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2012年 08月 03日

本日搬入:ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何か』ついに文庫化

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哲学とは何か
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著 財津理訳
河出文庫 2012年8月 本体1,400円 文庫判416頁 ISBN978-4-309-46375-9
帯文より:D=G最後の共著、その思想の総決算。カオスから脳へ――人間をこえる限りなき生成/創造へと至高を開く絶後の名著。
カバー裏紹介文より:「この時代に逆らって、来たるべき時代のために」書かれたドゥルーズ=ガタリ最後の共著にして、その思想の総決算。内在平面-概念的人物-哲学地理によって「哲学」を総括し、カオスに立ち向かう三つの平面として哲学-科学-芸術の連関を明らかにする。世界への信をうちたてながら、人間をこえる限りなき生成/創造へと思考を開く絶後の名著。

★本日取次搬入。書店店頭に並ぶのは首都圏の大型書店では明日以降、地方も含めると、来週明けあたりから発売開始になると思われます。『アンチ・オイディプス』(全二巻、河出文庫、2006年10月)、『千のプラトー』(全三巻、河出文庫、2010年9~11月)の文庫化に続き、ドゥルーズ=ガタリの共著三部作の最終到達点である『哲学とは何か』(親本は1997年)がついに文庫化されました。「文庫版への訳への訳者あとがき」によれば「これを機会に若干の語句を修正した」とのことです。これで、河出書房新社さんで刊行されているドゥルーズ=ガタリの共著はすべて文庫化されました。二人のそれぞれの著作では、ドゥルーズのヒューム論『経験論と主体性』、ライプニッツ論『襞』、ガタリの『カオスモーズ』がまだ文庫化されていません。おそらくは将来的に文庫化されることでしょう。

★二人はこう書きます。「哲学は、資本の相対的脱領土化を絶対的なものへと到達させる。哲学は、資本を、無限なものの運動としての内在平面のうえに移行させ、資本を、内的な限界としてのかぎりにおいて消去し、新たな大地に、新たな民衆に訴えかけるために、資本をそれ自身に反抗させるのである。しかしそうすることで、哲学は、概念の非命題的形式に、すなわち、コミュニケーション、交換、コンセンサス、そしてオピニオンこそがそこで絶滅する当の形式に到達する。したがってそれは、アドルノが「否定弁証法」と呼んだものに、またフランクフルト学派が「ユートピア」として指し示したものにかなり近いのである。実際、ユートピアこそが、哲学とその時代との、すなわちヨーロッパ資本主義との、しかしすでにまたギリシアの都市国家との接合をつくるのである。そのつどユートピアを携えてこそ、哲学は政治的なものに生成し、おのれの時代に対する批判をこのうえなく激しく遂行する」(171-172頁)。

★さらに続けてこう書きます。「ユートピアは無限運動から切り離しえない。ユートピアは、語源からして〔「どこにもない場所」を意味し〕、絶対的脱領土化を指すのだが、ただしつねに臨界点において――すなわち絶対的脱領土化が、現前している相対的な中間=環境と連結し、とりわけそうした中間=環境のなかで窒息した諸力を連結するようになる臨界点において――絶対的脱領土化を指す。ユートピア論者サミュエル・バトラーが用いた言葉「エレホン Erewhon」は、たんに《No-where》つまり「どこにもない」だけでなく、《Now-here》つまり「いま-ここ」をも指し示している。重要なのは、いわゆる空想的社会主義と科学的社会主義との区別ではなく、むしろ、様々なタイプのユートピアなのであって、革命はそのひとつである」(172頁)。

★さらにさらに続けて。「ユートピアという観念には(哲学においてもそうであるが)、つねに、超越を復活させてしまうおそれが、そしてときには、超越を尊大に肯定する態勢が存在する。したがって、権威主義的あるいは超越的ユートピアと、絶対自由主義的、革命的、内在的ユートピアを区別しなければならない。しかしまさにその点に関して言うなら、革命はそれ自身内在的ユートピアであると主張することは、革命はひとつの夢、何か実現されないものの、あるいは実現されれば必ず裏切られてしまうものであると主張することにはならないのだ。反対に、そう主張することは、革命を、内在平面、無限運動、絶対的俯瞰として定立することである。ただし、そうできるのは、これら〔三つ〕の特性が、資本主義に対する戦いのなかで、いまここに存在する現実的なものと連結するかぎりにおいてであり、また、それらの特性が、その戦いが裏切られるたびごとに新たな戦いを再開するかぎりにおいてである。ユートピアという言葉は、したがって、哲学あるいは概念と、現前している中間=環境との、以上のような接続を、すなわち政治哲学を意味している(とはいうものの、オピニオンによって与えられたゆがんだ意味からすれば、「ユートピア」はおそらく最良の言葉ではない)」(172-173頁)。

★現代日本において多方面に展開しつつある民衆的政治行動のその傍らに、D=Gもまた肩を並べて立っているに違いありません。「芸術が非芸術を必要とし、科学が非科学を必要としているように、哲学は、哲学を理解している或る非哲学を必要とし、非哲学的理解を必要としているのだ。〔…〕それら三つの《非》は、脳平面から見ればまだ区別があるのだが、脳が潜んでいるカオスから見ればもはや区別はない。脳がそのように潜んでいるということについて、こうも言えそうである――芸術が名づけるような、しかしまた哲学と科学もそう名付けるような、「来たるべき民衆」の影が、カオスから引き出されるのだ、と。民衆-団塊、民衆-世界、民衆-脳、民衆-カオス。〔…〕三つの《非》のなかに横たわっている非思考的思考。そこでこそ、哲学と芸術と科学が、あたかも、それらの異なった本性をつらぬいて拡がりながら絶えずそれらに付き従う同じ影を共有しているかのように、識別不可能なものへと生成」する(367頁)。非思考的思考を孕んだ識別不可能な書物、生成へと開かれた読書-カオス、政治的であるばかりでなく、芸術も科学も哲学も貫く来たるべき民衆の自由な一挙手一投足、そして、声、声、声。
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by urag | 2012-08-03 15:30 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
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