に存在する太陽も、その他の天体も、あらゆる火も、あらゆる運動も、全植物の内のたった一握りをも、また全昆虫の内で最も卑しいものをも創り出すことはできないのである。生成に関するこの深淵のなかで、哲学者たちは、あまりにも長く道を見失っていた。そしてこの深淵は、今日でもなお、不信の徒の悩みの種なのである。運動の法則によってのみ組織されたorganisé物体を構築することconstructionなど、幻想である。このような幻想については、言葉〔を弄ぶこと〕によって満足するひとびとにお任せするしかない。そして不変の真理として通用すべき仮説なるものがあるのならば、それは疑いもなく無限の胚germes infinisという仮説である。この無限の胚によって、[F:61]自然は〔様々な存在を〕一つひとつ派生させることなく発展させてゆき、そして少しずつ〔それらの数を〕増やしていったのである――この発展させ増やす仕組みmécanismeについては、私たちの知性でもそれなりに把握することができる。[C:101]この発展と増大という仕方で、自然は諸々の存在が住む大地を賑わうようにしたのである。創造主は、これらの存在を大地とともにすべて創造したのである。

8 [A:48]これらの観察は、私の探求がまず立つべき出発点を、十分に示してくれる。私は、天体が自らの軌道上を進む原因を見つけようと苦心することは決してしないであろう。また私は、植物や動物の形成を機械論や静水力学の原理に結びつけようともしないであろう。さらに、みずからの技術を色々と操作することによって、ひとりの人間を作ろうとした狂気の化学者(1)を真似ることもないであろう。

(1)「ひとりの人間」とは、いわゆる化学よって作ることができると思われていた人工生命体である小人〔ホムンクルス〕Homunculeを指す。このような考えに対して、ルソーは否定的であった。『エミール』の以下の記述を参照せよ。「組み合わせとか偶然とかということは、いつも組み合わされる元素と同じ性質のものをつくりだすだけだろうということ、有機体や生命が原子の結びつきから生じることはあるまいということ、合成物をつくっている化学者は、ルツボのなかでその合成物になにか感じさせたり考えさせたりすることはあるまいということを考えてみるがいい」(Émile, O. C., t. IV, p. 579. 『エミール』、中巻、141頁)。さらにこの部分にはルソーによる原注が付されている。「証拠がなければ、人間の不条理がそんなところまで推し進められると信じられようか。アマトゥス・ルシタヌス〔アマート・ルシターノAmatus Lusitanus〕は、ジュリウス・カミルス〔ジュリオ・カミッロJulius Camillus〕が、新しいプロメテウスみたいに、錬金術の知識によってつくりだした一インチくらいの背の高さの小人をたしかに試験官のなかに見たと言っていた。パラケルススは、『物の本性について』のなかで、そういう小人をつくりだす方法を教え、小人族、牧神、半獣神そしてニンフなどは、化学によって生みだされたのだと主張している。じっさい、そういう事実の可能性を確定するには、有機物質は火の熱に耐え、その分子は反射炉のなかでも生きていられる、と主張することのほかに、まだしなければならないことが残っているというのは、私〔ルソー〕にはあまりよくわからないのだ」(Émile, O.C., t. IV, pp. 579-80. 『エミール』、中巻、316-7頁)。

……続きは近日公開いたします。【7月9日追記:第四回、全文公開開始しました。】
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by urag | 2012-07-06 21:23 | ウェブ限定コンテンツ | Trackback | Comments(0)