2015年 05月 24日
判断力批判 イマヌエル・カント著、熊野純彦訳 作品社、2015年5月、本体7,600円、A5判上製函入590頁、ISBN978-4-86182-530-9 帯文より:美と崇高なもの、道徳的実践を人間理性に基礎づける西欧近代哲学の金字塔。カント批判哲学を概説する第一序論も収録。三批判書個人完訳。 ★まもなく発売。『純粋理性批判』(2012年1月)、『実践理性批判』(2013年5月)と続いてきた熊野さんの新訳版三批判書が今回ついに完結します。入念に彫琢された訳文によってあらためてカントの到達点に接近できる喜びがあるうえに、菊地信義さんによる美麗な造本により、書架に揃える楽しみもあります。訳者あとがきによれば底本はフォルレンダー版で、凡例には「訳出にさいし、底本のほか、アカデミー版、カッシーラー版、ならびにレクラム文庫版を参照し、カントの原文ならびに底本との重要な相違についてはこれを訳註でしるし、訳文に採用した本分の形態を示した」とのことです。序論のあとにはその草稿である「第一序論」がレーマン版に基づいて訳出されています。巻末には事項と人名の索引が付されています。 ★カントは序文の末尾でこう述べています。「これをもって、私はこうしてじぶんの批判的な作業の全体を了えることにする。私はただちに躊躇するところなく、理説的な作業へ向かおうと思うけれども、それも、わが身に折りかさなってくる年齢から、その作業に好適な時間を、いくらかでもなお可能なかぎり掠めとるためである」(6頁)。カントにとって『判断力批判』がひとつの大きな区切りであったことが窺えます。熊野さんは訳者あとがきでこう書いておられます。「『判断力批判』は、私見によれば、カントの最高傑作である。そればかりではない。おそらく、西欧近代哲学における最高傑作のひとつである。『実践理性批判』の息苦しいまでの理論構成と、それを反映した晦渋な文体からカントその人が解放されて、ある意味では若き日々からあたためられて、老年にいたって成熟した思考のモチーフのさまざまが、緊密な文体とともに開花している」(556頁)。訳者あとがきには訳語の選択についても書かれており、たとえばaesthetischを「直感的」と訳されたことなどが特記されていますが、これは現物をご確認いただくのがよいと思います。 ★本書は難解ではあるものの、熊野さんが指摘されている「カントの人間通の側面」が随所に垣間見られ、そうした箇所はさほど難しくはなく、カントの人間観察の鋭さを感じることができます。たとえば第一部「直感的判断力の批判」の第一篇「直感的判断力の分析論」の第二章「崇高なものの分析論」の§54では、「笑い」が分析されています。「笑いとは、緊張した期待がとつぜん無に転化することから生じる激情である」(320頁)。このあとどういうシチュエーションが笑いを生むか、具体例が出てきます。現代風の「お笑い」とは表現形が少し異なるかもしれませんが、それでも現代人の笑いを考える上で今なお示唆的な議論が数頁にわたってしるされています。『判断力批判』の楽しみ方のひとつのきっかけとして、カントでお笑いを考える、というのも一興かもしれません。 ★ちなみに現時点で新刊が入手可能な『判断力批判』の既訳書は、篠田英雄訳岩波文庫上下巻しかありません。宇都宮芳明訳以文社版上下巻は上巻が品切、牧野英二訳岩波新全集版上下巻は両方とも品切です。それぞれいずれ重版されるでしょうし、光文社古典新訳文庫から中山元さんによる新訳もいずれ刊行されることになると思われますが、これらのほかにもたとえば原佑さんの既訳や高峯一愚さんの注釈書などは文庫化されてもよかったように思います。 ★三批判書新訳の編集を担当されたTさんは今月、松田悠八さんの小説『長良川――修羅としずくと女たち』も手掛けられています。同書は小島信夫文学賞受賞作『長良川――スタンドバイミー一九五〇』(作品社、2004年)の続編で、『岐阜新聞』に連載されていた作品です。帯文に曰く「故郷の川と過ごした輝ける少年時代。60年安保闘争の浪に揉まれた混迷の学生時代。早大劇研・伝説の美女と新島の飛騨んじい伝説。幾多の「水」と女たちに導かれた懐かしき半生」。〈3.11〉の描写に始まり、長良川の水面に月光が映える光景で終わる物語は、自伝的要素を含むようです。著者は出版社勤務の経験をお持ちで、本書にはテレビ業界ではなく出版界に進むことの望む主人公のこんな言葉があります。 ★「文字を意識するときに、おれの頭にいつも浮かんでくる詩があるんだよ。宮沢賢治の『春と修羅』って詩で、「はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ」っていう二行。大好きなフレーズでね、文字のすごさがこれほど生きて迫ってくる例はないと思うんだ。おれは修羅なんだ、何かの化身なんだって思いが文字からずしんと伝わってくる。〔・・・〕文字がおれの頭のなかに修羅の像を作ってくれる。すると賢治がおれのなかで生き返り、立ち上がってくるんだ。こうやって、千人が読めば千の修羅像ができる。文字ってそういうちからがあると思うね」(125-126頁)。出版人であり作家でもある著者の思いが凝縮された一節ではないかと思います。 ◎平凡社さんの新シリーズ「本の文化史」が刊行開始 読書と読者 横田冬彦編 平凡社、2015年5月、本体2,800円、4-6判上製336頁、ISBN978-4-582-40291-9 帯文より:生きるために本を読む人と時代。より多くの実りを求め、信心のよすがに、新しい交流のため、また家の維持や地域の安寧のため、命を救うため、暮らしを支える知や経験のために、この国で、男や女やさまざまな業を営む人々が書籍に向かい読者となった時代、そのありようを多角的に描く。 目次: シリーズ〈本の文化史〉刊行にあたって 総論 読書と読者 (横田冬彦) 1 江戸時代の公家と蔵書 (佐竹朋子) 2 武家役人と狂歌サークル (高橋章則) 3 村役人と編纂物――『河嶋堤桜記』編纂と郡中一和 (工藤航平) 4 在村医の形成と蔵書 (山中浩之) 5 農書と農民 (横田冬彦) 6 仏書と僧侶・信徒 (引野享輔) 7 近世後期女性の読書と蔵書について (青木美智男) 8 地域イメージの定着と日用教養書 (鍛冶宏介) 9 明治期家相見の活動と家相書――松浦琴生を事例にして (宮内貴久) ★まもなく発売。新しいシリーズ「本の文化史」の第1回配本で、2冊同時刊行です。鈴木俊幸、横田冬彦、若尾政希の編者三氏による巻頭挨拶「シリーズ〈本の文化史〉刊行にあたって」によれば、「本シリーズでは、書籍・出版研究を六分野にわけて、その全貌を示し、研究の現状を総点検できるようにした」とあるので、全6巻構成なのかもしれませんが、詳細はまだ明らかになっていません。挨拶文の末尾にはこう書いてあります。「さらに考えてみたいのは、書籍文化のゆくすえである。インターネットや電子出版の急速な普及により、紙媒体の所移籍がなくなるのではないか、書籍の時代は終わりつつあるという危機感を多くの人たちがもつに至っている。こうした時代を生きている私たちは、書籍が時代のなかで担ってきた歴史的役割を明らかにして、人々にとって紙の本を読むことが大きな意義を持った書籍の時代とはなんだったのか、あらためてふりかえってみる必要があろう。本シリーズがそのような検討に寄与できることを期待している」(3頁)。 書籍の宇宙――広がりと体系 鈴木俊幸編 平凡社、2015年5月、本体3,000円、4-6判上製344頁、ISBN978-4-582-40292-6 帯文より:かくも多様な本と印刷物の世界。海の向こうから輸入され、木の活字を使い、京の書籍のまねをして町の読み物として、お上の教諭のために、字の書き方を習い、字を読むために学び、さまざまな目的をもったさまざまな出来方の書物や印刷物が、近世から近代へとその存在を主張した。その百花繚乱。 目次: 総論 書籍の宇宙 (鈴木俊幸) 1 歴史と漢籍――輸入、書写、和刻 (細川貴司) 2 古活字版の世界――近世初期の書籍 (高木浩明) 3 「書」の手本の本――法帖研究の意識と方法 (岩坪充雄) 4 辞書からの近世をみるために――節用集を中心に (佐藤貴裕) 5 江戸版からみる一七世紀日本 (柏崎順子) 6 領内出版物――治世と書籍 (山本英二) 7 何を藩版として認めるのか――蔵版の意味するもの (高橋明彦) 8 草双紙論 (鈴木俊幸) 9 書籍の近代――東京稗史出版社の明治一五年 (磯部敦) ★まもなく発売。版元紹介文によれば同時刊行の第1弾『読書と読者』は「近世初頭の出版業の開始以降を中心に、書籍を読む歴史を多角的に明らかにする論集」で「生きるために本を読む多様なあり方」を探るもの。第2弾『書籍の宇宙』は「版本を中軸に据えて、書籍メディアのさまざまなあり方を紹介、社会・歴史のなかでそれらが持っていた力を鮮明に描き出す」のを目的としており、巻頭には8頁にわたるカラー図版があります。一見すると活字には見えない、筆で書いたように流麗なくずし字のいわゆる「連綿体」で組まれた古活字版の『平家物語』や、現代人の目にも今なお美しい彩色絵図を配した草双紙などが掲載されています。書籍の歴史を学ぶ時、今ある本の形態もいずれは変容していく一過程のものなのだということに気づかされます。過去を知ることによって未来もまた見えてくるわけです。
by urag
| 2015-05-24 23:01
| 本のコンシェルジュ
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