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2011年 05月 22日

今週発売の注目新刊(2011年5月第4週)

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ニーチェ全詩集 新装版
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900):著 秋山英夫+富岡近雄:訳
人文書院 2011年5月30日 本体2,800円 46判上製466頁 ISBN978-4-409-13033-9
帯文より:ニーチェの本質をつかむ詩集が新装版で復刊。10代から発狂するまでの詩作を集成。『超訳 ニーチェの言葉』の白取春彦氏解説。

★24日(火)取次搬入の新刊です。書店店頭に並び始めるのは最速で25日以降だろうと思います。親本は1968年刊。昨今のニーチェ・ブームに後押しされて、今回めでたく新装版として復刊されました。間村俊一さんによる装丁でとても綺麗な本です。新装版というとたいていは外まわりが変わるだけで中身は変わりませんが、この版では、ディスカヴァー21のベストセラー『超訳 ニーチェの言葉』の編訳者の白鳥春彦さんの解説が新たに付されています。少年時代に68年刊の『全詩集』親本を買った思い出から語り起こし、詩作品を読み解きつつ、その魅力に迫っています。難解に思われがちな哲学者の言葉へと誰しもが近づきやすいように工夫を凝らしてきた白鳥さんならではの丁寧な解説です。

★ニーチェの詩集は本書のほか、『ニーチェ詩集』(河内信弘訳、書肆山田、07年3月)や、『ニーチェ全集(別巻2)ニーチェ書簡集II/詩集』(塚越敏+中島義生訳、ちくま学芸文庫、94年8月)があります。前者は版元公式ウェブサイトによれば「重版出来」となっています。後者は現在版元品切のようです。三書を並べて写真を取りたかったのですが、どうしても書肆山田版のゆくえが分からず。かつて4年前に拙ブログ記事用に写真を取ってありますから、書斎のどこかにはあるはずなのですが……。ちくま学芸文庫版の『ニーチェ全集』別巻は全4巻で第1巻と第2巻が書簡集(第2巻に詩集が併録されています)、第3巻と第4巻は遺稿となる『生成の無垢』です。現在第4巻以外は版元品切。まさかこのまま絶版とはならないでしょうけれど、やや不安ですね。

論創社さんでは今月末に以下の新刊を発売する予定だそうです。楽しみですね。ペーター・スローターダイク『方法としての演技――ニーチェの唯物論』(森田数実+中島裕昭ほか訳、論創社、11年5月、本体2,600円、ISBN978-4-8460-0803-1)。

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なぜマルクスは正しかったのか
テリー・イーグルトン(1943-):著 松本潤一郎:訳
河出書房新社 2011年5月25日 本体2,400円 46判上製248頁 ISBN978-4-309-24548-5

原書:Why Marx was right, Yale University Press, 2011.

帯文より:マルクス主義は時代おくれ、自由の敵で、決定論で大量虐殺をもたらしただけ、ユートピア的で非現実的、経済決定論で宗教的な問題をうち捨てて、本音では血塗れのカオスが大好きだ。階級問題を語るなんて古臭いし、そもそも新しい運動はその外側で起こっているんじゃないの? そんなあらゆる疑問・批判・罵倒にイーグルトンが答えます。巨匠による究極のマルクス入門にして初の本格的マルクス論、ついに登場。

本文より:「私は本書でマルクスへの最も標準的な十の批判を取りあげる。それらの批判の間には、その重要性に関して何ら序列はなく、私はそれらを一つ一つ論破してゆこうと思う。この過程で私は、マルクスの仕事になじみのない人々のための、マルクスの思考についての明快で理解しやすいイントロダクションをも、提示できればと思っている」(「序文」5-6頁)。

★版元公式サイトでは25日発売となっていますので、河出さんの通例で考えれば、書店店頭では最速で24日(火)から並び始めるのではないかと思います。25日は〆日で混み合うので、多少前後するかもしれませんが。マルクスに対する世間一般の十の疑問にイーグルトンが懇切に答えるというのが本書の趣旨です。とはいえ、それはかたくなで強引な弁護を目指しているのではありません。「マルクスの構想のいくつかに対して私自身が疑いを抱いていることは、本書を読めばはっきりするはずだ」(5頁)。ただし、「マルクスの構想がさほど完璧ではないが、さほど詐欺的でもないことを、がむしゃらに説明するつもりである」(同)。

★イーグルトンはイギリスを代表するマルクス主義批評家です。彼がどう批判に答えているのかは本書を手にとっていただくとして、十の疑問、難癖、皮肉がどんなものかをざっくりとご紹介しておきたいと思います。1)マルクス主義は「終わった」。2)マルクス主義は悲惨な現実しかもたらさない。3)マルクス主義は人間の自由を奪う決定論だ。4)マルクス主義は非現実的なユートピア思想だ。5)マルクス論はすべてを経済の問題にする。6)マルクス主義は唯物論にすぎず、精神的価値を忘れている。7)マルクス主義は古臭い階級社会論に過ぎない。8)マルクス主義は暴力を容認する思想だ。9)マルクス主義は国家を怪物にする。10)マルクス主義はもはやラディカルな政治活動を生み出さない。

★本書はマルクスないしマルクス主義に賛同する人にとっても反対する人にとっても有益です。また、十の疑問に答える過程でイーグルトンは「マルクスの仕事になじみのない人々のための、マルクスの思考についての明確で理解しやすいイントロダクションをも」(6頁)提示しているので、21世紀のマルクス入門として最適でもあると思います。マルクス思想の最良の部分をどう受け継ぐか、その重要性は今なお失われていません。印象的だった言葉のうちの一つを引きます。「マルクス自身はその無信仰な子孫であったわけだが、ユダヤ教的伝統にとって、「精神的なもの」とは、飢えを満たし、移民を歓待し、貧者を富裕層の暴力から守るという問題だった。精神的なものは、日常的な事柄や日々の生存の反対物ではない。それは日常を生きてゆくための格別な方法なのだ」(139-140頁)。イーグルトンは近著『宗教とは何か』(大橋洋一ほか訳、青土社、10年5月)で、キリスト教の再評価を行っています。同書はすでに3刷に達しているそうです。

★以下の本は3月に発売された既刊ですが、イーグルトンのマルクス入門と併せて、21世紀を占う上で欠かせない本ですので、特記しておきたいと思います。

北京のアダム・スミス――21世紀の諸系譜
ジョヴァンニ・アリギ(1937-2009):著 中山智香子ほか:訳 山下範久:解説
作品社 2011年3月 本体5,800円 46判上製700頁 ISBN 978-4-86182-319-0

帯文より:21世紀資本主義の〈世界システム〉は、中国の台頭でどうなるか? 東アジアの経済的復興と新たな〈世界システム〉への転換を、アダム・スミスの経済発展理論をもとに壮大な歴史的視野から分析。

帯文(表4)より:アダム・スミス的な市場社会の後継者は、むしろ中国である……。東アジアのGDPは、19世紀半ばまで西洋を圧倒していた。しかしアヘン戦争以降、世界は、西洋が覇権を握る「大いなる分岐」を迎えた。ところが、経済学の祖アダム・スミスは『国富論』で「西洋と東洋の力の差は、いずれ消滅するだろう」と予言している。本書は、スミスの経済発展理論を、マルクスやシュンペーターとも比較しながら再評価し、アメリカの“終末的危機”と中国の興隆のダイナミズムを、壮大な歴史的視野の中から分析したものである。西洋国家システムの弱体化、東アジアの経済的復興によるグローバル市場社会の構築という、新たな〈世界システム〉が大胆に展望される。

原書:Adam Smith in Beijing: Lineage of the Twenty-First Century, Verso, 2007.

はじめに
序章
第I部 アダム・スミスと新しいアジアの時代
 第1章 デトロイトのマルクスと北京のスミス
 第2章 アダム・スミスの歴史社会学
 第3章 マルクス、シュンペーター、そして資本と権力の「終わりなき」蓄積
第II部 グローバルな乱流を追跡する
 第4章 グローバルな乱流の経済学
 第5章 グローバルな乱流の社会的ダイナミズム
 第6章 ヘゲモニーの危機
第III部 解体するヘゲモニー
 第7章 ヘゲモニーなき支配
 第8章 史的資本主義の領土的論理
 第9章 実現しなかった世界国家
第IV部 新アジア時代の系譜
 第10章 「平和的台頭」の挑戦
 第11章 国家、市場、資本主義、そして東と西
 第12章 中国台頭の起源とダイナミズム
終章

ジョヴァンニ・アリギ・インタビュー「資本の曲がりくねった道」インタヴュアー・デヴィット・ハーヴェイ)
日本語版解説「資本主義から市場社会へ――『北京のアダム・スミス』に寄せて」山下範久
 はじめに――もうひとつの世界システム論
 1 政治的ダイナミズムの場をめぐって――半周辺論からヘゲモニー論へ
 2 ネオブローディリアンの帝国論批判/批判的帝国論
監訳者あとがき 中山智香子
参照文献一覧
ジョヴァンニ・アリギ著作一覧
人名索引
地名索引
事項索引

★『長い20世紀――資本、権力、そして現代の系譜』(土佐弘之監訳、作品社、09年1月)でアメリカの覇権の終焉を分析したアリギは、今度は本書『北京のアダム・スミス――21世紀の諸系譜』で中国の台頭を分析しています。この二冊はいずれも大冊で簡単に読み終えることができるような本ではありませんが、現代人が生きている時代の越し方と行く末を理解する上で、アリギが残してくれたいくつもの視点は得難い価値があります。アメリカの覇権の崩壊と中国の台頭、それは他ならぬ日本が一つの役割を負い続けてきた時代の決定的な変遷の、大きな目印です。本書は私たちの未来がいくつかの選択肢を持っていることを教えてくれます。「本書には、「アメリカの次は中国か」というような単純な問いに還元できない、豊かで多様な思想的、理論的論点が織り込まれている」(「監訳者あとがき」624頁)。

★本書はこう締めくくられています、「中国が政策転換によって、中国中心の市場基盤の発展、略奪なき資本蓄積、物的資源よりも人的資源の動員、政策形成における大衆参加型の政府、といった中国の伝統を回復し強化することに成功すれば、文化的差異を真に尊重する諸文明の連邦という点でも、中国は決定的な貢献をする可能性がある。しかし、中国が政策転換に失敗すれば、中国は社会的・政治的混沌の新たな震央となるかもしれない。すると、そのような混沌のなかで、先進資本主義諸国側が、崩壊しつつあるグローバルな支配を再興しようとするかもしれない。あるいは、ふたたびシュンペーターの言を言い換えれば、人類が冷戦世界秩序の消滅に続いて起こった暴力のエスカレーションの恐怖(あるいは栄光)のなかに焼き尽くされてしまうことに、中国が手を貸すことになるかもしれない」(538-539頁)。中国の軍事的脅威を日増しに感じているであろうたいていの日本人からすると、アリギの予想は悪い方で当たるのではないか、という危惧があるのではないかと思います。嫌中論の跋扈を乗り越えて日本がいかに賢明に中国と接するべきか、本書はそのヒントも与えてくれると思います。

★本書の編集担当者のUさんは最近話題の以下の本も担当されています。吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ――災害と復興、無縁化、ポスト成長の中で、新たな共生社会を展望する』(作品社、11年5月)。「地域/都市社会学の第一人者が長年にわたる調査研究をもとにまとめた、被災地の復興、共存・共生の社会構築に向けた渾身の一冊」とのことです。非常にタイムリーな一冊ですね。

★21世紀の新しい世界情勢のなかで、私たち日本人はいかなる価値をもって行動するべきなのか。そうした困難な問いを真摯に考える上で有益な新刊が先週発売されましたので、もう一冊ご紹介しておきたいと思います。

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〈恥ずかしさ〉のゆくえ
菊池久一(1958-)著
みすず書房 2011年5月 本体3,200円 四六判上製260頁 ISBN978-4-622-07604-9

帯文より:言語政治学の知見を援用し、恥の感覚を鍵とした〈思いやり〉と〈慎み深さ〉を内包する倫理を考究する。アガンベン、辺見庸、コノリーほか、多くの思想に論及。

菊池久一(きくち・きゅういち:1958-/亜細亜大学法学部教授)単独著既刊
『〈識字〉の構造――思考を抑圧する文字文化』(勁草書房、95年10月)
『憎悪表現とは何か――〈差別表現〉の根本問題を考える』(勁草書房、01年1月)
『電磁波は〈無害〉なのか――ケータイ化社会の言語政治学』(せりか書房、05年7月)

★本書の結論部分には次のようなくだりがあります。「自由、平等、正義、寛容などの民主主義的理念を唱える者たちの行為が破廉恥なものであることが暴露されるとき、自らも彼らと同じ「社会」の住人であり、その破廉恥な行為に何らかの形でどこかでつながっていると認識すれば、その恥ずかしさから逃げるわけにはいかなくなる。その場合の嫌悪の対象は、あくまで生身の人間たちであって、それら大文字の理念そのものではない。一方、高貴な人間の唱えるよりピュアな理念に統制されるより善い「社会」を求める意志が強いものは、理念も破廉恥な人間もそうした「社会」もすべて嫌悪の対象として捉えるのであり、極端な場合、自分以外の人間はすべて抹殺の対象とさえなりかねない。そのような人間にとっては、腐りきった社会の住人であると自己認識して恥を耐え忍ぶことは、もはや選択肢としてはありえず、破廉恥な行為をした輩を罰する使命感にかられる者さえ出現するのではないだろうか」(「おわりに」228-229頁)。日本の政治的危機の本質を映す一面を鋭く分析していると思います。日本の社会的現実においては今よりもいっそう、ひとは他者に対して暴力的になる危険をはらんでいると感じます。イントレランス(不寛容)が日本を席捲しようとしているのではないか、という危惧が私にはあります。がそれだけに、このくだりに私は戦慄を覚えました。

★上記の記述の後段で、著者は以下のように書いています。「多種多様の価値観をもった多元的文化的人間たちが構成する現実の「社会」は、とても美しいものなどではなくて、不快であり、醜いものであることを認めたうえでなお、自分はそのような「社会」で不様に生きることしか許されていない人間であることの〈宿罪〉の意識をもって、そのあるがままの事実をすべて恥として引き受ける者は、慎み深さという廉恥の心を知ることになろう。あるがままの恥をすべて受け入れること、それが、言葉への「信頼」を取り戻すことの一歩となるのではないだろうか」(229頁)。言葉への信頼なくして、他者への信頼もありません。誰かに責任を押し付けて現実逃避する偽りの生ではなく、慎み深さのなかで恥を受け入れることが――それは単なる現状肯定ではありません――、自己と他者、そして社会への責任を果たすための変革の第一歩になるのではないか。そんな風に鼓舞された私でありました。

★現状への安易な追認ではなく、現状に至る変化を把握した上で過去と決別する潔さを私たち業界人に教えてくれる本があります。5月24日発売と聞いています。

リブロが本屋であったころ
中村文孝(1950-)著
論創社 2011年5月 本体1,600円 46判並製186頁 ISBN978-4-8460-0889-5

帯文より:本を売ることもひとつの想像力である。芳林堂書店、リブロ、ジュンク堂書店を経て、2010年にブックエンドLLPを立ち上げた著者の《出版》をめぐる物語。再販委託制は歴史的役割をすでに終えている!! 

本文より:「淀んだこの出版業界でとくに逼迫しているのが書店で、このまま座していては消えゆくのを待つばかりです。取次店を通ってきた出版物をただ並べていただけの書店は、そのほとんどが消えてしまいました。今残っているのは、何らかの工夫をしてきた諸点ですが、それも持ち堪えてきた体力がそろそろ失われつつあります。何かのヒントにでもなればと、これまでやってきたことを、気の付いたところから喋ってしまうことにしました」(「あとがき」183頁)。

★小田光雄さんによるインタビューシリーズ「出版人に聞く」の第4巻です。挑発的な書名のゆえか、刊行前から様々な反響を呼んでいるようです。リブロはまだ本屋として存在しているわけで、現在働いている人たちに対して失礼なのではないか、といったつぶやきを聞きます。それはその通りなのですが、この書名には幾つもの思いが込められているような気がします。一つには、本屋というのは多種多様であり、様々な本屋がありうること。二つには、中村さんが考える書店像というのがあって、それを中村さんや今泉さん、田口さんらが追求してきた時代からすれば、現在のリブロはすでに別のタイプの本屋になっているということ。三つには、リブロは常に変化し続ける書店であったということ。四つには、そこで働く人の数だけ、そしてそこに通うお客の数だけ、異なるリブロ像があるのは当然だということ。五つには、中村さんや今泉さんが在籍していた時代のリブロを黄金期と見る人々にとっては、挑発などではなくドライに振り返るほかはない対象として「リブロという稀有な書店があった」と言いうるのみであるということ。六つには、リブロ「黄金期」はバブルの追い風によって偶然に成立したアノマリー(異例)なのではなくて、時代の波を追い風に「することができた」苦労人たちの工夫と努力がそこには厳然とあったということ。七つには、出版界の構造不況はますます深刻化しており、本屋が本屋であり続けるのは非常に困難であること。

★少し長くなりますが、本書の末尾の部分を引用して、中村さんご本人の声をご紹介しておきます(「コンコルディアという棚とリブロの時代の終わり」178-181頁)。

 ――つまり書店の現場において、出版社の編集とは異なる書棚におけるエディトリアルというコンセプトが発見された。
 中村 そう、本と本との組み合わせを時代の要請によって変えてゆく。その時点で組み合わせる言葉や考え方をキーワード、キータームと名づけていた。そうすることによって、新しい本の世界を浮き上がらせる。それをフェアという短い期間で終了するものではなくて、プロパーと呼ばれた通常の棚でやろうとした。店と棚のハードウェアに対して、そのようなソフトウェアとしての組み合わせの違った本の集積を中身として組みこむ、そして関係性を見せながら時とともに動かしてゆく。今は当たり前のハードとソフトの考え方だけど、当時とすれば、そんなことを考えていたのはほんとに少数だった。
 その対極としての多面積みも私が初めて遊びとして試みたものだが、あれはどの場所に積んだものが一番売れるのか、またそれは十六面なのか、二十五面なのか、そのどちらが効果があるのかという人間の行動動態の研究みたいになってしまって、本の力の問題ではなくなってしまうとわかった。だから、衝動買い向きの本にはすごく効果があった。
 つまりこれは本を売ると言う面白味の追求ではない。やはり面白いのは本が本来もっている多面性なんです。例えばエンデの『モモ』や『果てしない物語』は季節によって入れる場所と棚を変えてみた。四、五月は教育書の場所、これはシュタイナー教育絡みで、ここが一番売れる。もちろん夏と暮れは児童書、それ以外は海外文学と文芸書のコーナーといった具合に置き方を変えてみる。本が本来もっている多面性がどんどん吸着していくという感じだった。
 ――優れた本で、それなりに売れている本はどの分野においても売れるという書店での物語の追求となる。
 中村 それもあるけれど、やはり本質的には本の多面性の追求だね。ひとつのアプローチからその本の収容する分野を何々と決めつけるのは危険だとする考えだ。だからそれを季節や時代によって組み合わせを何通りも考えることが必要だ。その常設の棚としてのコンコルディアの考えが出てきた。つまりその棚のテーマは入れ替えをすることで変わっていくんだが、そこに組み合わされた本は縦横ばかりでなく、立体的に三次元的に機能していく。
 それには本をかためて置くだけでは駄目だ。本の大きさもデザインも色も全部異なるわけだから、それらの本の集合体をかたまりで展開できる見せ方、並べ方が読者に対してひとつのプレゼンテーションになるかたちの空間としての棚がコンコルディア調和しつつ、一致していくという考えだった。それが私なりの書店における集積であり、実験だったと思う。
 しかしもうその時にはリブロの時代も終わりを迎えようとしていた。二〇〇九年が小川さんの十三回忌だった。九六年に小川さんが亡くなり、今泉氏が煥乎堂に移り、私と田口さんがジュンク堂に移り、めぐりめぐってリブロは日販に買収され、そこで完全にリブロの時代は終わった。それを機にして、コンコルディアの棚も廃棄処分されてしまって、リブロも普通の大きな書店になることで生き残るという選択をしたようだし、本当にあの時代のあの空間はうたかたのように消えてしまった。
 そして私はもはや引退してしまったけれど、出版危機の中での書店の荒廃した現状だけが何も手を付けられずに取り残されている。リブロに関してはいえないこともたくさんあるし、バブルだったからと批判されてもかわまないが、本当に不思議な時代でもあったし、あのような書店の時代は再び出現することがないような気がする。だからこれは私だけの勝手な思いかもしれないが、かけ替えのない時代を生きたような気がしている。

★告白すれば私はあの「コンコルディア」で育った人間でした。ほぼ毎日のように通って長時間リブロ池袋店で過ごすあまり、コンコルディア棚のどこにどんな本が置いてあるか記憶していましたし、時折本を探しに来る店員さんより早くその本を見つけたこともありました。私が営業マンとして書店さんと一緒になって様々なフェアや棚構成を追求し続けているのは、あのリブロ「黄金期」の爆風の余韻が今なお私の中で吹き荒れているからです。それは、あの時代のリブロがバブル云々を超越して、どんなに時代が変わろうとも変えられようのない熱い魂を宿していたからで、言い換えれば、時代の波風をつかむことを追求し続けた結果、超長期的な編集遠近法のアーキタイプを見出すに至ったからだと思います。本書の「あとがき」の末尾には、今まで一緒に働いてきた数多くの同僚への感謝と、「今も元気に書店を盛り上げている人たち」への激励の言葉が綴られています。本書が単純なリブロ批判本ではないことは明らかです。残された私たちは、先達の創意工夫を検証しつつ、恐れることなく新しい書店、新しい出版界の創出へと勇気を持って踏み出せばいいのです。それが本書を読む私の流儀です。
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by urag | 2011-05-22 23:12 | 本のコンシェルジュ | Trackback | Comments(0)
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