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URGT-B(ウラゲツブログ)

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2005年 07月 07日

ハイデッガー全集第65巻「哲学への寄与論稿」

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私はハイデゲリアンではありませんが、ハイデガーの哲学には常に深い敬意を抱いてきました。ハイデガーの政治的失敗には別の印象を持っていますが、彼が20世紀最高の哲学者の一人であることは、私には疑いえないことなのです。

創文社版「ハイデッガー全集」全102巻(翻訳刊行中)は比較的に高額である上、買切版元の商品であるため、書店店頭に置かれることは稀ですが、非常にもったいないことです。こんなにも豊穣な思索の海へといざなってくれる思想家は、現代ではそう多くいるものではありません。

ハイデッガー全集 第65巻 (第35回配本)
哲学への寄与論稿 (性起から〔性起について〕)
Beitraege zur Philosophie (Vom Ereignis)
大橋良介+秋富克哉+ハルトムート・ブフナー=訳
創文社 A5判上製カバー装604頁 本体8,500円 ISBN4-423-19644-1

先月刊行された上記書、第65巻「哲学への寄与論稿 (性起から〔性起について〕)」は、『存在と時間』と並ぶハイデガーの最重要書であると言われているそうです。たしかに一度読み始めると底なし沼のように引きずり込まれる知的魅惑に溢れています。

版元による本書の紹介文は以下の通りです――「ハイデッガーの思索のいわゆる「転回」(ケーレ)と呼ばれる事態が進行していた1936-38年の時期に、生前の公刊を意図することなく書き記された覚書であり、もう一つの主著と称されているものの、本邦初訳である。ハイデッガーの思索に訪れる閃きの跡をただ黙々と記し続けた、281の断片的考察の集積である。このテキストは、ゆっくり読まれることを要求する。」

創文社版では「存在 Sein」はすべて「有」と訳されています。以下の引用における有は存在と読みかえていただいて差し支えないと思います。同様に、「有るもの Seiende」は「存在者」と。

なお、Daseinは「現存在」と「現有」とに訳し分けられています。「存在 Sein」のより原初的な概念としてのSeynは本書では「有」に傍点を付したものとなっています。以下の引用では、Seynは仮に〈有〉とします。

「しかし何ゆえの決断なのか。それは、〈有〉それ自体の最も深い根拠からなおもわずかに、有るものの救済が生じるからである。それは西洋の法則と委託を正当化しつつ護ることとしての救済である。それはそうでなければならないのか。どの程度までなおもそのような仕方だけでの救済なのか。それは危険が極度に高まっており、そこでは到るところ根を奪われることがあるからであり、もっと宿命的なことであるが、この根を奪われることがすでに自らを覆蔽しようとしているからである ― 没歴史性の開始がすでにそこにある。

決断は静かに下される。〔心を閉ざした〕決心Beschlussとしてではなく、〔胸襟を開いた〕覚悟性Entschlossenheitとしてである。これはすでに真理を基づけ、言い換えると、有るものを創り変え、かくして創造する決断であり、ないしは麻痺させることである。

しかしなぜ、いかにして、この決断の準備なのか。

破壊と根を奪われることに対する闘争は、準備における最初の歩みにすぎない。それは本来的な決断空間への近さへの歩みである。」 ――以上、110頁より。

「最も恐るべき歓喜は、ある神が死ぬことでなければならない。人間だけが死に直面して立つという際立った特徴を「持っている」が、それは、人間が〈有〉の中に内的に緊迫して立っているからである。つまり、死は〈有〉の最高の証書〔である〕。」 ――246頁。

「別の元初では、性起の転回の裂き開く働きを持った〈真中〉、そういう〈真中〉へと跳躍し、そのようにして〈現〉をその基づけに関して知りつつ ― 問いつつ ― 型を整えて準備することが肝心である。

われわれは、有るものを、他の有るものからの説明や導出によっては決して把握することができない。有るものは、ただ〈有〉の真理の内における基づけからのみ知ることができる。

しかし、人間がこの真理の内へと突き進むことはいかに稀であることか。人間はいかに容易に、また迅速に、有るものと折り合い、そのようにして有の自性を剥奪されたままであることか。〈有〉の真理は無くてもすむという見かけは、いかに強要的であることか。」 ――247頁。

「拒絶は贈与の最高の貴位であり、自らを覆蔵することの根本動向である。自らを覆蔵することの開放性は、〈有〉の真理の根源的な本質を形成する。このようにしてのみ、〈有〉は訝しくさせることそれ自体となり、最後の神の傍過の静けさとなる。」 ――440頁。

「しかし最後の神、それは神を貶めることではないだろうか、否、端的な冒涜そのものではないだろうか。しかし、もし最後の神が次のような理由からそのように名付けられなければならないとすれば、どうだろうか。すなわち、最終的に神々についての決定を神々のもとに、かつ神々のあいだにもたらし、そのようにして神の本質の唯一性の本質〔現成〕を最高のものへと高める、という理由からである。」 ――440-441頁。

抜き出せばきりがなく、下線を引くと、ほとんど全文に色が付いてしまうほどです。新聞雑誌の書評委員からはほとんど全くマークされることのない新刊なのでしょうが、とてつもない書物なのです、これは本当に。(H)

by urag | 2005-07-07 23:59 | 本のコンシェルジュ | Comments(0)


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