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2012年 06月 21日

本日及び明日取次搬入:『ベルリン・アレクサンダー広場』『新釈 悪霊』

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ベルリン・アレクサンダー広場
アルフレート・デーブリーン著 早崎守俊訳
河出書房新社 2012年6月 本体4,700円 46判変形552頁 ISBN978-4-309-20594-6
帯文より:『ユリシーズ』『特性のない男』などとともに20世紀前半を代表する前衛文学の記念碑的巨編、奇跡の復活! 1920年代、刑務所から出所した男がベルリンの底辺を彷徨する――都市と人間のたたかいを実験的手法を駆使しつつ、壮大なポリフォニーとして描き出す、近年、再評価の声が高いデーブリーンの代表作。

原書:Berlin Alexanderplaz: Die Geschichte vom Franz Biberkopf, 1929.

★本日21日取次搬入。河出さんのかつてのシリーズ「モダン・クラシックス」で1971年に刊行された上下巻本を40年ぶりに合本し、同社の復刊事業「KAWADEルネサンス」の一冊として再刊したもの。奥付での表示は「復刻新版」。全9巻立ての長篇で、本文が2段組、約530頁もあります。巻末に付された訳者による「解説」によれば、「改訂にあたってはいくつかの訳のあやまりの訂正のほか若干の表現の不具合いを正しただけにとどめた」とあります。

★本書は刊行当時、ベストセラーでした。「この大規模な小説が世界恐慌の年、1929年に出版されるや、その後三年ほどのあいだに五万部も売れて、ナチスの支配に至るまでの数年間、ベストセラーの座を保持しつづけた」(「解説」540頁)とのことです。さらに「翌年の1930年にはイタリア語とデンマーク語に翻訳され、31年にはイギリスとアメリカで出版、32年にはスペイン語に翻訳、33年にはフランス語、34年にはスウェーデン語、35年にはロシア語とチェコ語に翻訳された。さらに第二次大戦後の1958年にはハンガリア語が出た」(「解説」547頁)そうで、この大冊が広くヨーロッパで読まれたことの証左かと思います。

★「これは、かつてベルリンでセメント業、運送業をしていた労働者フランツ・ビーバーコフに関する報告の書である」(9頁)というのが本書の書き出しです。愛人を殺害したかどで刑務所に入っていた主人公が出所し、大都市ベルリンの中枢であるアレクサンダー広場に向かいます。彼は「まっとうに生きよう」と決意するものの、都市の闇にたちまち捕らわれて破滅します。しかし最後は、死をかいくぐっての蘇生を予感させて終わります。本書は一人の凡庸な男性の物語ですが、蘇ろうとする彼は個人でありつつもいわば象徴的な共同存在で、都市に生き、死んでいく、幾千もの顔をもつ労働者たちを表現しているように思えます。訳者は本書を「7年前に出たジョイスの『ユリシーズ』のダブリン、4年前のドス・パソスの『マンハッタン乗換駅』のニューヨークにつづく、ベルリンが主人公である大都市小説である」(「解説」545頁)と位置づけています。

★デーブリーンは本書のなかで幾度となく「眼覚めよ」と呼びかけます。それは主人公に対してというよりは読者に向けてのようにも読めます。

「現行の社会秩序は働く国民の経済的政治的社会的奴隷化のうえになりたっているのだ。それは所有権、つまりは所有の独占と、国家、すなわち権力の独占という形をとってあらわれている。こんにちの生産の根底にあるものは人間的な自然な欲求の満足ではなくて、利益の見込みである。技術のあらゆる進歩が、臆面もなく広範な社会構成部分の悲惨を代償として持てる階級の富を無限大にふくらませる国家は、持てる階級の特権の擁護と、広範な大衆の抑圧のために奉仕する、それは奸智と暴力のありとあらゆる手段を使って、独占と階級差別の維持のために作用するものなのだ。国家の成立とともに上から下への人為的組織化の時代が始まる。いまや個人はあやつり人形になる、巨大なメカニズムのなかの死せる歯車と化す。眼覚めよ! われわれは他のすべての人たちとちがって政治権力の獲得をめざすのではなく、その徹底的な除去に努力するのだ。いわゆる合法団体に加わってやっていてはいけない、そこではうまい言葉にそそのかされて、奴隷みずからが自分の奴隷的身分に法の烙印を押す羽目に仕向けられるのだ。われわれは恣意的に引かれた政治的国家的境界線をすべてしりぞける。ナショナリズムとは近代国家の宗教なのだ。われわれはいかなる国家統一をもしりぞける。そのかげにこそ持てるものの支配権が隠れひそんでいるのだ。眼覚めよ!」(311-312頁)。

「みんながみんな死神のあとをねり歩く、歓呼が死神のあとにつづく、進むのだ、自由のなかへ、自由のなかへ、古き世界は亡びざるをえない、眼覚めよ、なんじ、暁の風よ」(523頁)。

「眼覚めていよ、眼覚めていよ、なにかが世のなかで起こっているのだ。世のなか、それは砂糖でできているのではない。ガス爆弾が投げられればおれは窒息するしかない。なぜ投げられるかはだれにもわからない。でもそんなことはたいしたことじゃない。それを気にするだけの余裕はあったのだ。
「戦争が起こっておれが召集され、しかもその理由を知らず、おれがいなくったって戦争がつづいているとしたら、それならおれの責任だ、そして当然おれにはむくいがある。眼覚めていよ、眼覚めていよ、ひとはひとりぽっちじゃないのだぞ。大気があられを降らせるなら降らせろ、雨を降らせるなら降らせろ、それに対しては防ぎようを知らぬ、だがしかし、その他の多くのことに対してなら防ぎようがある。おれはもう以前のように、運命だ、運命だと叫びはすまい、それが運命だなどとあがめてはならないのだ、それをじっと見つめて、それをつかまえ、破壊しなければなたないのだ。
「眼覚めていよ、眼をあけておれ、用心するのだ、千人が千人ともひとつのメンバーなのだ、眼覚めないものは笑いものになるか、餌食にされるだけだ」(534-535頁)。

★本書は小説ではありますが、一個の叙事詩のようです。デーブリーンはポーランド出身のユダヤ人の両親のもとに生まれ、本書を執筆後はナチス政権下のドイツを逃れてパリに亡命、カトリックに改宗します。彼の命日は6月26日。死後半世紀以上経った極東の島国で自らの代表作が都市のあちこちの書棚で再び縦覧に付されるとは思いもしなかったでしょう。

◎アルフレート・デーブリーン (Alfred Döblin, 1878-1957)既訳書
1970年『ハムレット――あるいはながき夜は終りて』早崎守俊訳、筑摩書房
1971年『ベルリン・アレクサンダー広場』上下巻、早崎守俊訳、河出書房新社;2012年、合本
1989年『二人の女と毒殺事件』小島基訳、白水社
1991年『王倫の三跳躍』小島基訳、白水社
2007年『ポーランド旅行』岸本雅之訳、鳥影社


[新釈]悪霊――神の姿をした人
三田誠広著
作品社 2012年7月 本体4,800円 46判上製988頁 ISBN978-4-86182-391-6
帯文より:帝政末期、革命前夜のロシアを背景に、神なき世界を暴走する観念の悲劇を描く壮大な思想劇。ニーチェ「超人思想」、レーニン「左翼マキャベリズム」の源流となった原作を踏襲しつつ闡明に深化させた画期的雄篇。畢生の書き下ろし大作2400枚!

目次:
第一部 白夜のペテルブルグ
 第一章 ネヴァ河の眺めから
 第二章 心の中で父を殺す
 第三章 おまえのままで
 第四章 ワルワーラ夫人の登場
 第五章 地獄の門の前で
第二部 湖に集う革命家たち
 第六章 ワルシャフスキー駅
 第七章 アメリカへの旅立ち
 第八章 花の都で女たちが競う
 第九章 アルプスの遅い春
第三部 すでに書かれた物語
 第十章 砂漠の蜃気楼
 第十一章 ステパン先生の婚約
 第十二章 日曜日の礼拝式
 第十三章 ニコライの帰還
第四部 書き換えられた物語
 第十四章 果てのない決闘
 第十五章 長い一日の終わり
 第十六章 ニコライの告白
 第十七章 新しい命の誕生
 第十八章 書き換えられた結末
あとがき

★22日(金)取次搬入。『[新釈] 罪と罰――スヴィドリガイロフの死』(2009年6月)、『[新釈] 白痴――書かれざる物語』(2010年12月)に続く、三田版新釈ドストエフスキー(小説によるドストエフスキー論)の第三弾です。1000頁近い大著。巻頭にはこう書かれています。「これから読者にお届けする作品は十九世紀後半のロシアを舞台に、悪霊に取り憑かれたかのごとく疾走する若者たちの群像を描いたものであるが、ドストエフスキーの『悪霊』を踏襲しつつ大幅に書き換えたもので、とくに前半部はまったくの創作といってよい。このことによってドストエフスキーが謎として提示したものの前史が読者の眼前に展開されることになる。神秘の扉を開き隠された謎を解明することが目的であるが、すべてが明らかになった時、神秘的なもののみがもつ魅力が色褪せることを作者(三田)は予感している。それでも扉を開かずにはいられないこの悪魔の誘惑に似た愉悦を、読者とともに共有したい」。

★前半というのは第一部と第二部のことでこれだけで本書の約半分を占める大作です。もし読者が原作を読んでいない場合は、念のため訳書(岩波文庫2巻本、新潮文庫2巻本、光文社古典新訳文庫3巻本+別巻)を手元に用意しておくほうがいいかもしれません。原作は難解をもって鳴る問題作ですが、本書は物語の前史を想像することによってその分かりにくさの闇に光を当てようとする大胆な試みと言えるでしょうか。その意味で原作を読んでいる方にこそ手にとってもらいたい本ではありますけれども、原作を気にしない方は本書を最初から読んでもいいのだと思います。それでも原作が気になる(でも暇がない)という方はイーストプレスの「まんがで読破」文庫シリーズの『悪霊』(2008年)で予習されるのもいいでしょう(アンジェイ・ワイダ監督の1987年作映画作品『悪霊』は新釈の一種なので要注意かもしれません)。あるいは本書を第三部から読んで最後まで読み、もう一度第一部から読み直す、という手もあります。

★「書き換えられた結末」というとどんな風に書き換えられたのか気になる方もいると思います。あまりに原作は有名ですが、本書の楽しみのためにネタばらしは控えます。ただ、スタヴローギンが実は生きている、とか、そういう超絶的な書き換えではないので、どうかご安心ください。一番の違いは、語り手がキリーロフになっていることです。原作の物語的ピークを成す、いわゆる「スタヴローギンの告白」については、新釈となる本書では第十六章の19頁に渡る独白となります。ドストエフスキー特有の暗い世界観に耐えきれなくなる読者もいらっしゃるかもしれません。本書の「あとがき」によれば、前史を描くというプランは前作(新釈二冊)に比べて最も困難なものに思えたものの、「実際に書き始めてみると、まるでドストエフスキーの霊が取り憑いたかのように筆が進んだ」(983頁)と回想されています。

★三田さんは続けてこう振り返ります。「「前史」を書くとはすなわち原典の主要登場人物の青春時代を描くことになるのだが、原典にも彼らの過去が断片的に叙述されているので、そこから得られたイメージをふくらませていく作業はそれほど難しいものではなかった。だが「前史」を書いただけでは物語は終わらない。「前史」と同じ文体で原典の部分をそっくり書き換えないことには、「前史」を描ききることにはならない。そのために当初の想定より長大な作品になってしまった」(983頁)。また、本作のモチーフについて「「神の姿をした人」とは、あくまでも生身の人間でありながら、神の領域に近づき、ついには神そのものになろうとする、傲慢にして瀆神的でもあるような人物を示している。ドストエフスキーは『罪と罰』のスヴィドリガイロフから、『白痴』の創作ノートに記された書かれざる主人公を経て、最後の作品として構想された『偉大な罪人の生涯』に到るまで、ただひたすら「神に近づこうとする人」を追い求め続けたといっても過言ではないだろう」(984頁)と書かれています。

★「ニコライがささやくように問いかけた。/「アリョーシャ、きみはいまでもあの考えを抱いているのですね」/「自殺することで神になるという考えですか。その考えをぼくに植え付けたのはあなたですよ」」(898頁)。稀代の使嗾家(人たらし)としてのスタヴローギンの不気味さは、歴史においてしばしば回帰するアイコンであり、ぶり返す症例のようです。『悪霊』に影響を受けた埴谷雄高が描く、『死霊』の三輪高志や、あるいは近年では、黒沢清監督の1997年映画作品『CURE』の間宮邦彦など、人たらしの持っている「静けさ」というのは心の闇の深さなのでしょう。雄弁と反復、沈黙によってふるわれるタクトが刻む底なしの下降劇。彼らはどこまでも降下し、ついには死をも通過していってしまうのですが、地上へと戻ることはついぞありません。彼らは、戻ってこないオルフェウスなのです。
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by urag | 2012-06-21 22:30 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
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