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2014年 12月 28日 ( 1 )


2014年 12月 28日

注目新刊:サド『閨房哲学』新訳、など

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◎人文書院さんの新刊:サド『閨房哲学』新訳、など

閨房哲学』マルキ・ド・サド著、関谷一彦訳、人文書院、2014年12月、本体3,800円、ISBN978-4-409-13036-0
バイリンガルな夢と憂鬱』西成彦著、人文書院、2014年12月、本体2,800円、ISBN978-4-409-16096-1
イメージの根源へ――思考のイメージ論的転回』岡田温司著、人文書院、2014年12月、本体2,800円、ISBN978-4-409-10034-9
思想としてのミュージアム――ものと空間のメディア論』村田麻里子著、人文書院、2014年12月、本体3,200円、ISBN978-4-409-24099-1

★『閨房哲学』は発売済。新訳『閨房哲学』の底本は、フランス国立図書館の禁書収納室「l'Enfer」(ランフェール=地獄)で保管されている535番(第1巻)と536番(第2巻)。巻末の「訳者解説」に曰く「現在初版本と見なされているEnfer 535・536を用いることによって、当時のテクストを再現するとともに、プレイヤッド版のヴァリアントを参考にした」とのことです。口絵を含む5枚の挿絵も再現されています。「第5の対話」の中で朗読される政治的パンフレット「フランス人よ、共和主義者になりたければあと一息だ」(159-219頁)はいわば書物の中に埋め込まれた書物であり、サドの特異な倫理思想を知る上で欠かせないテクストです。2014年はサドの没後200年。10月には水声社版『サド全集』第11巻「フランス王妃イザベル・ド・バヴィエール秘史 他』(原好男+中川誠一訳)が刊行されています。書店さんで「禁書フェア」をやったらきっと耳目を惹くでしょうね。

★『バイリンガルな夢と憂鬱』は発売済。2007年から2014年にかけて公刊されてきた論文6本をまとめたもの。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。巻末の「あとがき」で西さんはこう本書の意図を説明されています。「私が本書のなかで、知里幸恵からジョン・オカダへと至る表現者たちの表面的な「一言語使用」の背後に、うごめく複数言語使用を読みとろうとしたのは、まさに「引き算をめぐる闘争」をそれぞれの局面のなかに仔細に立ち入って観察してみたいと考えたからである」(272頁)。ここで言う「一言語使用」や「引き算」というのは、デリダのLe monolinguisme de l'autre(Galilee, 1996;訳書『たった一つの、私のものではない言葉――他者の単一言語使用』(守中高明訳、岩波書店、2001年、現在品切)からの引用です。本書において西さんはデリダのこの本を「つねに意識しつづけてきたが、しかし、敢えて論の中で敷衍するという形はとらなかった」(268頁)と明かしておられます。「本書は、今後は「日本語圏」に閉じない、もっと自由自在な「比較植民地文学研究」の遂行に向けた助走である」(275頁)。

★『イメージの根源へ』は発売済。先週木曜日25日取次搬入とのことなので、書店さんによっては未入荷のお店もあるかもしれません。未公刊3篇、全面改稿1篇を含む、2007年から2014年までに公刊された諸論考16篇が掲載され、「はじめに」と「おわりに」が付されています。「はじめに」で岡田さんは本書をこう紹介しておられます。「本書は、主に美術あるいは広くイメージをめぐってここ数年、考えたり書いたりしてきたものを一冊にまとめたもので、三部の構成からなる。「絵画論」と題された第I部は文字どおり絵画にかかわるもので、〔・・・〕近年における「思考のイメージ論的転回」とわたしが名づける傾向を浮かび上がらせたいと考えた。〔・・・〕続いて「光、色、音」と題された第II部は、近年とりわけ芸術研究や表象文化論の分野で注目されるようになっている「ポスト・メディウム」と「間メディア性(インターメディアリティ)に焦点を当てている。〔・・・〕最後に、「美学論=感性論」と題された第III部では、「美学(エステティック)」の本来の語義である「感性(アイステーシス)」の問題に立ち返って、必ずしも芸術(作品)のみに限定されないテーマについて再考されている。〔・・・〕では、小著の三部をつないでいるものはいったい何か。おそらくそれこそイメージの「根源(アルケー)」としか呼びえないものであるように、私には思われる」。

★『思想としてのミュージアム』はまもなく発売。年明け配本と聞いています。著者の村田麻里子さんは1974年生まれで現在関西大学社会学部准教授。専門はメディア論、ミュージアム研究でいらっしゃいます。これまでに共著を何点か上梓されていますが、単独著は本書が初めてのようです。2012年の博士論文「ミュージアムとは何か――メディア論的考察による転回」に大幅な加筆修正が加えられたものとのことです。帯には文化庁長官の青柳正規さんと社会学者の吉見俊哉さんによる推薦の言葉が掲げられています。「新しい時代の新しいミュージアムのあるべき姿と進む方向が本書によってようやく明示された」(青柳さん)、「ミュージアムはなぜメディアなのか。歴史と理論、実践を架橋する再定義で、運営論中心の陥穽から救う。これは、博物館・美術館の解体新書だ」(吉見さん)。「ミュージアムのメディア論――研究の枠組と方法」「ミュージアム空間の思想」「「ミュージアム」から「博物館」へ」「メディア・象徴(シンボル)・メッセージ」「二一世紀におけるミュージアム空間の変容」の5章立て。目次詳細は書名のリンク先でご覧ください。美術館や博物館の空間論は、同じく知や表象の配列と構成の場とも言える「書店空間」を考える上でも非常に参考になります。


◎大著『身体の歴史』全3巻の入門篇

身体はどう変わってきたか――16世紀から現代まで』アラン・コルバン+小倉孝誠+鷲見洋一+岑村傑著、藤原書店、2014年12月、本体2,600円、ISBN978-4-89434-999-5

★発売済。A・コルバン+J-J・クルティーヌ+G・ヴィガレロ監修『身体の歴史』(全3巻、藤原書店、2010年)が扱う主題群を解説し、「身体の変容を総合的に捉える初の試み」(帯文)と謳われています。三部構成で、第一部「〈インタビュー〉『身体の歴史』とは何か」(アラン・コルバン述、小倉孝誠訳、21-46頁)は、2005年のインタビュー「ひとはいかにして自分の身体を生きる術を学んだか」の訳です。第二部「『身体の歴史』の射程」は、鷲見洋一、小倉孝誠、岑村傑の各氏による『身体の歴史』全3巻の解説です。3氏は『身体の歴史』の監訳者でいらっしゃいます。第三部「知の言説から文学の表象へ」では再び監訳者の3氏が「各巻で扱われている時代〔16~18世紀/19世紀/20世紀〕を引き継ぎながら、〔・・・〕独自のテーマにそくして身体の諸相を分析」(まえがき)したものとのこと。詳細目次は書名のリンク先をご覧ください。

★数百年のあいだにヨーロッパ(とりわけフランス)において身体をめぐる知と実践、身体観や身体技法がどのように変遷してきたのかを総合的に捉えようとする歴史学者の試みは非常に興味深いです。鷲見さんは第三部での論考「アンシアン・レジーム期の身体とその表象」でサドの『閨房哲学』を論じておられます。先にご紹介した新訳『閨房哲学』を読まれるおつもりの方はぜひこちらもご覧になってください。


◎在独アメリカ人たちが見たヒトラーの台頭

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々』アンドリュー・ナゴルスキ著、北村京子訳、作品社、2014年12月、本体2,800円、ISBN978-4-86182-5101

★発売済。原書は、Hitlerland: American Eyewitnesses to the Nazi Rise to Power (Simon & Schuster, 2012)です。巻末には「本書を読んでくれた日本の皆さんへ」も併載されています。かのキッシンジャーは本書について「巧みなストーリーテラー、アンドリュー・ナゴルスキは、当時ベルリンにいたアメリカ人ジャーナリストや外交官などの記事、日記、手紙、インタビューに丹念にあたり、この破滅的な時代の興味深い記録を書き上げた」と評しています。ナゴルスキの既訳書には『モスクワ攻防戦――20世紀を決した史上最大の戦闘』(津守京子訳、作品社、2010年)があり、20世紀西欧史を新たな視点で振り返るノンフィクション作家として知られていますが、小説も書いています。

★『ヒトラーランド』の巻頭に、ナゴルスキはこう書きつけています。「本書では、戦争とホロコーストがはじまる直前という、この特殊な状況にあったアメリカ人の視点や経験に焦点を当てている。〔・・・〕わたしは歴史的な激動のさなかには、なにが起こっているのかを正確に把握し、またそうした状況のなかで、どういう行動をとるべきかについて、道徳的に正しい意見を発信するのがどれほど難しいかを理解しているつもりだ。嵐のなかにいるときには、日々の生活はときとして、一見ごく普通に続いていく。たとえそこにあきらかに異常なことや、不条理や不正義があったとしてもだ」(19頁)。「エコノミスト」紙は本書をこう評しています、「現在の世界の謎を解き明かしたいと考えている人たちはみな、物事がいかに容易に間違った方向へ進むのかを目の当たりにして、動揺を禁じえないだろう」。

★「ニューズウィーク」誌ではこうです、「かの有名な総統が不気味なほど身近な存在に感じられた」。つまり「いま」この瞬間という怪物は巨大すぎてその気配を捉えることができず、その腐臭漂う息吹に気づいた時には「もう食われている」というのが、歴史において常に繰り返されてきた人間のあやまちというものなのかもしれません。まったく他人事ではなく・・・。
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by urag | 2014-12-28 22:55 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)