2012年 10月 14日
魂について――治癒の書 自然学第六篇 イブン・シーナー著 木下雄介訳 知泉書館 2012年10月 本体6,500円 A5判上製386頁 ISBN978-4-86285-141-3 カバー裏紹介文より:イブン・シーナー(980-1037)により、11世紀初頭にアラビア語で書かれた『治癒の書』は、論理学や自然学、数学、形而上学など多くの学問分野を体系的に論じた大部の著作である。イスラーム哲学史上、決定的に重要な作品であるが、主に自然学と形而上学が12世紀から13世紀にかけてラテン語訳され、ヨーロッパの思想界にも多大な影響を与えた。そのうち『魂について』は50の写本が残っている。/本書で扱われる魂の議論は、アリストテレスやアレクサンドリア学派の影響を受けて自然学と形而上学の二分野にまたがり、肉体とのつながりは自然学で扱い、死後の魂は形而上学に分担されている。アリストテレスは知性の不滅性については深くは言及しなかったが、イブン・シーナーは魂論の根底にその不滅性を据えて、非物質的知性が死後も個体として存続するアリストテレスを否定した。/『魂について』が哲学史に与えた論点として、空中人間論、肉的感覚論、評定力、預言論、能動知性論などがある。なかでも内的感覚論は受容されたが、能動知性は激しい批判を受けて、抽象的認識論や直感的認識の理論に結実した。12、13世紀における西洋の文化発展はギリシア語、アラビア語、ヘブライ語の翻訳によるところが大きい。『魂について』における見解がアリストテレスの意見とされたり、アリストテレスの魂論になくてイブン・シーナーの魂論に付加された論点など、多くの研究課題が残されている。その意味で本訳業は学界にとっても記念碑的な業績になろう。 ★発売済。イブン・シーナーによる『治癒の書』の自然学部門第六部「魂について」のアラビア語原典からの翻訳です。巻頭には山内志朗さんによる解説「イブン・シーナー『魂について』をめぐる思想史的地図」が置かれています。目次詳細は書名のリンク先の版元サイトでご覧いただけます。イブン・シーナーあるいはアヴィセンナの著書の翻訳には以下のものがあります。 1981年11月「医学典範」五十嵐一訳、『科学の名著(8)イブン・スィーナー』所収、朝日出版社 1998年10月『アヴィセンナ「医学の歌」』志田信男訳、草風館 2000年12月「救済の書」小林春夫訳、 『中世思想原典集成(11)イスラーム哲学』所収、平凡社 2010年09月『アヴィセンナ『医学典範』日本語訳』檜學・新家博・檜晶訳、第三書館 2012年10月『魂について――治癒の書 自然学第六篇』木下雄介訳、知泉書館 五十嵐訳「医学典範」は、第一巻第一部「医学の定義とその自然的主題について」の翻訳。解説によれば、シリーズ本の制約のため抄訳となったが、「翻訳作業は続行中であり、いずれも近い将来シリーズとは別の形で、少なくとも第一巻の『医学概論』相対が刊行される予定である」(70頁)と約しておられました。しかしご存知の通り五十嵐さんはその十年後に勤務先の大学構内で刺殺されます。その二年前に『東方の医と知――イブン・スィーナー研究』(講談社、1989年)を上梓されたばかりでした。 『治癒の書』と並行して書かれた作品である『医学典範』はその後、第一巻の全訳が2010年に刊行されました。第三書館版の「序」では、五十嵐訳に触れたあとで「せめて第一巻の日本語全訳をと思い立って本書の企画を始めた」(iv頁)と説明されています。『医学の歌』は『医学典範』の要約版です。小林訳「救済の書」は、第二部「自然哲学」第六章「霊魂論」の翻訳。『救済の書』は『治癒の書』の縮約版とも言われることがあり、今回の『魂について』と対応関係にあります。もっとも、小林さんの解説によれば『救済の書』の成立事情を見ると単純に縮約版と断じることができるものではないようです(341頁以下参照)。なお、『魂について』の訳者の木下さんは『慶応義塾大学言語文化研究所紀要』にアヴィセンナ『形而上学』の翻訳を2008年より連載中とのことです。岩見隆さんとの共訳で、2012年3月の第43号には第4回が掲載されています。 ★知泉書館さんは2001年6月に設立された学術出版社です。社長の小山光夫さんは創文社の元編集者でいらっしゃいます。弊社の創業が2000年12月ですから、半年しか違わないものの、刊行点数は弊社より断然多いです。西洋の古典的名著の翻訳にも力を入れておられ、ここ二年間では以下の翻訳を発行されています。 2012年08月:『エックハルト ラテン語著作集 Ⅴ 小品集』中山善樹訳 2012年03月:トマス・アクィナス『在るものと本質について〔ラテン語対訳版〕』稲垣良典訳註 2012年01月:『デカルト全書簡集 第一巻(1619-1637)』山田弘明・吉田健太郎他訳 2011年04月:『エックハルト ラテン語著作集 Ⅳ 全56篇のラテン語説教集』中山善樹訳 2011年01月:『ニーチェ『古代レトリック講義』訳解』山口誠一訳著 ★この中から2点だけ言及しておくと、トマスの『在るものと本質について』には、聖トマス『形而上学叙説――有と本質とに就いて』(高桑純夫訳、岩波文庫、1935年)という古い訳があって、1990年以降も少なくとも二度以上復刊されたことがあります。そのほかにも4種既訳があるのですが手ごろとは言えないだけに、斯界の重鎮である稲垣先生による新訳が出たことは読者にとって幸運と言えるでしょう。巻頭に長編解説「『在るものと本質について』における存在〔エッセ〕」が置かれ、訳文はラテン語原典との対訳になっています。山口誠一訳著『ニーチェ『古代レトリック講義』訳解』は抄訳ですが、第10~16章の中のレトリックの諸事例を省いただけなので、ニーチェ自身の議論は本書で十分追えます。巻末の解説「レトリックの哲学」では20世紀後半の欧米におけるニーチェのレトリック論研究の動向が一通り紹介されているのも読者にとって有益でした。山口さんは「あとがき」で、「ニーチェ批判版全集第二部門の多くの未邦訳テキストを邦訳してゆく研究体制は、我が国にはなく、ニーチェ研究の本格的展開の道はまったく前途遼遠である」と漏らしていらっしゃいます。批判版全集の第二部門(1982-1995年刊)には、バーゼル大学時代の講義草稿が収録されており、山口さんによる本書はその翻訳のさきがけになります(山口さん自身が語る翻訳への道のりは論文「ニーチェ像の変貌」に明らかです)。ニーチェの遺稿集は白水社版全集(第一期、第二期)で一部を読むことができますが、全部ではありません。公刊された本のニーチェと、遺稿集のニーチェ。日本人の多くは後者の全体像にまだ出会えていないのかもしれません。 墨子 墨子著 森三樹三郎翻訳 ちくま学芸文庫 2012年10月 本体:1,100円 文庫判並製304頁 ISBN978-4-480-09490-2 カバー裏紹介文より:中国古代・春秋時代末期に興り、諸子百家の時代にあって儒家に比肩する勢力となった学団・墨家の学団。自己と同じようにすべての人を公平に愛す「兼愛」、侵攻戦争を否定して防衛技術を磨く「非攻」、身分の貴賎にかかわらず有能な人物を登用する「尚賢」など、その特異な思想は、秦漢以降の統一王朝時代に入ると、突如この世から消え失せてしまう。残されたテキスト群のうち、謎に包まれたその思想の真髄を伝える最重要部分を訳出したのが本書である。抜群の読みやすさと正確さで定評のある名訳に、明快な訳者解説を付す。待望の文庫化。【解説:湯浅邦弘】 ★発売済。親本は『世界古典文学全集(19)諸子百家』(筑摩書房、1965年) 所収の同訳で、墨子の思想的根幹となるいわゆる十論を中心に訳出した抄訳です。入手しやすい「墨子」の翻訳解説書には、藪内清訳注(東洋文庫、1996年)、 和田武司訳(徳間書店「中国の思想(V)」、1996年)、浅野裕一訳著(講談社学術文庫、1998年)、山田琢著(明治書院「新書漢文大系(33)」、2007年)などがあります。酒見賢一さんの歴史小説『墨攻』(1991年)や、それを原作とした森秀樹さんによるコミック化(1992-1996年)、さらに映画化(日本では2007年公開)やそのノベライズ化(2006年)などによって、近年では読者層が新たに広まった感がありますが、さらに現在の日中の緊張関係と諸難局のさなかで「墨子」を読む価値はいっそう高まっているように思えます。 ★現在、ちくま学芸文庫壮観20周年記念フェアが全国の主要書店で開催されています。特設サイトでは、先日ご紹介した「ちくま」10月号に掲載された鷲田清一さんのエッセイや、東浦和図書館の青山主事へのインタビュー、そして「思想の星座」のダイアグラム(マトリックス)2種を見ることができます。マトリックスはPDFが配布されています。また、フェアの店頭では「ちくま文庫/ちくま学芸文庫」の2012年版解説目録も配布されています。特に巻末の「品切れ一覧表」は要チェック。 松丸本舗主義――奇蹟の本屋、3年間の挑戦。 松岡正剛著 青幻舎 2012年10月 本体1,800円 四六判並製536頁 ISBN 978-4-86152-362-5 帯文より:前人未到の実験書店はなぜ閉店になったのか! 初めてあかす松丸正剛の仕事術。閉店を惜しむ各界から寄せられたメッセージ43篇も掲載。 目次: 夢か幻か(福原義春) 第I章 松丸本舗の旋法――われわれは何に挑戦したのか(松岡正剛) 松丸本舗全体図 第II章 松丸本舗の全仕事――1074日・700棚・5万冊・65坪 1 本屋のブランドをつくる 2 本棚を編集工学する 3 本と人をつなぐ 4 目利きに学ぶ 5 「ものがたり」を贈る 6 共読の扉をひらく 第III章 気分は松丸本舗――各界から寄せられたメッセージ 第IV章 松丸本舗クロニクル――本だらけ、本仕込み、そして松「○」本舗 あとがき(松岡正剛) ★発売済。「松岡正剛が英知と哲学と汗と夢をつぎこんでつくった本屋」だった松丸本舗は、丸善丸の内本店4階に2009年10月23日に65坪でオープンし、先月末(2012年9月30日)に閉店しました。いくら三年契約とはいえ、日本最古の近代書店である丸善の矜持としてこの店舗を後世に残すべき「モデル」の一形態として採算度外視で「業界のために」保存してほしかったです。松丸本舗の濃密な「1074日間」を総括する本書には松岡さんによる書下ろしのほか、各界の識者43名がメッセージを寄稿。引用は控えますがプロデューサーの小城武彦さんもお書きになっていて閉店の理由についても説明があります。 ★業界のために保存して欲しいモデルだったとはいえ、新しい本が続々と生まれ、古い本が消えていく書店はいわば「川」のようなもの。流れつづける「川」をそのまま保存することは不可能です。だから、大局的な大人の事情とは別に、閉店こそもっとも正しい選択だったのかもしれません。有終の美というものでしょう。しかし本書は「閉店記」ではなくて、「来たるべき書店」への準備ノートであることは間違いありません。記録というものは過去の写像ではなく、未来へのバトンなのです。 江戸の読書会――会読の思想史 前田勉著 平凡社選書 2012年10月 四六判上製392頁 ISBN978-4-582-84232-6 カバー裏紹介文より:読書会(=会読)は、江戸時代、伊藤仁斎、また荻生徂徠のもとで、儒学の学習のために本格的に始まった。それはすぐに広がり、私塾のみならず全国の藩校や昌平坂学問所で、また儒学にとどまらず蘭学でも国学でも採用された。各自の読みをもとに議論を闘わせる会読は、身分制社会のなかではきわめて特異な、参加者が対等な関係を結んで自由に競い合う場であり、他者を認め受け入れる試みであり、自ら困難な課題を設定しては乗り越える、喜びに満ちた「遊び」の空間でもあった。その会読の経験とそこで培われた精神こそ、読書会という枠を超えて、幕末の横議横行する志士たちを、明治初年、民権運動の学習結社を、近代国家を成り立たせる政治的な公共性を準備するものともなりえた。――具体的な事例をたどりながら会読の思想史をつむぐ、驚くべく新鮮な叙述! 目次: はじめに 第一章 会読の形態と原理 第二章 会読の創始 第三章 蘭学と国学 第四章 藩校と私塾 第五章 会読の変貌 第六章 会読の終焉 おわりに ★まもなく発売。「読書会」は近年もブームが訪れていましたが、日本の近代が作られたその昔にも「会読」があり、その自由な言論と意見の共有が維新を育んだことを教えてくれるのが本書です。当時の読書会ブームの終焉の背景には「立身出世主義」による競争があったことを著者は指摘しており、色々と考えさせられます。先にご紹介した松丸本舗では「共読」(本を薦め合い、読み合い、評し合う読書形態)の可能性が追求されていましたが、立身出世や競争ではない読むことの喜びが「共」の字に込められているかもしれません。 ★前田さんはこう書いています、「〔学問が立身出世に直結した結果、〕江戸時代の学問のもっていた遊戯性、あの『解体新書』翻訳に挑戦するような学問研究それ自体を楽しむ「遊び」がなくなってしまったのである。〔…〕学問(会読)のなかの競争は、経済的利害とかかわらないアゴーン(競争)としての遊びだったがゆえに、相互に討論し、勝ち負けを争うことができた。しかし、学問によって立身出世できる道が開かれ、〔…〕社会的権勢と経済的利益を獲得することができるようになったとき、換言すれば、お互いの利益にかかわらない遊びでなくなったとき、競争は熾烈となる。個々人は立身出世のため、より序列の上位をめざし、競争するようになるのである。そこでは、お互い「道理」を探究して対等に討論することも、同志の意識をもつこともなくなり、自分一人の立身出世を遂げるために、競争相手を出し抜く、秘かな読書に励むようになる。いわば科挙に合格するための受験勉強となるのである」(373-374頁)。会読の三原理は「討論による相互コミュニケーション性」「対等性」「結社性」だったと前田さんは教えてくれます。読書会の政治的ポテンシャルは侮れません。
by urag
| 2012-10-14 23:53
| 本のコンシェルジュ
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