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2005年 05月 03日

ブランショ『私についてこなかった男』ついに発売

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書肆心水さんからブランショ中期の中篇小説『私についてこなかった男』がついに刊行されました。心水さんの宣伝どおり、本書が日本における「最後の初訳小説」になります。

うねるように展開していく不思議な「語り」は、何処でもなく何者でもない内的彷徨のような趣きがあります。一端踏み込むとそこは非常に不安定な亜空間と言ったらいいのか、まるで迷宮のようで、雨のように暗号が降り注いできます。無駄な言葉はここにはなく、また、すべての言葉が移ろいゆく影でもあります。終わらない悪夢のようで読み進むのはたいへんですが、徒労であるわけではありません。

ブランショは覚醒状態のまま、無意識の深層まで降りていける能力を持っていたのではないか、と私はしばしば感じたりします。いったいそんなことができるのでしょうか。生のままの無意識など、言葉になりうるのでしょうか。私たちは無意識に突き動かされることはあっても、自分の無意識をクリアに理解できるわけではありません。

無意識が私たちに見させる夢はしばしば自分自身にとっても不可解です。そうした夢に似た、不可解な場所(非-場所)へ、夜の領域へ、ブランショは降りていき、記述します。意味や無意味といった、いわば白昼のもとの諸価値では測ることのできない、異様な「深み」です。深さという物理的な広がりで理解することすらもどかしい「内奥」です。

そんなわけで、覚醒状態においてこの書物を読む、というのは、そもそも一種の途方もない冒険ではあります。覚醒状態では読めないはずのものであるわけですから。少なくとも思考の波長のようなものが合っている時でないと、私はブランショの小説はまったく読めません。読んだ気がしません。ある時はたまたまその場所(非-場所)へチューン・インでき、ある時は非情なまでに疎外されます。

つまり、迷宮に入るにしても、それにふさわしい時があるということです。時を逸しては、迷宮は出現しないということなのかもしれません。そしてそもそもこうした〈読み=接触〉はすべて私の幻想であるのかもしれません。これを仮に〈ソラリス効果〉と呼んでおきましょう。

常人はそこから何の手土産も持ち帰らないまま白昼の領域へ戻るのですが、ブランショは何かを持ち帰るのです。エウリュディケーを連れ帰ろうとするオルフェウス。常人が失敗するところの何かを、ブランショは手にして持ち帰ることができる。しかし冥府帰りのエウリュディケーをいったい誰が理解できるというのでしょうか。エウリュディケーは、蘇生したラザロではない。白昼の光のもとにはけっして出てこれないはずの何かなのです。

訳者の谷口博史さんによる長文解説「全能にして無能の語り手(たち)」もたいへん読み応えがあります。この書物はすでにして一個の奇書です(もちろん最大の賛辞としてそう述べているのです)。白昼の光のもとに理解できるかどうかが問題なわけではない。本書については少なくともそのことだけは言えそうな気がします。

なお、本書は、オンライン書店では、bk1などで扱われています。

谷口さんは本書に先立つこと約7年前に、同じ中期の小説『望みのときに』(未来社)を翻訳されています。あわせて読みたい作品です。(H)
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by urag | 2005-05-03 23:43 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
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