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URGT-B(ウラゲツブログ)

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2005年 11月 04日

書物の脱製本化をめぐって

本日付けでホットワイアードに掲載された、南優人さんの記事「米アマゾン、本をページ単位でばら売りへ」についてコメントすべきことが多々あるのですが、今日は他の用事があって詳しく書けません。また明日にでも今日のエントリーに書き加えます。(H)

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11月5日追記。

さて、本のページ単位のばら売りについて。版元ではなく書店からこうした潮流が起こったことは、おそらく歴史的に特筆すべきことだと思う。読者の便宜を考えればこうしたサービスはあってもおかしくない。なのに、出版社サイドはなぜこうしたサービスに先鞭をつけなかったのか。

たとえば雑誌のコンテンツをオンラインで有料提供するということは出版社はやってきたけれども、書籍のコンテンツのばら売りはやっていない(いや、私が知らないだけかもしれない*1)。販促のための無料の「部分立ち読み」は推進してきたけれども、ページ単位で売るという発想とは違う。

ページ単位で売るということと、著者や出版社の「一冊の本」として売るという意図とは、相容れないものがある。書籍はページの最初から最後までのまるごと一冊という全体性がひとつの分割不可能なパッケージである。そんな考えが著者にも出版社にも強いからだろう。

たしかに著者にしてみれば、最初から最後まで読んで欲しいという期待はある。拾い読みして、あとは棄ててもらってもいい、とは考えていないだろう。ただ、消費の観点から言えば、必ずしも「一冊の本」として所有してもらわなければならないわけではない。

「一冊の本」として購買されないというのはしかし出版社にとっては一種の危機である。パッケージが売れなくなって、むき出しのコンテンツがばら売りされるとなると、一冊ごとの収益ではなく、別の観点から採算を考えなければならなくなる。これは冒険だ。

ページ単位の販売になれば便利だなと思うのは、学術系雑誌や講座ものや論文集の記事単位の販売だ。一冊丸ごと買う気はしないが、自分の読みたい記事や論文だけを買う。それは一読者としては大いに喜ばしい。

さらに願わくば、自分で選んだ記事や論文だけをオンデマンドで一冊に製本して届けてくれるなら、もっと嬉しい。本を横断し、版元や著作権者を横断し、自分だけのための、カスタマイズされた本が作れたら。さらに装丁なども自分の好みで選択できたら。

コンテンツのばら売りはそうした「未来」に向けた第一歩であってほしい。いや、むしろそうした一歩でなければ読者にとってたいしたうまみはない。ただ、出版社側は、そうした変化に迅速に対応できるのだろうか。著者は対応できるのだろうか。著作権や版権の整備にも影響が及ぶのではないだろうか。変化を面倒くさがる人々はどこにでもいる。

「一冊の本」はかくして脱製本化の時代に本格的に突入する。デジタルコンテンツの助走時代から、また一歩、進んでいくことになる。モノとしてのフェティシズムがそれによって滅ぶわけではないけれども、時代の流れがそうであるならば、「モノとしての本」へのまなざしはゆっくりと衰えていかざるをえない。

以上は書きかけのメモの一部にすぎませんが、恥を忍んで公開します。(H)

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11月6日追記

*1「たとえば雑誌のコンテンツをオンラインで有料提供するということは出版社はやってきたけれども、書籍のばら売りはやっていない(いや、私が知らないだけかもしれない)」と書いたことについて、ぜひとも言及しておかねばならない事例がある。

いわゆる従来の出版社とは趣きを異にしているけれども、たとえば、特定非営利活動法人のコピーマート研究所を介して国際高等研究所学術出版が行っている「出版」活動では、ページ単位ではないが、論文ごとで買えるし、論文集の印刷製本のサービスも行っている。

彼らは1999年から活動を開始しているけれども、一般的な業界人は彼らのことをどれくらい認知できているだろうか。

当ブログ11月6日付けの「今週の注目新刊」で参照している『臨床哲学の可能性』などは一般書店でも扱いたいのではないだろうか。国際高等研究所学術出版の報告書ではほかに『安全学』といった論文集もあり、廉価なオンライン版(PDF版)のほか、少しそれより高価になる書籍版(印刷製本版)がある。

by urag | 2005-11-04 22:11 | 雑談 | Comments(0)


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