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2015年 06月 21日

注目近刊:『吉本隆明全集9[1964‐1968]』晶文社、など

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吉本隆明全集9[1964‐1968]
吉本隆明著
晶文社 2015年6月 本体6,300円 A5判変型上製568頁 ISBN978-4-7949-7109-8

帯文より:人と社会の核心にある問題に向けて、深く垂鉛をおろして考えつづけた思想家のすべて。政治的混迷の季節に虚飾にまみれたマルクスを救出するという緊張のもと書かれた『カール・マルクス』と、「自立」を基礎づける諸論考を収録。

★まもなく発売(6月26日発売予定)。第6回配本です。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。間宮幹彦さんによる巻末解題によれば、一番最後に収められた「略年譜」が全集初収録となるようです。投げ込みの「月報6」には、鹿島茂さんによる「違和感からの出発」と、ハルノ宵子さんの「小さく稼ぐ」が収められています。

★鹿島さんは「言葉を使うということは「他人の言葉」を使うことにほかならない」(2頁)と指摘したあと、こう述べておられます。「大部分の人は「他人の言葉を使う」ということになんの違和感も感じない。違和感を感じなければ感じないだけ、他人の言葉を上手に話せるし、上手に書くことができる。/ところが、ごくまれにだが、「他人の言葉を使う」ことに強い違和感を感じる人が現れる。他人の言葉で自分が言いたいことを言おうとすると、なにか引っ掛かるものを感じ、本当に自分が言いたかったのはこんなことじゃないと思うのだ」(同)。吉本隆明は「「他人の言葉」では表現しえない「本当のこと」を言おうともがいた詩人であり、その方法論を著作に応用した」(3頁)のだ、と鹿島さんは書きます。

★こうしたいわば独立独歩の姿勢を、本巻の随所から強く感じる読者は多いのではないかと思います。たとえば1965年発表の「自立の思想的拠点」には次のような文章があります。

「〈プロレタリアート〉とか〈階級〉とかいう理念の言葉が、生命をふきこまれるためには、この言葉の現実にたいする水準と、幻想性にたいする水準とがはっきりと確定されていなければならない。ルカーチに象徴される古典マルクス主義の哲学では、はじめから生命をふきこむ余地がない言語思想が支配しているのである。/わたしが、これはおかしいこれはおかしいと感じながら批判的にかかわってきた世界思想は、事実と言葉との密着という詐術によってしか成立しないものであった。これに気づいたとき、欠陥を対象とすることは、たとえ批判または否定であってさえも、対象的欠陥にしかすぎないことを体験的にしったのである。すくなくともわたしの言語思想が自立の相貌をおびて展開されたのはそれ以後である」(「自立の思想的拠点」157頁)。

★自立の姿勢は、1961年に吉本さんが創刊した雑誌『試行』にも随所に現れています。

「マス・コミよりも、ディス・コミのほうがよい、広告するよりも、しないほうがよい、多数の浮動的な読者によまれるよりも、小数の定着した読者によまれるほうがよい、企図的な編集よりも、自立した主題の追究のほうがよい、知られるよりも知られないほうがよい、といった無数の〈転倒〉を課題として自らにつきつけながら出発して、『試行』もここで20号に達しました」(「中共の『文化革命』についての書簡――内村剛介様」333頁)。

「『試行』はけっしてアカデミックな学者に退化しない。たえず生々しい問題意識をもって現在の情況をつきぬけるためだけに研鑽するのである」(『試行』後記〔第二一号〕534頁)。

★アカデミシャンでも党員でもなく在野の一個人として考え抜くこと。抽象的な議論を振りまわして他人事のように日和見で語るのではなく、大衆の一人として自分自身の今を生き抜くこと。いちいち細かくは引用しませんが、これが本書より読み取れるメッセージです。ここに吉本さんのアイデンティティがあるように感じます。

「死ぬべき文学の思潮を死なせないためには、個々の文学者の持続的な努力によるほかはないのである。どんな文学的孤立にも、マス・コミからの孤立にも耐えて、じぶんを確かめてゆく持続力だけが、現実離れの恐怖に耐えうる唯一の道であることは余りに自明である」(「戦後思想の荒廃」230頁)。

「わたしは、個人がたれでも誤謬をもつものだということを、個性の本質として信じる。しかし、誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとするものをみると、憎悪を感じる。なぜならば、それは人間の弱さを普遍性として提出しようとしているからであり、弱さは個人の内部に個性としてあるときにだけ美しいからだ」(「カール・マルクス マルクス紀行」36頁)。

「誤謬は、自己自身の脳髄のなかにしかないので、つまらぬ本をかいて同類の箸にも棒にもかからぬ連中にほめそやされても、自惚れるべきではない。批判に価しないから批判しないだけだ、ということもこの世にはありうるのである」(「カール・マルクス マルクス紀行」58頁)。

「知識について関与せず生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐにわかる。市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである」(「カール・マルクス マルクス伝」66頁)。

★吉本さんのスタンスというのは単純な左派に分類しうるものではありません。特に1965年に発表された「戦後思想の荒廃」は、実に半世紀前の文章ながら、戦争と平和のはざまに宙吊りになっていると言っていい2015年の私たちに「自立して考えること」について、今なお示唆を与えてくれるように思えます。

「たんに一思想家が進歩的か保守的か革命的かが問題なのではなく、かれが如何に深い根柢をもつか、如何に何ものかの象徴であるかという位相で、その重要さ、貴重さを評価される理由があるのだ。つまらぬ進歩思想家よりも、すぐれた保守思想家が貴重であるという意味は、思想の内在的な領域では不滅の根拠をもっている。おなじように、マス・コミ現象の内部で、〈戦後民主主義〉を擁護するか、絞殺するかという問題は、何ものをも意味していない。もしも、絞殺されて惜しまれるような理念が存在するとすれば、それは文化現象より以前に、現実的な生活の領域で絞殺された後に、文化の領域にあらわれたものであることを、はっきりとさせておいた方がいい。/そうでないと、もともと最後にしか絞殺されることのない学者の学問の自由の弾圧で、権力の弾圧史を考察しようとしたり、もっとも無意味な学者の抵抗で、権力への抵抗史を論じたりする現在のような倒錯におちいってしまう。学問の自由が奪われたなどと学者が泣き言をいうときは、それよりもはるか以前に生活者の自由は奪われており、ただ声を出さないだけだということを知っておくのはよいことである」(「戦後思想の荒廃」232-233頁)。

「現在の世界の情況では、戦争=平和のはざまに懸垂された状態で生きてゆくことは、知識人にとっても組織的な労働者にとっても辛い困難な課題を強制している。現在の強制的な平和は人間にたいして、どんな生き方も卑小であり、どんな事件も卑小であり、それを出口なしの状態で日常的に耐えながら受けとめ、そこから思想の課題を組みあげるということを強要している。どのような無気力な現状肯定の思想にとっても、どのような気力ある変革の思想にとっても、卑小であるがゆえに一層困難な状態を強いている。この逆説的な情況に耐えられず、たとえ他国の出来事であり、遠隔と複雑さから真相がけっしてうかがいえないといった事件であっても、その主題に逃亡したいという機制がうまれ、ジャーナリズムを賑わし、そこに自己の〈平和〉理念とか〈反戦〉理念とかのハケ口をもとめようとする傾向を生みだし、賑やかなベトナム祭りや原水禁祭りになだれこむ知識人が存在することもやむをえない弱小な思想の表現というべきである」(「戦後思想の荒廃」234-235頁)。

「わたしが、ひとりの知識人としてじぶんを自己限定するとすれば、なによりもさきに国家権力について思いをめぐらすだろうし、生活人としてじぶんを自己限定するとすれば、明日の食料や生活についてかんがえるだろう。そして「人類の運命」というものは、現在のところ国家権力への考察を媒介としないで考えられないこと、かんがえようとすれば架空の考察、せいぜい異常な想像の図絵におちいるほかないとかんがえざるをえないだろう。また、わたしが「日本原水爆被害者団体協議会」の組織的一員であったと仮定したら、知識人として機能している大江健三郎やわたし自身や政党などに協賛を依頼するような無残なことをせずに、自力で被爆資料の収集と出版をやりとげるだろう。また、わたしがひとりの孤立したふつうの被爆者だったらこの社会に誰とも区別されず、さわがれもせず生きそして死ぬという生涯を念願するだろう。わたしが、ベトナム戦争介入反対というスローガンをかかげることがベトナム人民への連帯であるとは考えないように、原爆を体験した人々について思いだし、その事業に協力することが、被爆者への連帯とはかんがえないことは自明のことにすぎない。そうかんがえることは政治的あるいは知識的な第三者がたどる決定したコースであることは、戦後二十年の思想体験によって熟知されているからである」(「戦後思想の荒廃」242頁)。

★〈吉本隆明を読む〉ことのアクチュアリティは、特定の組織や派閥や主義主張に所属したり帰属したりせずに戦おうとする人々にとって決して失われることのない価値として見出され続けていくように思えます。逆に言えば所属や帰属に縛られている以上はけっして本当には〈身読〉できないのが吉本隆明という思想家なのでしょう。今どれくらい読者がいるかどうかが問題なのではなく、晶文社版全集が継続されているという事実がいずれ重大な意義を後世に残すことになるのだろうと感じます。

「書物は、読むたびにあたらしく問いかけるものをもっている。いや、たえずあたらしく問いかけてくるものをさして書物と呼ぶといってもおなじだ。書物がむこうがわに固定しているのに、読むものが、書物に対して成熟し、流動していくからである。書物のがわからするこの問いかけが、こういう流動にたえてなおその世界にひきずりこむ力をもち、ある逃れられないつよさをもって、読むものを束縛するとき、わたしたちは、その書物を古典と呼んでいいであろう」(「カール・マルクス マルクス紀行」29頁)。

★なお、第9巻において出版人にとってもっとも印象的なテクストは間違いなく、春秋社編集長の岩淵五郎さんの逝去に際して書かれた2つの追悼文ではないかと思います。「じぶんのこれからの生が半ぶん萎えてゆくのを感ずる」(「ある編集者の死」457頁)。「〈現存するもっとも優れた大衆が死んだ〉」(「ひとつの死」462頁)。岩淵さんは1966年2月4日の全日空羽田沖墜落事故(乗員乗客133人全員が死亡)でお亡くなりになりました。作家=編集者の付き合いという以上に、人間同士の付き合いとして大切な相手だったことが窺えます。次回配本は第10巻「1965‐1971:共同幻想論/心的現象論序説/春秋社版『高村光太郎選集』解題」で、今年9月刊行予定とのことです。

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性からよむ中国史――男女隔離・纏足・同性愛
スーザン・マン著 小浜正子+リンダ・グローブ監訳 秋山洋子+板橋暁子+大橋史恵訳
平凡社 2015年6月 本体2,800円 A5判並製320頁 ISBN978-4-582-48221-8

帯文より:儒教的慣習うあ一人っ子政策の下での女児殺害といびつな男女比、独身男性や自殺する女性の多さ、アイデンティティの表明としての纏足や辮髪、同姓愛や異性装をめぐつ価値観の変遷――。歴史家が見てこなかったこと。政治や法、医学、芸術、スポーツまで、西洋的概念では捉えきれない、性の視点から見渡す伝統中国から近現代中国への変化。

目次:
日本語版への序
はじめに 性に歴史はあるのか
序章 〈閨秀〉と〈光棍〉
第一部 ジェンダー、セクシュアリティ、国家
 第一章 家族と国家――女性隔離
 第二章 女性の人身売買と独身男性問題
 第三章 政治と法のなかのセクシュアリティとジェンダー関係
第二部、ジェンダー、セクシュアリティ、身体
 第四章 医学・芸術・スポーツの中の身体
 第五章 装飾され、誇示され、隠蔽され、変形された身体
 第六章 放棄される身体――女性の身体と女児殺し
第三部 ジェンダー、セクシュアリティ、他者
 第七章 同性関係とトランスジェンダー
 第八章 創作のなかのセクシュアリティ
 第九章 セクシュアリティと他者
終章 ジェンダー、セクシュアリティ、公民性
おわりに ジェンダーとセクシュアリティは歴史分析に有益か
原注
訳注
解説(小浜正子)
参考文献
索引

★まもなく発売(6月26日発売予定)。原書は、Gender and Sexuality in Modern Chinese History (New York: Cambridge University Press, 2011)です。著者のスーザン・マン(Susan L. Mann)はカリフォルニア大学デイビス校歴史学部の名誉教授。ミシガン大で学士、スタンフォード大で修士と博士を得たのち、ノースウェスタン大、シカゴ大、スタンフォード大、カリフォルニア大サンタクルス校や同大デイビス校で教鞭を執られました。ご専門は中国近現代史です。論文単位では翻訳がありましたが、単独著書が訳されるのは初めてかと思います。単独著は4冊あって、今回訳されたのは最新作になります。幾度か来日された経歴をお持ちで(直近では2000年)、1985年上半期にはお茶の水女子大の客員教授をおつとめだったこともあります。同姓同名が多いので洋書を探す際には注意する必要がありますけれども、訳書では紛らわしいものはありません。

★著者は「日本語版への序」でこう書いています。「わたしの知る限りでは、欧米の研究書の大部分、そして教え子の学生たちが目にする一般書のほとんどが、中国史における女性の位置について大きな誤解を生じるような書き方をしていました」(4頁)。「聖書に書かれた罪が存在しないところでは、セクシュアリティはどんなふうに文化的に形成されるのか。私は学生たちに、中国のケースを通してそれを理解させたかったのです」(5頁)。大学生向きに書かれた本書で著者は「異なる文化的背景におけるセクシュアリティとジェンダーの関係についての研究は、西洋的近代を普遍的モデルとする考え方に対する異議申し立てにもなる」(「序章」44頁)という信念のもと、丹念に史料にあたっておられます。日本の読者は纏足や『金瓶梅』については多少聞き及んでいるでしょうけれども、本書が紹介するのはさらに幅広い文化史です。現代中国のトピックも色々と取り上げられているので、性をめぐる中国史の変遷と現在を学ぶことができます。たいへん啓発的で貴重な概説書です。

★「古代中国の思想家たちが性欲に強い関心を注いでいたということや、性的行動に統制や規定を課す動きが朝廷につねにあったということには関心が払われていない。歴史家の目はそこに向けられてこなかった。/大学の講義の場でも、性科学には居場所がない。中国研究では、ジェンダーとセクシュアリティの歴史的構築というようなテーマについて、関心が集まりはじめたばかりといったところだろう、教育というものの目的は、文化を越えた知識を広く身につけたグローバルな市民を創り出すことにあるのだということがよく言われる。性は、現代社会において最も魅惑にあふれ、文化的な価値づけがおこなわれている領域である。性を関心対象から外してしまえば、われわれの視野は狭くなり、特定文化にのみ縛られてしまうことになる。異なる文化においてジェンダーとセクシュアリティがどのように扱われているかを知ることは、世界に生きるということの多様性に対して目を向けるということに等しい。〔・・・〕セクシュアリティについての批判的歴史分析をおこなうことの有益さは、心を開いて自由な精神をたずさえ、自文化の抱える危険な制約や輝かしい可能性についての内省的な気づきを得ることにあるのだ」(「おわりに」263-264頁)。
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by urag | 2015-06-21 23:13 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
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