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2007年 07月 07日

ガタリとネグリの共著『自由の新たな空間』が杉村昌昭訳で世界書院から

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フェリックス・ガタリ(1932-1992)とトニ・ネグリ(1933-)の共著『自由の新たな空間』が、杉村昌昭さんの新訳で、世界書院から発売されました。原著は1985年刊"Les nouveaux espaces de liberte"で、1986年に丹生谷貴志さんの訳で、朝日出版社から「ポストモダン叢書」の一冊として刊行され、88年に同版元から新装版が出版されたことがあります。写真は左から丹生谷訳初版本、同訳新装版、そして今回の杉村訳です。

自由の新たな空間
フェリックス・ガタリ+トニ・ネグリ:著 杉村昌昭:訳
世界書院 07年7月 2,400円 46判上製カバー装206頁 ISBN:978-4-7927-2093-3

今回の新訳本には、ネグリによる「日本語版への序文(07年3月)」が新しく付されていて、そこではガタリとの出会いの思い出話が語られており、とても印象的です。ネグリは亡命先のフランスの隠れ家でガタリと交わしたやりとりについて次のように書いています。

「フェリックスも私も、カード遊びが得意ではなく、テレビも見ずに、ほかの連中が打ち興ずるのを、いっしょに立ったままながめていたものだ。しかし、部屋から一歩も出られなかったので、ほかにやることもなく、二人でよく議論をした。そして、そのとき、二人で何かを書こうというアイディアがフェリックスの頭に浮かんだ。フェリックスは二人の議論をメモして帰り、そのあと文章化した。しばらくのち、私の友人たち(保護者兼看守)が、それを持ち帰ってきた。そうして、フェリックスが最初のタイプ原稿を私に渡し、それを私が集成して送り返すというやり方で、この本のテキストの作成が始まったのである(このやり方を、フェリックスはすでにドゥルーズとの共同作業で十分に経験していた。私も、その十年後に、マイケル・ハートとともに、この同じやり方を実践した)。」

貴重なエピソードですね。訳者の杉村さんは今回、出版社からの急ぎの依頼により、一ヶ月ちょっとで訳了したそうです。「訳者あとがき」にこうあります。「老骨に鞭打って、そんな無理をしたのは、原著にざっと目を通したところ、この二〇年以上も前に書かれた本が、いまも生命力を保っていることを実感したからである」。今なお古びていないという杉村さんの感想は、私もまったく同感です。『自由の新たな空間』はこんにちも新鮮で躍動的な炎を宿し続けています。

朝日出版社版は長らく品切でしたが、じつは7月1日から紀伊國屋書店新宿本店人文書売場で始まった「朝日出版社在庫僅少本フェア」では、倉庫から発掘された新装版が一冊販売されていました。すぐに売り切れてしまったそうですが、今回の杉村訳の刊行とほぼ同時期に購入できた方は実に幸運だったと言えるでしょう。

さて最後に、本書の冒頭の一節を、丹生谷訳と杉村訳で読み比べてみましょう。

杉村訳:「共産主義」という言葉には汚辱が刻印されている。なぜだろうか? この言葉は集団的創造を可能にする労働の解放を指し示すものであるにもかかわらず、人間が集団主義の重圧のもとに破壊されるという事態の同義語になってしまったからだ。それに対して、われわれは、共産主義とは、個人的・集団的な特異性の解放への道であると考える。すなわち、思想と欲望の統制的編成とはまったく逆のものである。

丹生谷訳:共産主義という言葉はある忌まわしさを帯びている。何故か? 共産主義という言葉は文字通り労働を集団的創造の可能性として解放するということを示唆するが、今や、人はそこに集団の住立つによる個的人間性の圧殺の同義語を読み取っているからである。ところでわれわれは共産主義を次のように解する。共産主義とは個人的かつ集団的な特異/固有性〔サンギュラリテ〕を解放する試みである。つまり、われわれは共産主義を、人がそこに読み取ろうとするもの、すなわち、欲望と思考の収奪の体制とは完全に対立するものとして解する。

丹生谷訳のなかほどに登場する「ところで」のインパクトをもっとも的確に受け取った一例は、高円寺のアクティヴィスト、山の手緑さんと矢部史郎さんの98年の対談に見ることができるのではないかと思います(「高円寺ネグリ系、たまには他人の運動について語る」、『現代思想』98年3月号特集「ユーロ・ラディカリズム――アントニオ・ネグリの思想圏」所収、223頁)。

山の手:『自由の新たな空間』は、たしか「ところで」という書き出しで始まってて、
矢部:それだ、「ところで」!
山の手:これがすごい。いきなり「ところで」。歴史が動く感じ。それまでのあらゆる歴史をだいなしにする「ところで」。
矢部:っていうか、歴史を獲得するために歴史を忘却する「ところで」
山の手:っていうか、私の歴史はあなたの歴史とは別物ですよ、の「ところで」
矢部:っていうか、いまちょっとやりたい企画あるんだけどさあ、の「ところで」
山の手:っていうか、わたし動物なんで場当たりで動いてます、の「ところで」!
矢部:動物!

お二人の自由な引き取り方が痛快ですね。丹生谷さんの訳は杉村さんのそれとはまた違った魅力があるように思います。古本屋さんで見かけたらぜひ購入してみてください。お奨めします。
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by urag | 2007-07-07 23:14 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
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