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2014年 08月 31日

注目新刊:ナンシー『思考の取引』岩波書店、など

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初期哲学論集
マックス・ホルクハイマー著 青柳雅文訳
こぶし書房 2014年8月 本体3,600円 4-6判上製328頁 ISBN978-4-87559-290-7

帯文より:ホルクハイマーがレーニンと出会う。若きホルクハイマーが、1920年代の思想的激動のただ中で格闘したゲシュタルト理論、現象学、唯物論(マルクス主義)。批判理論の萌芽をなす最初期の哲学論考と講義、そして青年期の苦悩を刻みこんだ哲学日記を収録する、初々しい論考集!

★発売済。目次詳細は書名のリンク先をご覧ください。アルフレート・シュミットとグンツェリン・シュミット・ネーア(ネルというカタカナ表記も過去にありました)が編者を務めるフィッシャー版ホルクハイマー全集第11巻「遺稿集 1914-1931」(1987年刊)より、1920年代に執筆された未刊草稿、講演原稿、書評、日記など10篇を抽出し収録しています。それぞれの冒頭に付された編者による「出版に際しての前書き」も訳出されており、さらに編者のアルフレート・シュミットが第11巻の巻末に寄せた論考「ホルクハイマーのレーニン受容」が付録として併載されています。なんと言っても目を惹くのは日記でしょうか。公刊を目的としたテクストではないため、ホルクハイマーの内省に一歩深く接近できるかもしれません。

★「覚えておくことのできる記憶の蓄えを量的に増やしたからといって、それだけで学習や仕事がはかどるのではない。古びた箱の中をいっぱいにしても、――その点ではむしろベルクソンのほうが正しい――認識は豊富にならない。古くならないこと――いつもまったく新しいものを見ること――、いつも異なる観点から問いを立てること――自分の見解に疑問を感じられること――、これこそ学ぶ者の姿勢なのだ」(1926年7月10日;本書253頁)。


怨霊とは何か――菅原道真・平将門・崇徳院
山田雄司著
中公新書 2014年8月 本体760円 新書判並製224頁 ISBN978-4-12-102281-3

カヴァーソデ紹介文より:怨霊とは死後に落ち着くところのない霊魂である。古来、日本では怨霊が憑依することによって、個人的な祟りにとどまらず、疫病や天変地異など社会に甚大な被害がもたらされると信じられてきた。三大怨霊と称される菅原道真、平将門、崇徳院は死後、いかに人々を恐怖に陥れたのか。そして、どのように鎮魂がなされたのか。霊魂の存在から説き起こし、怨霊の誕生とその終焉、さらに近代の霊魂文化まで概観する。

★発売済。副題にある通り、本書は菅原道真、平将門、崇徳院を『北野天神縁起』『将門記』『保元物語』などの文献をひもときつつ取り上げています。日本の三大怨霊の由来と変遷、その文化的背景が本書の論じる主題であり、慰霊と鎮魂の歴史が辿られています。著者の山田さんは三重大学人文学部教授で、日本中世史がご専門です。新書の書き下ろしは今回は初めてとのこと。今年は『忍者の教科書――新萬川集海』(監修、笠間書院、2014年2月)、『忍者文芸研究読本』(共編著、笠間書院、2014年5月)や、『怨霊・怪異・伊勢神宮』(思文閣出版、2014年5月)などを上梓されています。

★「怨霊のあり方は時代とともに変遷してきたが、日本人の心の中には、絶対的悪もなければ絶対的善もなく、その中で迫害を受けて死に追いやられた人は、時の社会情勢や力関係によりたまたま憂き目に遭ったのだという思いから、安住の地に赴けない霊魂が怨霊となって現世に祟って登場すると考えられていた。怨霊は人々の心が創り出したものであり、怨霊となる原因を作った側の人物にとっては、常に恐怖におびえて暮らすことを強いられるのであった。けれども、怨霊は単に恐ろしい存在であるだけでなく、怨霊を認識することによって、ある事態が一方的に進みすぎないようにバランスを保つ役割も果たしていたと指摘することができよう。われわれはさまざまな霊に取り囲まれて調和を保って暮らしてきた日本人のあり方をもう一度考える必要があるのではないだろうか」(200頁)。


◎作品社さんの新刊より

ジェレミー・スケイヒル『ブラックウォーター――世界最強の傭兵企業』益岡賢・塩山花子訳、作品社、2014年8月、本体3,400円、46判上製536頁、ISBN978-4-86182-496-8
ロジャー・E・バックハウス+ブラッドリー・W・ベイトマン『資本主義の革命家 ケインズ』西沢保監訳、栗林寛幸訳、作品社、2014年8月、本体2,400円、46判上製256頁、ISBN978-4-86182-493-7

★『ブラックウォーター』は発売済。原書は、Blackwater: The Rise of the World's Most Powerful Mercenary Army(Nation Books, 2007)で、2008年に改訂されたアップデート版の内容も反映させているとのことです。帯文に曰く「殺しのライセンスを持つ米の影の軍隊は、世界で何をやっているのか? イラク戦争での民間人の虐殺、アルカイダ幹部など反米分子の暗殺、シリア反体制派への軍事指導などの驚くべき実態、そして米の政財界の暗部との癒着を初めて暴き、世界に衝撃を与えた書!『NYタイムズ』年間ベストセラー」。ブラックウォーターは米海軍特殊部隊出身のエリック・プリンス(Erik D. Prince, 1969-)が1997年に創立したアメリカの民間軍事企業で、現在はアカデミと社名変更しています。その悪名高き活動の履歴を暴いて見せたのが本書で、ブラックウォーターに関する詳細情報としては日本で初めての書籍です。目下シリアでイスラム国(ISIS)に拘束されている日本人男性が国外限定のセキュリティサービスを謳う民間軍事会社(PMC)の最高経営責任者だと報じられていることもあり、そもそも民間軍事会社とは何なのかという関心が日本でも高まりつつあると思われるなか、非常にタイミングの良い出版ではないでしょうか。

★「戦争はビジネスであり、そのビジネスは極めて良好である。調査し、摘発し、起訴しなくてはならないのは、ブラックウォーターをはじめとする傭兵企業の行為だけではなく、この制度全体である。評判の悪い攻撃的な征服戦争から生じる、これらの傭兵「サービス」への際限のない需要に対して、強力な異議を唱えないならば、ブラックウォーターをはじめとする傭兵企業にとって怖れるものはほとんど何もない。ストリート風に言えば、奴らは売人で、政府は中毒者だ。これらの会社は、ただの腐った悪党ではなく、強い毒のある木の実である」(59頁)。

★P・W・シンガー『戦争請負会社』(NHK出版、2004年)、松本利秋『戦争民営化――10兆円ビジネスの全貌』(祥伝社新書、2005年)、ロルフ・ユッセラー『戦争サービス業――民間軍事会社が民主主義を蝕む』(日本経済評論社、2008年)、ソロモン・ヒューズ『対テロ戦争株式会社――「不安の政治」から営利をむさぼる企業』(河出書房新社、2008年)、スティーヴ・ファイナル『戦場の掟』(講談社、2009年)、安田純平『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』(集英社新書、2010年)、菅原出『民間軍事企業の内幕』(ちくま文庫、2010年;『外注される戦争――民間軍事会社の正体』〔草思社、2007年〕に新章「ブラックウォーター・スキャンダル」を増補し文庫化)など、ここ10年間で注目すべき関連書が続々と刊行されてきましたから、書店さんでもミニ・コーナーを作りやすいかもしれません。

★『資本主義の革命家 ケインズ』は発売済。原書は、Capitalist Revolutionary: John Maynard Keynes(Harvard University Press, 2011)です。帯文は以下の通り。「なぜ、ケインズは世界経済を救う“答え"であり続けるのか? ステレオタイプ化したケインズ解釈を超えて、ケインズの実像を提示。リーマン・ショック後のグローバル経済と経済入門の決定版。海外の書評で、絶賛。「経済思想の“革命家”ケインズをわかりやすく解説。ケインズのアイデアは、現在ますます重要」(エコノミスト誌)。「実に、タイムリーで刺激的なケインズ再評価の書」(ニューヨーカー誌)」。2008年のリーマン・ショックの直後に執筆されたという本書は、これまで幾度となく解釈され直してきたケインズが金融危機以後ふたたび注目されつつある今こそ、異なる視点から再読解することが必要であることを教えてくれます。

★「以下の各章で示すように、ケインズとケインズ主義は多元的であった。経済学者としてきわめて異例なことに、ケインズは学問、ジャーナリズム、政府、実業の世界をまたいで活躍した結果、彼をたんなる経済政策の立案者として、あるいは資本主義経済のしくみを支配する根本原理を探求したひとりの重要な経済理論家として片づけてしまうことはできない(そうすべきではない)。彼はこれらのいずれでもあったわけで、どちらか一方の像を除外すると全体像が歪んでしまうのである。さらに言えば、ケインズは資本主義の道徳的批判を行った哲学者でもあった」(15頁)。道徳哲学者としてのケインズについては本書第三章で論じられています。「それ自体(道徳的に)好ましくない社会と経済的破綻とのあいだのジレンマ」(未刊草稿より)を見つめて、資本主義を批判的に検証しつつも改善の余地がまだあるはずと考えたケインズの模索に迫っています。


◎岩波書店さんの新刊より

ジャン=リュック・ナンシー『思考の取引――書物と書店と』西宮かおり訳、岩波書店、2014年8月、本体1,900円、四六判上製88頁 ISBN978-4-00-025990-3
テリー・イーグルトン『文学とは何か――現代批評理論への招待(上)』大橋洋一訳、岩波文庫、2014年8月、本体840円、文庫判並製318頁、ISBN978-4-00-372041-7

★『思考の取引』は発売済。原書は、Sur le commerce des pensées: Du livre et de la librairie(Galilée, 2005)です。もともとはストラスブールの書店「ケ・デ・ブリュム」の創業20周年を記念して顧客に贈るために執筆依頼された書籍だったのが、挿絵を加えて刊行された新版を訳したのが本書です。訳書の帯文では柴田元幸さんが推薦文を寄せておられます。漆黒のカヴァーにオペークインクで刷られており、本文は余白をしっかり取った美しいレイアウトで、誰かにプレゼントしたくなる本です。装丁はサイトヲヒデユキさんによるもの。本書は書物と読書、書店、出版社をめぐる哲学的考察であり、業界人のみならず読者への素敵な贈り物となっていると思います。

★「読者のもとに来たるのは、一個の世界である。この世界は、彼がみずからのうちに宿らせている世界の複数性に混じりに来る。読書とは、複数世界の組んず解〔ほぐ〕れつであり、生滅のただなかにある宇宙進化論〔コスモゴニー〕であり、書物の内部での、また、書物とその時間の宇宙形状誌〔コスモグラフィー〕とのあいだにも生ずる、最初にして最後の合同の特徴を、ポテンシャル、指数、それに漸近線で描き出そうという試みなのだ」(38頁)。本書は難解であり、再読三読を必要とすると思いますが、ナンシー哲学のエッセンスが凝縮されている分、本書はナンシーの他の著作を読み解く糸口になりえます。

★『文学とは何か』上巻は発売済。全2巻で下巻は来月17日発売です。原書は、Literary Theory: An Introduction. 25th Anniversary Edition(Blackwell, 2008)です。同書の1983年初版の日本語訳は1985年に岩波書店から刊行され、1996年第2版の日本語訳は1997年に同じく岩波書店から新版として刊行されてきました。存命の海外思想家の学術的著作が岩波現代文庫ではなく岩波文庫になるというのは、あまり見かけないように思います。ついにイーグルトンが岩波文庫になる時代か、という感慨を覚えずにはいられません。イーグルトンは文庫という体裁で本屋を眺めてみても、平凡社ライブラリーから『イデオロギーとは何か』(大橋洋一訳)が1999年に刊行されているのを認めることができるだけです。文庫版『文学とは何か』では、巻頭に「記念版へのはしがき」という8頁強のテクストが加えられています。文学理論や批評理論がたいへん刺激的で先端的なものとして受け止められていた時代のベストセラーが、歴史的遺物や遺産という次元を超えて再び知を賦活しうること、理論の転倒的な潜在力をイーグルトンは認めていて、鋭敏な読者がそれを見抜くだろうと信じています。これを単なる自尊心と見るか、人間の知的創造力そのものへの信仰と見るかは読者の自由でしょうが、カヴァーに記されている通り本書を「20世紀の古典」として読むことは、まぎれもないひとつの知的経験たりえるはずです。


◎藤原書店さんの新刊より

ダニー・ラフェリエール『吾輩は日本作家である』立花英裕訳、藤原書店、2014年8月、本体2,400円、四六上製304頁、ISBN978-4-89434-982-7
ダニー・ラフェリエール『甘い漂流』小倉和子訳、藤原書店、本体2,800円、四六変型判上製328頁、ISBN978-4-89434-985-8

★『吾輩は日本作家である』および『甘い漂流』はいずれも発売済。前者はJe suis un écrivain japonais(Grasset & Fasquelle, 2008)、後者はChronique de la dérive douce(Grasset & Fasquelle, 2012)の翻訳です。ラフェリエールはハイチのジャーナリストでしたがカナダに亡命し、1985年に作家デビューを果たします。昨年はアカデミー・フランセーズに選出されました。日本語訳はいずれも藤原書店から刊行されており、『ハイチ震災日記――私のまわりのすべてが揺れる』(立花英裕訳、2011年)、『帰還の謎』(小倉一子訳、2011年)、『ニグロと疲れないでセックスする方法』(立花英裕訳、2012年)があります。『吾輩は日本作家である』は文学的ナショナリズムを手玉に取って軽やかに越境を試みている分、日本文化を小馬鹿にしているようにも、読者を無責任に挑発したいだけのようにも読めますが、そうした反応は作家には織り込み済みです。

★「私はただ、本を書くと言っただけだよ。そしたら、タイトルを教えてほしいと言うから、教えただけなんだ」「どんなタイトルなの?」「『吾輩は日本作家である』。でもタイトルだけだよ」「なに、それっ! やばいわよ、それっ。今ね、向こうじゃ、アイデンティティについて議論がすごく盛り上がっているのよ。そこへ、あなたが澄まし顔で、そんな本をもって現われたら、そりゃただじゃ済まないわよ」「本はないんだって。さっきからそう言ってるだろ」「ま、落ちつきなさいよ・・・むこうじゃね、まさにそれが問題になっているのよ・・・アイデンティティ問題で侃々諤々になるの」「アイデンティティなんて、そんなもの、くそくらえだ」「そんなこと言って、そんなタイトルの本を書くんだから・・・もうあなたってほんとに困った人ね・・・いったいどういうつもりなのよ?」「まさにそんな穴ぐらから出るためにやっているんじゃないか。国境なんて、そんなものないってね。文化ナショナリズムにはうんざりだ。私が日本作家になるのを止められるやつなんかいるものか。誰一人」(205-206頁)。

★一方『甘い漂流』は、1976年に母国ハイチからカナダ・モントリオールに逃れた23歳の黒人青年であった自身の一年間描いたもの。あたかも長編詩のような体裁が目を惹きます。もともと本書の1994年初版は「日々の出来事を一日一句、俳句を詠むように書いたもので、366篇の断章から成っていた」(訳者解説)ものが、2012年の新版では大幅に増補改訂され「一件自由死と見える部分と明らかな散文とが混在」(同)しています。これは訳者によれば、「フェリエールが敬愛し、親近感を抱いている旅の俳人、芭蕉の俳句と俳文の組み合わせを意識しているようにも思われる」とのことです。本書の巻頭には江戸前期の俳人、立花北枝の俳句が掲げられ、さらに「新しい町に到着したばかりの人へ」という著者の献辞が記載されています。本書の最後の方にはこんな一節があります。

★「故郷を離れて/別の国に行き、/劣った状態で/すなわち保護ネットなしで/故郷に戻ることもできずに/生活することは/人間の大冒険の/究極のものであるように思える。〔中略〕母親の/言葉ではない/言葉ですべてのことを/いわなければならない/それこそが旅というものだ」(305-307頁)。
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by urag | 2014-08-31 23:41 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
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