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2015年 08月 03日

注目近刊:『現代暴力論』『ツァラトゥストラかく語りき』『呪文』、など

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現代暴力論――「あばれる力」を取り戻す
栗原康著
角川新書 2015年8月 本体800円 新書判272頁 ISBN978-4-04-082034-7

帯文(表1)より:気分はもう、焼き打ち。いま、最注目の政治学者が日本の“隷従の空気”を破壊する! 『大杉栄伝』で「第五回いける本大賞受賞」「紀伊國屋じんぶん大賞2015第6位。
帯文(表2)より:この現代社会で、あえて暴力を肯定しなおす。「暴力とは、自分の人生を自分でかたちづくることであり、自律的に生きていこうとすることである」
帯文(表3)より:なぜ個人も家庭も社会も我慢を強いられてしまうのか?を平易に解き明かす。「国家は征服からはじまった/奴隷制は労働の起源である/負債による労働管理はどんな職種でもおこなわれるようになっている/生きのびるための恋愛か、それとも恋愛をして生きるのか?/テロ対策は国家によるテロリズムである/大義は「犠牲と交換のロジック」につながる
帯文(表4)より:SurviveではなくLiveをつかめ!! 「いま、わたしたちは、徹底的に生きのびさせられている。原発推進派にしても反対派にしても、よりよく生きのびようとあらそっているだけのことだ。(中略)生きのびるということは、死んだように生きるのとおなじことだ。他人によって生かされるのではなく、自分の生を生きていきたい。どうしたらいいか。暴力だ。暴力しかない。」
カバーソデ紹介文より:いま、わたしたちは、徹底的に生きのびさせられている。生きのびさせられるために、暴力をふるわれつづけてきた。そろそろ、この支配のための暴力を拒否したっていいはずだ。あえて現代社会で暴力を肯定し直し、“隷従の空気”を打ち破る!! 最注目のアナキズム研究者が提起する、まったく新しい暴力論。「わたしたちは、いつだって暴動を生きている」

目次:
はじめに――暴力を肯定しなおす
第一章 国家の暴力――我々は奴隷根性を植えつけられた
第二章 征服装置としての原子力――生きることを負債化される
第三章 生の拡充――支配のための力を解体する
第四章 恋愛という暴力――習俗を打破する
第五章 テロリズムのたそがれ――「犠牲と交換のロジック」を超えて
おわりに――わたしたちはいつだって暴動を生きている
お薦め文献
主要参考文献

★まもなく発売(8月7日予定)。以前、当ブログでは栗原さんのことを、90年代の「だめ連」、ゼロ年代の「素人の乱」に連なる、テン年代の脱力系アクティヴィストの新星だとご紹介しました。今回の新作は脱力系ならではの柔らかさやしなやかさがありつつも、むしろかつてないほど「力」がこもっているポテンシャルの高い書き下ろしになっています。力んでいる、というのではなくて、ここには自由の肯定の思想があり、自己の解放の道筋があるのです。それを本書では大胆に「暴力」と呼んでいますが、危うさを振りまこうというよりは、帯文にある通りこの国に瀰漫する「隷従の空気」を吹き飛ばすものとなっています。これまでの栗原さんの著書のエッセンスとも言える主張が5つの筋に沿って提出されており、今までのどの著作よりも直截的で大胆で、かつ分かりやすく、コンパクトにまとまっています。新しい本が出るたびにこれこそ栗原さんの代表作だと感じてきましたが、今回の新書こそ、流通的に言っても内容的に言ってももっとも広い読者へと届く、栗原さんの新たな出世作になるに違いありません。

★「ひとの生きかたには、はじめから目的や方向性がさだめられているわけではない。そのつど、ああしたい、こうしたいと方向を変えていくほうがふつうである。生きたいをおもうことは、そうやって縦横無尽に変化していく生きる力のようなものであり、ほんらい、それをあばれてゆく力、暴力というのだろう」(14頁)。「まわりにどうみられるのか、どういわれるのかなんて関係ない。いつだってどこにいたって、なんにもないところから出発する。ゼロから思索し、ゼロから行動すること。それが自由だ。これからなにをするのか、しないのか、いっさいの将来が無限にひらかれている」(118頁)。本書では「生の負債化」や「奴隷根性」といった端的な言葉を使って、この社会で生きていくことがいかに様々な不自由や束縛や思いこみに満ちていて、自分で自分を地べたに這いつくばらせる結果となっているかに気付かせてくれます。凝り固まった価値観や道徳心から自由になること、自由を恐れないことへと本書は読者を導いていきます。

★余談ではありますが、本書の帯のカラー写真では俳優のような映りになっていて、カバーソデの写真はさらに渋く、ご本人を知る人は思わず噴き出さずにはいられないでしょう。ふだんは至って穏やかかつ低姿勢な方で、こんな風に澄ましている姿は見たことがないです(もちろん褒めて言っています)。確かに、内容的に言って本書の栗原さんは今までで一番決まっているし、格好いいです。格好つけているのではなく、生の不穏さをありのままに受け止めて生きようとしている、という意味で。だめっぷりも隠さずに書いていますが、読者に訴えかける熱があります。最後などは「ごきげんよう!」などとやけに爽やかです。この「ごきげんよう」をいつもの栗原さんの声で脳内再生しようとすると、愛すべき栗原さんの人の良い笑顔を思い出して、またつい噴き出してしまいます。暴力肯定なんて物騒だと思う方もおられるかもしれませんが、ある意味もっとも暴力から遠そうに見える著者がまじめに、絶妙な太刀筋で常識の縫い目を一刀両断にし、鬱屈した日常から読者を解放してくれる、という本なのです。

★ちょうど本書を読んでいる時に、河出書房新社さんの3つの近刊に触れる機会を得たのですが、偶然というか何というか、この3冊はそれぞれ独特な仕方で栗原さんの『現代暴力論』の問題圏と繋がっていることを感じました。たとえば『ツァラトゥストラ』を訳した生田長江は大杉栄の友人ですし、大杉がほかならぬ『ツァラトゥストラ』に言及している文章を『現代暴力論』は肝心のポイントとして提示しています。ニーチェもアナキズムも生を肯定しますし、力を肯定しますから、気脈を通じる部分があると言っていいのではと思います。

ツァラトゥストラかく語りき』フリードリヒ・ニーチェ著、佐々木中訳、河出文庫、2015年8月、本体1,200円、文庫判568頁、ISBN978-4-309-46412-1
イデオロギーの崇高な対象』スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、河出文庫、2015年8月、本体1,400円、文庫判440頁、ISBN978-4-309-46413-8
呪文』星野智幸著、河出書房新社、2015年9月、本体1,500円、46判248頁、ISBN978-4-309-02397-7

★『ツァラトゥストラかく語りき』はまもなく発売。佐々木中さんによるニーチェの待望の翻訳です。底本は白水社版全集と同じグロイター版(ネット上では理想社版=ちくま学芸文庫版の底本であるクレーナー版の方が新しいと書いておられる方がいるようですが、それは全くの逆で、クレーナー版の方が古いです)。巻末の訳者あとがきはわずかに7行で、底本情報が4行、翻訳に関する凡例的な断り書きが3行で、一切無駄な記述がありません。翻訳の経緯などを知りたい気もしますが、それすらも書かれていないということは、訳文の提示こそが第一であることを示していると思います。『ツァラトゥストラ』の翻訳には文庫だけでも岩波文庫、新潮文庫、中公文庫、ちくま学芸文庫、光文社古典新訳文庫がそれぞれ入手可能です。佐々木さんの訳は単行本も含め、今までで一番若い世代による完訳です。『ツァラトゥストラ』は大著ですが、それぞれの章はさして長くありませんから、少しずつ読み進めることができます。「世界は多くの汚物を垂れ流す。そこまでは本当だ。だが、だからといって世界そのものは決して巨大な汚物ではない」(351頁)。ひとつひとつの言葉が現代人の胸に刺さります。

★『イデオロギーの崇高な対象』はまもなく発売。同出版社から2000年に刊行されたものの文庫化です。文庫化にあたり、訳者あとがきが改められ、大澤真幸さんが解説を書かれています。ジジェクが欲望や権力や主体について語るとき、そこでは彼はまるで手品師が袋を裏返すのようにして縫い目を示し「ほら、何の種もないよ」と暴露しているように感じます。「現代のイデオロギー現象(シニシズム、「全体主義」、民主主義の脆弱な状態)を理解する」(23頁)ことへと向けられた本書は、『現代暴力論』が志向するようなアナキズム的アプローチとは必ずしも合致しないのですが、現代批判としては互いに照らし合う関係にあると思われるのです。

★9月上旬に単行本化される『呪文』(書影はプルーフ版です)についてはすでに多くの識者が高い評価を送っていますので、贅言を要しないと思います。鴻巣友季子さんの端的な評「町おこしディストピア小説」というのがぴったりな感じがします。『現代暴力論』と並行して読んだためか、この2作が天秤の右端と左端にそれぞれあるもののように感じられました。振れ方によっては一方に、あるいは他方に傾いていく心地がするのですけれども、ともにこの時代の「暴力」や「生死」をめぐるアクチュアリティを表現しています。それが自由へと羽ばたくのか呪いとして拡散していくのかは実は紙一重のところがあるように感じました。偶然な読書の効果に過ぎないかもしれませんが、星野さんは栗原さんをどう読み、栗原さんは星野さんをどう読むのか、強い興味が湧いてきます。

★さらに言えば、ジジェクの次の言葉は『現代暴力論』においても『呪文』においても問題視されている当のものではないかと感じました。「自分たちの決断にはじゅうぶん根拠がある、それは自分たちを目標へと導いてくれる、と信じ込まなければならないのだ。真の目標はイデオロギー的態度そのものの一貫性である、ということに彼らが気付いた瞬間、効果は自滅する」(164頁)。

★このほかにここ最近では次の近刊や新刊との出会いがありました。

『ドイツ映画零年――散文の時間』渋谷哲也著、共和国、2015年8月、本体2,700円、四六変判上製308頁、ISBN978-4-907986-10-0
『小学館の学年誌と児童書』野上暁著、論創社、2015年8月、本体1,600円、46判並製220頁、ISBN978-4-8460-1456-8
歩兵は攻撃する』エルヴィン・ロンメル著、浜野喬士訳、田村尚也・大木毅解説、作品社、2015年8月、本体3,200円、四六判上製528頁、ISBN978-4-86182-483-8
増補新版「物質」の蜂起を目指して――レーニン、〈力〉の思想』白井聡著、作品社、2015年7月、本体3,200円、四六判上製672頁、ISBN978-4-86182-535-4
川村湊自撰集3 現代文学編』川村湊著、作品社、2015年7月、本体2,800円、46判上製418頁、ISBN978-4-86182-516-3

★『ドイツ映画零年』はまもなく発売(8月8日予定)。シリーズ「散文の時間」の最新刊です。帯文に曰く「ナチスのプロパガンダ映画を撮ったリーフェンシュタールをはじめ、政治や犯罪と融合した思想性にこそ魅力を放つドイツ映画。ヴァイマル時代の古典から、戦後のファスビンダー、ストローブ=ユイレ、そして移民映画の数々にいたる《映像の世紀》の検証を通して映画史の顚覆を謀る映像論の集成」。本書は著者にとって「私的映画史のいわば中間総括」(18頁)であると位置づけられています。「この本で大きく取り上げている対象は二つある。一つは、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーについて幅広い視野で考察しようとするもの、もう一つは、レニ・リーフェンシュタールの、とりわけ晩年の活動から死後の評価をめぐるものである。それ以外の文章は、さまざまな映画や舞台について、ときどきに書き下ろした論文やエッセイである。とくにフリッツ・ラング、ドキュメンタリー作品、近年のトルコ系移民監督の作品の比重が大きい」(9頁)。今月は本書に続けて、羅永生『誰も知らない香港現代思想史』(丸川哲史+鈴木将久+羽根次郎編訳)が15日頃発売だそうです。

★『小学館の学年誌と児童書』はまもなく発売。小田光雄さんによるインタビュー・シリーズ「出版人に聞く」第18弾です。帯文はこうです。「『小学一年生』から見た戦後出版史。1967年に小学館に入社した著者は、学年誌を皮切りに、童話・子ども百科・文芸書の編集者として手腕を発揮するが、児童文学者としても活躍の場を広げてゆく。戦後の子どもの遊びから学年誌、児童文学を語る」。著者は評論家、作家としても活躍されています。興味深い話はたくさんあるのですが、特に就職活動の話は面白いです。「中学生の頃から新聞記者か編集者になると決めていましたので、当然のごとく出版社と新聞社を受けた。/ところが出版社は想像以上に狭き門で、河出書房は学校推薦、もしくは作家の推薦がなければだめで、岩波書店も同様だった。それで筑摩書房を受けたら、一人採用のところに六百人ぐらいが押し寄せ、これはとても無理だと思ったら、案の定受からなかった」(55頁)。このあとも苦難が続き大学を留年して翌年もう一度活動をし、講談社に入りたかったけれど落とされてなぜか小学館に。こうした経緯はその後のご活躍を思えば何か運命的なものを感じさせます。

★『歩兵は攻撃する』『増補新版「物質」の蜂起を目指して』『川村湊自撰集3 現代文学編』はいずれも作品社さんの新刊で発売済。特に注目したいのはドイツ国防軍元帥ロンメル(1891-1944)の著書の本邦初訳となる『歩兵は攻撃する』です。原書は、1937年刊行のInfanterie greift an: Erlebnis und Erfahrungで、底本は同年刊行のフォッゲンライター版とのことです。当時50万部を記録したというベストセラーが世紀を越えて日本語でも読めるようになったことは大きな驚きです。ノンフィクションや小説、コミック、写真集、映画など類書は数多いのですが、ロンメル自身の著書は訳されずにいただけに、画期的なことです。ロンメルの書簡を活用したジョン・ピムロット『ロンメル語録――諦めなかった将軍』(原題Rommel: In His Own Words;岩崎俊夫訳、中央公論新社、2000年)という既刊書がありましたが現在品切。『歩兵は攻撃する』は第一次世帯大戦での経験を記したもの。帯文を借りると「“砂漠のキツネ”ロンメル将軍自らが、戦場体験と教訓を記した幻の名著」です。収録されているロンメル直筆の戦況図は82枚に上ります。著者の実像に迫る、大木さんによる解説「ロンメル像の変遷」もたいへん参考になります。

★『増補新版「物質」の蜂起を目指して』は、2010年5月に刊行された本書初版に、巻頭の「増補新版まえがき――なぜ、あなた方はレーニンを読まないのか?」と、初版刊行後に書かれた二つのテクストを付録として追加したものです。付録は「われわれにとっての『国家と革命』」(2011年に刊行されたレーニン『国家と革命』講談社学術文庫への解説)と、「二一世紀世界の“欲望”として再生するレーニンのユートピア」(同じく2011年に刊行されたネグリ『戦略の工場』作品社への解説)です。『川村湊自撰集3 現代文学編』は自撰集全5巻の第3回配本。帯文に曰く「中上・津島や両村上など同世代作家への考察を軸に第三の新人、内向の世代から批評まで、第一線の文芸批評家として格闘した同時代文学への精華」とのことです。今回もまた巻末の初出一覧を兼ねた著者自身による解題がざっくばらんで楽しいです。村上春樹論である「耳の修辞学」について、もともとはボツになった原稿で稿料を貰っておらず「何回も活字化されたわりには、一番稼ぎの悪い原稿でもある」とお書きになっておられます。次回配本は第4巻「アジア・植民地文学編」で、今年10月の発売が予定されています。
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by urag | 2015-08-03 02:44 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(4)
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Commented by 久野広 at 2015-08-13 09:57 x
『現代暴力論』は、貴社刊行の『絶望論』(廣瀬純)と合わせて読まれるべきかなと思います。
そう思って読み直しているところで、川内原発の再稼働があり、我々は絶望が未だ足りなかったのかと思い知らされました。
徹底的な絶望から、『現代暴力論』でひかれている『はだしのゲン』の絶望(無希望)から、もう一度、あるいは永遠に考え続ける必要があります。
ふと気づけば、栗原さんは、廣瀬純さんと同い年、佐々木中さんの次の世代として、瞠目すべき思想家が繋がっていくことに興奮します。
Commented by urag at 2015-08-13 10:44
久野広さんこんにちは。確かに「絶望がいまだ足りない」のかもしれません。某取次問題の渦中にいる一版元としても身近に感じる命題です。70年代生まれの皆さんは早い方では90年代以降続々とデビューされていますね。分野にとらわれず雑多に挙げてみると、たとえばこんな感じです。

1970年生:萱野稔人、外山恒一、小川てつオ
1971年生:東浩紀、北田暁大、廣瀬純、森川嘉一郎、前田塁、山本貴光、矢部史郎、山野車輪、門倉貴史
1972年生:桜井誠
1973年生:佐々木中、速水健朗
1974年生:國分功一郎、松本哉
1975年生:平野啓一郎、雨宮処凛、中島岳志、赤木智弘
1976年生:川田龍平、鈴木謙介、大澤信亮
1977年生:白井聡
1978年生:千葉雅也、坂口恭平、宇野常寛
1979年生:栗原康
1980年生:濱野智史
Commented at 2015-08-13 12:31 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by urag at 2015-08-13 17:36
いえいえ、どうぞお気になさらず。


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