2006年 06月 04日
注目の単行本はまず何と言っても『原典 ユダの福音書』です。原書のジャケットデザインを日本語版でも流用したせいか、どうもいまひとつ安っぽい感じがして若干の「いかがわしさ」を喚起しているあたりが、やや残念です。個人的な感想では、岩波書店の『ナグ・ハマディ文書』や聖書新訳ばりに地味なデザインが好ましかったと思っています。 今回の翻訳は、ロドルフ・カッセルとマービン・マイヤー、グレゴール・ウルストがコプト語版「ユダの福音書」をまず英訳し、その英訳を日本語訳したいわば「重訳」版になります。英訳の際に、翻訳協力としてフランソワ・ゴダールが参加しています。おそらく直訳的な部分を、より一般読者に向けて分かりやすいものにするための舵取りをこの人物が行ったのかなと想像できます。 英訳者たちはそれぞれ小論を書いています。カッセル(ジュネーヴ大学名誉教授)による「チャコス写本と『ユダの福音書』」、ウルスト(アウグスブルク大学教授)による「リヨンのエイレナイオスと『ユダの福音書』」、マイヤー(チャップマン大学教授)による「『ユダの福音書』とグノーシス主義」がそれです。 これにバート・D・アーマン(ノースカロライナ大学教授)によるテクスト「よみがえった異端の書――『ユダの福音書』の驚くべき教え」が加わり、本の冒頭にマイヤーによる「はじめに」、巻末には補注と参考文献を付して、一冊となっています。 日本語訳の訳者陣は、藤井留美、田辺喜久子、村田綾子、花田知恵、金子周介、関利枝子の各氏で、監修は高原栄さんが行っています。恥ずかしながらこの方々がいわゆるプロの翻訳者なのか、専門研究者なのか存じ上げません。 こんなにも早く原典が読めるようになるのはとても嬉しいですが、私は今回の一連の出版については本音を言えばナショナル・ジオグラフィック協会のやり方があまり好きではありません。 関連書の版権を一手に担い、機関誌での特集、原典発見からこんにちまでの遍歴を紹介するエピソード本、そして原典訳と手がけ、テレビ特番なども作りました。それらが「キリスト教史を揺るがす衝撃の発見」というような謳い文句でどちらかと言えばスキャンダラスに宣伝されて、あまりにもビジネス臭がきついように私には思えるのです。 プロモーションの仕方が気に食わないとはいえ、すぐれたグノーシス文書の刊行という意味では一読者として歓迎しています。ゆくゆくは、日本の研究者がコプト語版から日本語へ直接翻訳を試みる機会もあるかもしれません。楽しみです。 「ユダの福音書」は、発見されたチャベス写本の保存状態に難点があったため、全貌を現すには至っていません。それでも大筋のストーリーは確認できます。十二使徒に対してイエスは「お前たちは私のことを分かっていないし、堕落している」と糾弾し、誠実で求道心のあるユダにだけ、秘密の教えを語ります。秘密の教えというのはグノーシス主義の思想です(本書が正典ではなく偽典ないし外典と見なされるであろう理由はこの思想内容にあります)。イエスはその思想に沿って肉体から魂を解放させるために、自身を殺させるべく敵へ売り飛ばすようユダに密命を与えるのです。 チャベス写本には解読不可能な箇所が多くあります。もしもほかの写本が今後発見されるとすれば、いよいよ『ユダの福音書』の全貌へ私たちは近づくことになるでしょう。それがいつになるのかはわかりません。私たちが死んだ後かもしれません。 原典 ユダの福音書 ロドルフ・カッセル+グレゴール・ウルスト+バート・D・アーマン+マーヴィン・メイヤー編訳著 / 日経ナショナルジオグラフィック / ¥1,890 / 46判190+22頁 / ISBN4-931450-61-X ルー・ザロメ回想録 ルー・アンドレーアス・ザロメ(1861-1937)著 / 山本尤訳 / ミネルヴァ書房 / ¥3,990 / 46判252+16頁 / ISBN4-623-04606-0 フランツ・ファノン 海老坂武(1934-)著 / みすず書房 / ¥3,570 / 46判342頁 / ISBN4-622-07215-7 ロラン・バルト著作集 6 テクスト理論の愉しみ ロラン・バルト(1915-1980)著 / 野村正人訳 / みすず書房 / ¥5,250 / A5判352頁 / ISBN4-622-08116-4 ジョイスのパリ時代――『フィネガンズ・ウェイク』と女性たち 宮田恭子(1934-) / みすず書房 / ¥3,780 / 46判318頁 / ISBN4-622-07227-0 サイボーグ・エシックス 高橋透(1963-)著 / 水声社 / ¥2,100 / 46判180頁 / ISBN4-89176-578-X 板東俘虜収容所――日独戦争と在日ドイツ俘虜 富田弘(1926-1988)著 / 法政大学出版局 / ¥6,300 / A5判314+37頁 / ISBN4-588-32124-2 ケプラー疑惑――ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録 ジョシュア・ギルダー(1954-)+アン=リー・ギルダー著 / 山越幸江訳 / 地人書館 / ¥2,310 / 46判305頁 / ISBN4-8052-0776-0 トーキョー・アンダー 内山英明(1949-)写真+杉江松恋(1968-)文 / グラフィック社 / ¥2,940 / A4変型判144頁 / ISBN4-7661-1701-8 ハンス・ベルメール――増補新版・骰子の7の目・シュルレアリスムと画家叢書 ハンス・ベルメール(1902-1975)画+サラーヌ・アレクサンドリアン著/ 澁澤龍彦訳 / 河出書房新社 / ¥3,990 / A4変型判92頁 / ISBN4-309-71562-1 アレクサンドル・ソクーロフ みやこうせい写真・文 / 未知谷 / ¥2,100 / A5判141頁 / ISBN4-89642-158-2 ◎注目の選書と文庫 ついに文庫化された『ロベルトは今夜』については一言触れなければなりません。私は最初、今回の本は、いわゆる「ロベルト三部作」の『歓待の掟』の文庫化かと思っていました。しかし現物を確認したところ、三部作の内、第一作「ナントの勅令破棄」と第二作「ロベルトは今夜」のみの収録でした。 この二作は1960年に遠藤周作(1923-1996)と若林真(1929-2000)の共訳名義で河出書房から『ロベルトは今夜』として刊行されました。翻訳の実作業をしたのは若林さんで、遠藤さんは原稿に目を通したりいくつかの指示を出したりしたそうです。1959年の冬、遠藤さんはパリでクロソウスキーに会い、その時の様子が「クロソウスキー氏会見記」として書き残されています。 その後、1968年に第三作「プロンプター」を加えた三部作完訳版が『ロベルトは今夜』として同じく河出書房から刊行されます。シリーズ「人間の文学」の30巻目です。第三作の翻訳には永井旦(1935-)さんが加わり、遠藤さんは辞退されたのでしょう、共訳者のクレジットから名前が消えました。さらに本書は原題通りの『歓待の掟』という書名になって、1987年に新版が刊行されます。 このたびの文庫化に際して『歓待の掟』を昔のように『ロベルトは今夜』に戻したのかな、と購入する前は勘違いしていました。しかし第一、第二作のみの収録ということで『ロベルトは今夜』としたのだということに、現物を買ってから気づきました。 なあんだ、三部作まとめて一冊というほうがよかったのになあとも思いましたが、第三作の「プロンプター」はなにせ第一、第二作をあわせた分量とほぼ同じくらいのボリュームがあります。『歓待の掟』をそのまま文庫化したら、正味290頁の今回の本が倍近い厚さになってしまうのです。もしそうなったら、値段をつけづらいところだと推察します。 それに、第三作の共訳者である永井さんはまだご存命ですから、あるいは改訳されて、そのうち「プロンプター」単体で文庫化されるということもありうるのかもしれません。 今回の『ロベルトは今夜』では、遠藤さんの「会見記」、87年版用に当時アップデートされた若林さんによる「解説」、そして新たに鈴木創士さんによる「虚構にけりをつけるために――解説にかえて」という文庫版解説が加えられています。 クロソウスキーの文庫は『ニーチェと悪循環』(ちくま学芸文庫)、『古代ローマの女たち』(平凡社ライブラリー)に続いて今回で3点目です。 ロベルトは今夜 ピエール・クロソウスキー著 / 若林真+永井旦訳 / 河出文庫 / ¥924 / 文庫判296頁 / ISBN4-309-46268-5 夢の宇宙誌 澁澤龍彦著 / 河出文庫 / ¥756 / 文庫312頁 / ISBN4-309-40800-1 パリ感覚 渡辺守章著 / 岩波現代文庫 / ¥1,260 / 文庫判391頁 / ISBN4-00-600159-2 ギリシア神話入門――プロメテウスとオイディプスの謎を解く 吉田敦彦(1934-)著 / 角川選書(角川学芸出版) / ¥1,680 / B6判301頁 / ISBN4-04-703393-6
by urag
| 2006-06-04 23:41
| 本のコンシェルジュ
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Comments(4)
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じゅん
at 2006-06-07 21:16
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こんばんわ
『ロベルトは今夜』の文庫化、私も楽しみにしてたんですよ。「プロンプター」や「『歓待の掟』前書き・後書き」も早く文庫で読めるようになるといいですね。 あと、同じ河出文庫から来月にはアルトーの『神の裁きと決別するために』も出る予定みたいです。すごい… ついでにアドルノの『美学理論』も文庫化しちゃってください!文庫でなくてもいいのでとにかくフツーに買えるようにしてくださいっ!!ってのが私の切なる願いです。 お騒がせしました。
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urag at 2006-06-09 00:12
じゅんさんこんにちは。「プロンプター」が文庫化される場合は仰る通り、『歓待の掟』の前書と後書も収録していただきたいところですね。そうでないと、品切の『歓待の掟』単行本の古書価格が高くなりそうです。アルトーは本当に楽しみですよね。 鈴木創士さんによるものと思われる『ヴァン・ゴッホ』の新訳も併録されるとのこと、粟津訳(ちくま学芸文庫)と読み比べをしたいですね。アドルノの『美学理論』(『美の理論』)およびその補遺については、河出さんにお尋ねになると朗報が聞けるかもしれませんよ(以下自粛)。
先日、日経NG社主催の講演会に参加しましたが、おっしゃるとおりで自分もあの誇大広告的手法が気に入らないひとりです。講演会については後日書くつもりですが、邦訳の訳者については日経NG社内翻訳者とみてまちがいないと思います(日本語版NGにも同名の訳者がクレジットされたりする場合があるので)。
講演会会場では当然のように(?)関連商品の販売と、講演者マーヴィン・マイヤー教授のサイン会まで開くという盛況ぶり。ためしにDVDを買ってみましたが、内容は…一言で言えば「ユダ(ユダヤ)への偏見をなくそう」みたいなものでした。そもそもグノーシスの一派だったらしいカイン派は聖書で悪者扱いされている人物を、それこそ楽園のヘビからユダまですべて高く評価するという「価値観の逆転」をもとめたカルトのようですから、福音書の主人公はユダだろうとカインだろうとヘビだろうと関係ないわけです。それを反ユダヤ主義に結びつけるというのはどう考えてもアンフェアなやり口だと思いました(ビデオにはヒットラーまで出てきて、見る気も失せてしまいました)。異端がもてはやされる時代性というのもあるかもしれませんが。
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urag at 2006-07-19 18:58
Curraghさんこんにちは。ご教示をありがとうございます。DVDの内容を伺いますと、やはりNGのやりかたに違和感を覚えざるをえない感じがします。どこまで関係する話か分かりませんが、イスラエルの強硬な軍事行動に対するアメリカの擁護と支援の背景と相通じる何かを感じるのは気のせいでしょうか。
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